鬱陶しいルイーゼ
俺にはこの世のなによりも鬱陶しい奴がいる。
名はルイーゼ・アントン。
アントン男爵家の一人娘であるこいつは俺の許嫁を自称している。
夕焼けを閉じ込めたかのような鮮やかな髪色に、深い森を思い起こさせるような緑色の瞳。世間一般でいえば、ルイーゼの容姿は整っているのだと思う。まぁ、その全てを言動でぶち壊しているが。
ルイーゼに初めて出会ったのは俺たちがまだ6歳の時だ。父親に連れられてブロンシュ商家にやってきたルイーゼは、表情が次から次へとコロコロ変わる騒がしい子供だった。どうやら、こんな片田舎だと男爵令嬢の友人としてかろうじて釣り合う身分の子供が俺くらいしいなかったらしい。初めてできた友達だと、最初からすごい懐きようだったのを今でも覚えてる。
俺は、そんなあいつが最初から鬱陶しくてたまらなかった。
ヴィヴィアンー生まれた時から女みたいな顔をした俺に、娘が欲しかった母親は女みたいな名前をつけた。ことあるごとにフリルのついた可愛らしいドレスを無理やり着せたり、髪を伸ばすことを強要していた時期もある。
あの時、ルイーゼと初めて出会った時も、俺はショーウィンドウに飾られている人形のような格好をしていた。
本当は嫌で嫌で仕方がなかったんだ。五つ年上の兄が庭で剣術の特訓をしている中、俺は母親の寝室で着せ替え人形の真似事をさせられていた。いくら外見が女みたいだからって、俺は男だ。家の中で閉じこもっているよりも外に出たいし、髪だって短く切ってしまいたい。女みたいな顔と格好をしている俺には、友達なんか一人もいなかった。むしろ、外を出れば「おとこおんなだ!!」なんて指を刺されて馬鹿にされてきたのだ。当たり前だが幼く純情だったはずの俺の性格は大いに捻くれた。
そんな不満が沸々と溜まってきている頃、初めての友人として俺は唯一女であるルイーゼを紹介された。
兄には、男友達がたくさんいるのに。
少女のように可愛い息子と、可愛らしい美少女が友人になることを大層喜んだ母とは違い、俺は失望した。『 なんで俺だけこんなちんちくりんの女なんか』と。
初めてできた友達であるルイーゼを邪険に扱い、受け答えもほとんど無視し、やり場のない怒りを全てあいつにぶつけていた俺は、傍目から見ればひどい友人だっただろう。だと言うのに、口を開けば嫌味や悪口を言う俺をどう思ったのか知らないが、ルイーゼは一度も俺に怒らなかった。いつもニコニコして、「ヴィーヴィーは悪口のセンスが天才的だね」だなんて、的外れなことを言うのだ。あの頃からあいつは度が過ぎた馬鹿だったから。
そのあっけらかんとした態度がまた癪に触った。何度無視しても、押し飛ばしても、拒絶しても、ピーピーうるさいひよこみたいに俺の後ろをついてくる。
鬱陶しくて仕方がない。
8年経ったあとでもルイーゼは変わらず俺につきまとい続けた。
昔はルイーゼが毎日のようにブロンシュ家へやってきていたが、あいつが淑女教育を受ける年頃になってからは、俺がアントン男爵家まで出向いている。そうしないと、俺に会えないのが嫌だとルイーゼが癇癪を起こして授業にならないと、男爵夫妻から頼まれたんだ。かなり面倒臭いが、この頃になるともうあいつのわがままや奇行にも慣れてきていた。
相変わらず、ルイーゼに対して俺の態度は酷いままだ。
「ヴィーヴィー聞いてくださいまし!今日、刺繍の授業で私は手先が器用だと褒められたんです!これは世界にたった一つしかない私からのヴィーヴィーへの愛を刺繍で綴ったハンカチですわ!」
「いらない。」
「ヴィーヴィー!これは、私が二週間かけて作ったヴィーヴィーへの愛のこもった押し花の栞です!花言葉は永遠の愛!これで私の気持ちを肌身離さず持ち歩けますわ!!」
「へー。」
「ヴィーヴィー!!ヴィーヴィー!!ヴィーヴィー!!!」
「うるさい。」
このような感じで、俺は手元の本から顔も上げずにピシャリとルイーゼを払いのける。だって仕方ない。あいにく俺は刺繍やら押し花やらには微塵も興味がないのだ。それに、ルイーゼの愛の言葉なんてうんざりするほど聞き飽きている。
こいつは歳を重ねるごとに、五月蠅さと鬱陶しさが倍増した。会うたびに俺が好きだと宣い、それを大っぴらにしているが、そんな娘を複雑な表情で見つめる男爵夫妻の心情は子供の俺でもわかる。初めは社交界デビューするまでの暇つぶし程度に構う友人を当てがったはずが、ここまで入れ込んでしまったのだ。それに対してずっと俺がそっけない態度をとっているせいで、間違いなど起こらないと信じ切っているようだが、それでも仮にも貴族の娘が庶民の男にベッタリの状況はなかなか気に食わないだろう。
流石にもう女装はしなくなったが、俺の髪はまだ肩より下まで伸びたままだ。この歳になっても、俺にルイーゼ以外の友達は一人もいない。
理由は簡単だ。俺の性格が悪すぎる。
口を開けば暴言ばかり、愛想もクソもない表情の女顔の友達になりたい奴なんて特殊趣味のルイーゼ以外いない。
俺だって自分の性格の悪さなんて分かりきっている。でも、顔につられて寄ってくる女どもも、女顔を馬鹿にしてくる男どもとも、友達になりたいなんて俺自身思えなかったのも事実だ。
毎日、毎日思う。なぜこの女だけはこんなにも俺のことが好きなんて言うのだろうか。こんな無愛想で不愉快な庶民なんかを。
「……」
「ヴィーヴィー?どうかしたのですか?お腹でも痛い?さすってあげましょうか?というか、さすってもいいですか?直で。」
顔を顰めていると、ルイーゼが顔を覗き込んでくる。ハイテンションから一転して心配そうな表情をしたルイーゼは、そっと俺の頬へ手を伸ばした。その様子が、無性に胸をかき乱すのが不快で、俺は不躾な手を「触るな」と乱暴に振り払った。思いの外強くはたきすぎたのか、ルイーゼは少しだけ悲しそうにこちらを見ている。
「……帰る。」
「えぇ!?もうですか!?夕食は、」
「うるさい、いらない。」
それだけ言って部屋を後にするが、俺の妙な苛立ちは治らない。
それは多分、最近俺の兄が男爵邸へよく訪れるようになったことも関係しているのかもしれない。
19歳の青年になった兄は、我が家の後継として相応しい大人になり、仕事の帰り際に俺を迎えにやって来る。俺とは違い、男らしい端正な顔立ちをした兄は、昔からピーピーうるさいルイーゼをよく可愛がっていた。
それが俺は気に入らなかった。俺以外の人間に懐くルイーゼにも無性に腹が立って、いつも以上に態度も素っ気なくなってしまう。そんな俺の心情を知ってかしらずか、兄も比例するようにルイーゼに構うことが多くなった。「お前はそろそろ自覚するべきだからな」だとかなんとか言っていたが、そもそも全ての原因は兄にあるんだ。意味のわからないことを言っている暇があるならとっとと俺とルイーゼの前から消えて欲しい。
そんなある日の帰り時のことだった。俺が少しだけ席を外した隙に二人の会話を聞いてしまったのは。半分開いた扉からは二人の声はよく通る。廊下まで伸びている影から、またいつものように兄がルイーゼの頭の撫でているのがわかった。
「どうした、ルイーゼ?またヴィヴィアンに意地悪でもされたのか?」
「…いいえ、その…お庭で遊んでいる時に、振り返った瞬間ヴィーヴィーを私の髪で打ってしまったのです。彼を怒らせたばかりか、綺麗なお顔を傷つけてしまって…いっそのこと切ってしまおうかなと」
「っえ、切っちゃうのか!?それはダメだよ、ルイーゼ!髪は女の命なんだから。それに、長いんだったら後ろでまとめてしまえばいいだろう?」
「でも、後ろに垂らしていないとヴィーヴィーに髪を引っ張ってもらえませんわ!」
「え!……貴族のご令嬢にそんなことをしているのかあいつは…!?はぁ、ごめんな。帰ったらちゃんと叱っておくよ。」
言いがかりだ。俺は別にあいつの髪を意地悪引っ張っているんじゃない。あいつが俺の話を聞かないでどんどん先へ行こうとするから、転ばないようにと引っ張って抑えてやっているんだ。何も知らない兄から偉そうに叱られると思うと、眉間に皺を寄せてしまう。
「ルイーゼの髪は長くて綺麗なんだから、もっと大事にしないとダメだぞ。」
「っ本当に?私、綺麗?」
「あぁ、もちろん。ルイーゼは可愛いから、きっと大人になったらすごい美人さんになれるぞ!」
「っ!!それなら、私のような女でもお嫁さんに貰ってくれるでしょうか?」
はしゃぐあいつの言葉に、勝手に目が見開く。
聞くに耐えなかった。衝動のままもう半分の扉を蹴り開けると、無防備に兄に頭を撫でられたままのルイーゼが目に入って、はらわたが煮え繰り返るような思いがする。いきなり現れた俺に嬉しそうに声をかけるルイーゼを無視して、俺は兄を睨め付けると「帰る」とだけ言いそのまま正面玄関までさっさと歩いて行った。ドス黒い感情が胸の中を支配して気持ち悪い。
『 私のような女でもお嫁さんに貰ってくれるでしょうか?』
馬鹿、阿保、嘘つき。大嫌いだ、あんな奴。あんなに俺のことが好きだと言っていたのに、あっさりと兄に甘えるルイーゼが許せなかった。
…嫁にもらって欲しいだなんて、俺ですら言われたことがないのに。今まで想像すらしたことがなかった。あれは俺だけのことを見ていると思っていたから。
兄はかっこいい。ここ何年かでうんと背が伸びて、短く切り揃えられた髪が物語に出てくる騎士のようで、彼に憧れる女性は少なくなかった。俺が欲しいものを全部持っている兄が、俺は嫌いだ。
今より少し大人になったルイーゼが、そんな大嫌いな兄の隣に立つ姿を考えるだけで訳の分からない怒りで狂いそうだった。きっと、そんなことになったらあいつも兄も、殺してしまうんじゃないかと本気で思う。
ルイーゼだけは俺のことを好きだといった。ルイーゼだけが俺のことを見てくれる。ルイーゼには俺しかいないのに、他の誰のことを見てはいけないのに。
でも、心のどこかでやっぱりと納得する声があった。ルイーゼが俺に執着するのは、初めてできた唯一の友達だから。好きだと毎日言ってくるのも、きっと友達としての好きを恋愛的な好きだと勘違いしているだけ。全部全部、薄っぺらいお遊びの言葉でしかなかったんだ。当たり前だ。俺みたいな性格が悪くて意地悪ばかりする女々しい奴を、誰かが本気で好きになるわけがない。
そんなことがグルグルと頭の中で回り続けて、消えてくれなかった。
ーー
それから一週間ほど、俺は男爵邸へ行かなくなった。
今、あいつと顔を合わせたら怒鳴り散らかして乱暴してしまうのではないかと思うほどに感じる怒りが、いつまで経っても治らなかったからだ。偉そうに小言を言う兄も、心配したルイーゼから大量に届く手紙も全部無視して、俺は自室に閉じこもった。
引きこもっている間、毎日毎日ルイーゼは俺を訪ねたが俺は無視を決め込んだ。1度だけ、扉の向こうで落ち込んでいるところを兄に慰められている声を聞いた時は、思わず「帰れ!」と大声で怒鳴ってしまったけど。
でも、あれから一週間たつ頃、とうとう男爵夫人が直接俺に頭を下げに来てしまった。ここ2週間の間で、ルイーゼは授業も食事も放棄して随分とやつれてしまったらしい。自分たちではどうにも出来ないから、少しだけでも屋敷に顔を出してはくれないかと言われた。
「ルイーゼは、あなたのことを…友人として今も一番大切に思っているの。あなたは嫌かもしれないけど、私たちのためにもお願い。」
夫人の言葉にぴくりと目が痙攣する。そんなの俺の知ったことではない。そのままやつれて醜くなって、兄に振られてしまえばいいんだ。
そんな最低な考えがよぎるが、流石に夫人に頼みこまれては断れない。この人は、前妻の忘形見であるルイーゼを実の娘のように可愛がる人だった。本当なら、そんな可愛い娘を傷つける俺のことが憎くたらしくて仕方がないに違いない。それでも、ルイーゼのためならばとわざわざやって来たのだ。
二週間ぶりに顔を合わせた時のルイーゼのやつれ具合は、酷かった。ふっくらと紅がかっていた頬は痩せこけ、ストレスで爪を噛んだのか指先はボロボロになっている。こんな姿になっても、毎日俺に手紙を書いては家を訪ねてきたのかと思うと、一気に押し寄せてきた罪悪感で押しつぶされそうになった。
「っヴィーヴィー!!」
俺のせいで酷い目に遭ったと言うのに、俺を見つけた瞬間、ルイーゼは瞳を輝かせて一目散にこちらに駆けて抱きついてきた。俺に触れていないと息ができないとでも言うように深く息を吸って、肩に顔を埋めてくる。普段であればすぐにこいつを剥ぎ取っていたが、この時はそんなこととてもじゃないができなかった。
8年も一緒に過ごしてきた中で、こんなに近くでルイーゼの顔を見るのは初めてだ。
泣いている顔を見るのも初めてだった。
震えながら泣いているこいつの顔を見ると、胸の辺りが苦しくて死にそうになる。どうして泣くんだ。今まで俺が何をしたってお前が泣いたことはなかったのに。
「ルイーゼ…?」
「ヴィっ、ヴィーヴィーごめんなさい!ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!お願い私を嫌わないで私の前から消えないでいなくならないで、私を許して!ヴィーヴィー、ヴィーヴィーお願い、あなただけなの。あなたを愛してるの、あなたしかいないのぉ…!」
泣きながらヒステリックにそう捲し立てるルイーゼは、きっとどうして俺に避けられていたのかすら分かっていない。だって、こいつは馬鹿だから。馬鹿だから自分が何をしたのか馬鹿なりに考えて考えて、それでも分からなくて。ビービー泣いて謝るしかできないんだろう。
顔をべちゃべちゃにして泣き喚くルイーゼの姿に、なんだかひどく胸が痛んだ。それなのに、不覚にも可愛いとも思ってしまった俺は矛盾しているだろうか。俺の服に皺を作る勢いで縋り付いて、泣きながら俺に許しを乞う姿は可愛い。俺のせいで痩せてしまったちっぽけな体が可愛い。泣きすぎて腫れた目も可愛い。俺の名前を絶えず呼び続けているせいで枯れてしまった声でさえも、堪らなく可愛かった。
嘘つきのくせに。
「……悪かったよ。ほら、お前の部屋に行こう。」
「うぅ…ヒック、っヴィー、ヴィー、どこにもっ、行かない?」
「…行かないから、その汚い顔を拭け。」
「やあだぁ!ヴィーヴィーのシャツがいい…ふわふわフリルのシャツぅ……!」
イヤイヤと俺から引っ付いて離れないルイーゼを、俺はどうにかして部屋へ引っ張った。長椅子に座らせてもすぐに俺の膝に乗り上げてきて肩に顔を埋めてくるルイーゼは、飼い主に構って欲しくて堪らない犬のようだ。少しでも離れようものならばまた大泣きしだすので、仕方なく俺はされるがままになる。
しかし不思議だ。あんなに何日も収まらなかった怒りや胸のモヤモヤは、こいつの泣きべそを見た瞬間何処かへ消えて行ってしまった。
思い出そうとすればまた苛立ちが湧いてくるのかもしれないが、今はそんなことよりもこいつを泣き止ませたくて仕方がない。
ぎこちなく、あやすようにルイーゼの背中をさすると、安心するようにしゃっくりが少し落ち着いた。
泣きすぎで汗もかいたのか、顔中に髪の毛が張り付いている。それを払って耳にかけてやると、ルイーゼの深緑色の瞳と目が合う。
唐突に、弱っているこいつが言うことはなんでも信じられるような気がした。
「……お前は、本当に俺のことが好きなのか?」
「っもちろん、ですわ!!ヴィーヴィーはっ、私の愛を、っ疑うの…?」
途切れ途切れの言葉で、怒ったようにこちらを睨め付けるルイーゼは珍しい。いつも、俺を見る時はニコニコした笑顔だったから。
なんだか今日は初めてみるルイーゼばかりだ。
「…でもお前、兄さんと仲がいいだろ。」
「っそれは!ヴィーヴィーの、っお兄様だから!」
「……この前、お前は兄さんのお嫁さんになりたいって言ってた。」
「っそんなこと一言も言っておりませんわ!!私がお嫁にいきたいと思うのはヴィヴィアン・ブロンシュただ一人だけです!!」
今度こそ完全に怒っている。心外そうに釣り上がったその目つきからすぐに分かった。
「ヴィーヴィー、私は怒っておりますのよ!!」
あぁ、ほら。本人もそう言っている。
「いきなり半月間も私の前から消えるだなんて…!わたっ私、あなたに本当に嫌われてしまったのかと思って、っし、死んでしまいそうでしたわ…!」
また泣き出した。さっき散々流しただろうに、ルイーゼの瞳からは大きな雫がいくつも溢れ出している。
「あなたのことを愛しているのです…!私はあなたに嫌われてしまったら、置いて行かれてしまったら生きていけない…私にはあなたのことしか見えないのに…!!」
「……あぁ、そう…」
なぜだ。情熱的なルイーゼの愛の告白に、俺は間の抜けた返事しかできなかった。求めていた真実が、思ったより単純だったからかも知れない。
こいつがこんなに大泣きしているのは、俺に会えなかったから。俺に嫌われると思ったから、俺に置いていかれると思ったんだ。鼻水垂らしてまでべそべそ泣くのは、俺のことを愛してたまらないから。
…俺は今まで壮大な勘違いをしていたかもしれない。いや、勘違いを勘違いしていたのか。こいつにはやっぱり俺しかいないし、俺のことしか見ていない、愛していない、好きじゃない。
その事実が腑に落ちると、心の黒いモヤが消える感覚がした。
ーー
どのくらいそうしてルイーゼをあやしていたのかはわからない。ただ、泣き疲れて眠るルイーゼに釣られて、俺も眠りについたことだけは覚えている。
ふと、目を覚ますと隣にルイーゼはいなくて、部屋中には微かに嗅ぎ覚えのないお香の香りがした。吸い込むと、一気に酒に酔ったような感覚に襲われる。
急いで立ち上がり一見誰もいない部屋を見渡していると、背後で扉が閉まり鍵がかかる音がした。振り返るとそこにはいつの間に目を覚ましたのか、なぜか薄手の格好をしたルイーゼが立っている。
「…ルイーゼ?」
「ヴィーヴィーごめんなさい。私にはもうこうするしかないのです。」
「…は?」
一体なんのことだと問い詰めようとしても、頭がふわふわして思考が定まらない。そのままぼーっと突っ立っていると、一気に距離を詰めてきたルイーゼに唇を奪われた。突然のことに体が硬直する。驚いて口を開けた隙に、彼女の舌が入り込んで息継ぎも出来ないような深い口付けをされた。されるがままにルイーゼにベッドへ押し倒されると、女の柔らかい体がのしかかってくる。
思えばこいつとキスをするのは初めてだ。いや、別に他で経験があるわけでもないけど。
ルイーゼは愛が重い変態のくせに、キスなんて頬にもされたことがなかったと、こんな状況下でぼんやり思ってしまう。
頬に水滴を感じて反射的に瞑っていた目を開けると、またルイーゼが涙を流しているのが見えた。
何故、という疑問が頭に浮かぶが、あの妙なお香のせいで頭がはっきりしない。頭の中がぐちゃぐちゃだ。糸を引いてお互いの唇が離れた頃には、二人とも息絶え絶えだった。
「ル、イーゼ、なんで」
いきなり口付けをされたことよりも、せっかく泣き止んだはずのルイーゼが、また泣き出したことのほうがずっと不快だった。また俺のせいだろうか。俺のせいに決まっている。思わず体を起こしてルイーゼの頬に触れようとすると、バッと顔を上げた彼女と目が合った。
「あぁ、なんと言うこと!あのヴィーヴィーが、私の下に…!!」
ルイーゼは俺を押し倒しているこの状況に興奮して涙を流していた。
頬を紅潮させ、目をハート型にしてはしたなく涎を垂らす姿は、痴女以外の何物でもない。
俺はこの時ばかりはあの妙なお香に感謝した。あれがなければ、この時点で俺は萎え腐っていたかもしれない。
この馬鹿女。さっきまで痛いけな少女のように涙を流していたと言うのに。口付けとは関係なく息の荒いルイーゼに、先ほどまで感じていた罪悪感や悲壮感は一瞬で消え去った。そうだそうだ、お前はそう言う奴だったよな。
「…お前、少しは口を閉じたらどうだっん、!」
不機嫌な俺の口を、生意気にもルイーゼは塞ぐようにまたキスをした。本当になんなんだこいつ。っなんで無駄に手慣れているんだ!!
俺が息継ぎをするにも精一杯な中、ルイーゼは好き勝手に俺の体を弄っていた。血迷ったのか、数時間前までの弱々しいお前は一体なんだったんだと叫びたくなるほど大胆だ。母親の趣味でフリルの多い俺のブラウスのボタンを外していくと、ひんやりとしたルイーゼの手が熱った体に直接触れる。
そして直後、彼女の動きが止まった。
「…ヴィーヴィー、あなた女の子にしてはお胸がないのね。」
………は???
「は??」
「昔から随分細身な方だとは思っておりましたけれど、ここまで平らだと…ヴィーヴィー、あなたちゃんと食べておりますの?戸棚のマカロン食べます?」
「は???」
「あ!もしかしてお胸が少ないから今の今まで男の子のような格好を…?」
「は????」
「あぁ、勘違いしないで欲しいのですが、私はヴィーヴィーのお胸があろうと無かろうとどちらも愛しておりますわ!」
「おい待て。……ルイーゼお前、まさか今の今まで俺のことを女だと思っていたのか?」
「え?えぇ、まぁはい。」
本当に何を言っているんだこいつは。馬鹿なのか?いや、馬鹿なのか。俺も馬鹿だ。こいつが相当な馬鹿だと言うことをたった二週間会わなかっただけで忘れるとは。
なんだこれは。先ほどはあんなに俺のことを愛していると真剣に語っていたくせに、そもそも男として見ていなかったと言うことか?え、やっぱ友愛?でも、じゃあ今こいつに押し倒されている状況はなんなんだ。深めの口付けだってされた。あぁ頭がいたい。全部こいつとお香のせいだ。
とりあえず、
「………お前は俺のことを愛しているんだよな?恋愛的に。」
「当たり前ですわ!先ほど何度もそう申したではありませんか!」
「…俺は女じゃないぞ。」
「えぇ!?そうなのですか!?まぁ別にどっちでもいいのですけれど!既成事実さえあれば、両親も私たちの結婚を許してくれるはずですから!」
「……信じられない」
本当に俺のことを女だと思っていたのか…!?信じられない。やっぱこいつ嫌いだ。ありえない、ほんとムカつく半年間口聞かないでやろうか数時間前の俺の感動を返せ腹の上でぴょんぴょんするな馬鹿女!!!
衝動のまま体制を変えて女を押し倒し返すと、びっくりして見開かれた目と目が合う。
「お前、本当の本当にこの8年間俺が女だと思って生きてきたのか…?てか、既成事実ってなんだよ。」
「えぇ…ヴィーヴィー、怒っているのですか?心配しなくとも、私はヴィーヴィーの性別がどっちであろうと愛しておりますわよ?私が好きなのはヴィーヴィーという人間なのですから。」
キョトンとこちらを見上げる顔が心底憎たらしい。先ほど消えたはずの苛立ちとストレスが倍になって戻ってきた気がする。
要するに、こいつは俺のことが好きすぎるあまり、たとえ俺の性別が女であろうとも愛を貫き通すつもりだったということなのだろう。
俺は今、感激するべきなのかも知れない。こんなにも直向きに俺のことを愛してくれる女を愛おしく思うべきなのかも。
………でも、それとこれとは違うだろクソが!!!!
「お前、本当にどうしようもない大馬鹿だよ。」
半ば投げやりになってしまった俺は、悪くないと思う。
ーー
「で、お前はそのクソの役にも立たない空っぽの脳みそをフル回転させた結果、俺の同意もなしに寝込みを襲おうと企んだわけか。」
ルイーゼの馬鹿がうつって一夜の過ちを犯してしまった俺は、目の前で正座させたルイーゼのつむじを見下ろしている。窓の外はもう真っ暗だ。
こいつの両親は夜は観劇に行っていていないし、使用人ももう眠りについている頃だろう。二週間ぶりに再会した俺たちに気を遣っているのか、今の時間を邪魔をする人間は誰もいなかった。これも、10年近く一緒にいて何もなかったが故の信頼なのかもしれない。
ただその信頼は、つい数刻前に目の前の馬鹿女のせいで裏切られたのだが。
「はうぅ…怒ったヴィーヴィーもかっこいい…!」
「反省もクソもないな。」
「気持ちよさそうに眠っていたヴィーヴィーを起こしてしまったことに関しては申し訳ないと思っておりますわ。」
「そこじゃねぇよド阿呆。」
「焦って行動を早めてしまったことも反省しております!でも、それはそもそもヴィーヴィーが私を一月も放置するのが悪いのですわ!!」
「俺がお前に会わなかったのはたったの二週間だし、だとしてもそれはそもそもお前が馬鹿なのが悪い。」
いつもより数段口が悪くなってしまうが俺は悪くない。何もかも悪いのはこいつなんだから。
…いやでも、そもそもこの単純馬鹿の明白すぎる愛を疑ってしまった時点で俺が悪いのかもしれない。結局あの悩んで怒って無視した二週間は全て無駄だったのだから。
話を聞く限り、この馬鹿は無視された期間中俺たちは所詮ただの友人でしかなく、何かあった時は簡単に切れてしまう関係なのだということに気づいたらしい。そこで正式に両親に結婚を望んだが、ただの商家の次男坊に貴族の血筋をひいた大事な娘をやりたくない男爵夫妻はそれを却下(後に聞いた話だが、この時点でルイーゼは却下された理由は俺が女だからだと思っていたらしい。本当に脳みそがキャビア1粒分しかない大クソバカとしか思えない)。俺に会えないストレスも相まって血迷ったこいつは、次俺に会った時に寝込みを襲って既成事実をつくってしまおうと試みたそうだ。
この馬鹿の中では、既成事実イコール結婚らしいからな。
観劇から帰ってきたこいつの両親の反応は想像するに耐えない。特に、あの男爵夫人からは頬の一つや二つ打たれそうだ。あの人は俺がルイーゼの”友人”であることをよく強調していたから。
それでも、既成事実は既成事実だ。男爵家も、一旦は俺たちの仲を受け入れるだろう。渋々だろうが、元々俺を男爵家に連れ戻してきたのも彼らなのだから。
「ヴィーヴィー、これで結婚できますわぁ〜私だけのヴィーヴィーになれるんですぅ〜」
「……」
ナメクジみたいに俺の足に縋り付く女を見て、俺はやはりこいつと結婚するしかないのかと思う。
8年間絶えず聞いてきたこいつのピーピー声を、これから先一生聞くのかと思うと勝手に顔が顰めった。足元のルイーゼを引き上げて膝に乗せてやると、緩み切った笑顔と目があう。
ルイーゼはうるさいしわがままだしうるさいし、何より俺の性別を8年間も勘違いしていたような奇跡的な脳みその持ち主だ。
俺はいつかこいつにうんざりしてしまう日が来るのかもしれない。鬱陶しくて仕方がないと、また昔のように突き飛ばしてしまうかもしれない。
それでも、こいつはいつまでも俺の側にいるのだと思うと、皺のよった眉間は自然と緩まった。兄でもない、誰の隣でもない俺の隣にこいつは立つんだ。それこそ、一生。
細い首筋に顔を埋めると、くすぐったそうに名前を呼ばれる。
それがどうしようもなく鬱陶しかった。
ーー
16になった春、俺は王都で有名な学園への入学の招待を受けた。
昔から屋内で本ばかり読んでいた影響か、俺はそんじょそこらの坊ちゃんよりもずっと頭脳が優秀らしい。昔からルイーゼよりは確実に頭が良いと知っていたが、俺は国規模で見ても天才なんだとか。ルイーゼと一緒に授業を受けさせてもらった中、俺の才能を見抜いた家庭教師がわざわざ王都から学園の教授を紹介してくれたのだ。兄からは「お前は確かに勉強はピカイチだが、その他のことになるとてんで馬鹿だけどな〜」と言われ本気で殴った。逆に俺が手を痛めた。
母親の強い反対を押し切って髪を切り、剣術を初めて体を鍛え始めた俺を、女だと勘違いするものもいなくなった。母親にはがっかりされたが、昔より断然男性らしさが出てきて、街中を歩けば女性から声をかけられることも多い。それと比例するように、ルイーゼはひどく嫉妬するようになった。
ちょっとでも他の女から視線を浴びようものなら、刺し殺す勢いで周りを威嚇する彼女はさながら番犬だ。
「害虫どもから私の愛おしい許嫁を守らねば!」
それが、最近ルイーゼの口癖になっている。
ルイーゼが俺に付いて学園にくると言ったときは、少しも驚かなかった。むしろ当たり前だ。ここでついてこなかったらそれはルイーゼじゃない。
学園に入ってまでもこのピーピーうるさい女が引っ付いて回るのかと思うと、多少うんざりしてしまうが。
こいつは数年前に兄が言った通り、綺麗になった。特に、あの再会の日を境にして。
俺とルイーゼは、あの日一線を超えた。
そのことが発覚した後、俺はやっぱり男爵夫人に2度も頬を打たれた。両親も兄も顔を真っ青にして男爵夫妻に謝り倒していた中、ルイーゼだけが死ぬほど上機嫌だったのはやはりさすが空気の読めない馬鹿である。
だが、そもそもけしかけたのは娘の方だし、両家とも嫌というほどルイーゼの俺に対する執着を知っているためか、俺たちは一応許嫁となることが許された。ただし、口約束程度のものだが。男爵家からすれば、正式な婚約はできるだけ先延ばしにしたいのだろう。
当然だ。いくら既成事実があろうと、ブロンシュ家は多少裕福なだけの爵位も持たない商家。夫妻は、この先出会うかもしれない他の貴族との婚姻の可能性を、できるだけ残しておきたいのだと思う。
虫が寄ってくるのは何も俺だけじゃない。
「ブロンシュは、彼女のどこがいいんだ?」
「は?」
昼食どき、いきなり質問を投げかけてくる同級生に、俺は不機嫌そうに聞き返した。彼の視線の先には、どっかの令嬢と取っ組み合いをしているルイーゼがいる。
「お前の許嫁のことだよ。あっちの方はご丁寧にもお前がいかに素晴らしい人間(笑)なのかを挨拶がわりに教えてくれるけど、お前の方からそういうこと全然言わないだろ?」
「………」
「いや、別に特に深い意味とかはないけどさぁ〜。どうして孤高の狼なお前が、長年あんな束縛系女といるのか気になってな。」
「…なんで、お前はそんなことを知りたいんだ?」
「本当に深い意味はないよ、ただ純粋な興味で。」
嘘だ。
「本当に?お前はそれを知って一体どうするつもりなんだ?そもそも答えなんかを求めているのか?お前は俺があいつに無理やり許嫁を名乗られていると思っているのだろう?俺が平民だから、仕方なく男爵令嬢であるあいつにしたがっているのだと。でもお前はこうも思っているはずだ。ヴィヴィアン・ブロンシュは好きでもない女に従わされるようなやつではないと。だからお前は密かに期待しているんじゃないのか?いつか、あいつが俺に捨てられて一人になることを。そうしたらお前にとっては都合がいいからな。お前はたまたま実家が爵位を持っているし、アントン男爵家ともたまたま親が縁を持っている。今は俺にぞっこんだろうが、俺に捨てられて傷心のあいつならば、うまく取り入って結婚まで漕ぎ着けることが出るのではないかと、そうお前は考えているんだ。無関心を装うったって無駄だ。お前の視線はいつもあいつを追いかけているのを俺は知っている。お前は光に群がる虫みたいにあいつに引き寄せられているんだなんたってあいつも黙れば美人と言ってもいい顔をしているからな。でも残念だったな、あいつはお前のことなんか見えていない。あれはいつだって俺のことしか考えていない、見えてない、愛していない、好きじゃない。それはたとえあいつが俺に捨てられたとしても変わらない。お前じゃ変えられない。わかるか?お前に望みなんてものは存在しないんだよわかったらその薄汚い面でルイーゼを見るのをやめろこのクソ豚が。」
一気にそう捲し立てた俺に、クソ豚…同級生は亡霊でも見ているかのような表情で俺を凝視している。放心状態から抜けだせないのか、そのまま硬直しているやつを無視して俺は席を立った。クソ豚はそのまま一生何もないところを見続けていればいい。
ルイーゼの名前を呼ぶと、そんなに大きな声ではなかったにも関わらず、あいつはすぐにこちらを振り向き駆け寄ってきた。
自然と指を絡めると、必要以上に力を入れてしまう。
先ほどは同級生にあんなことを言っていたが、俺はいつだって胸にほんの少しの不安を抱えている。
いくらこいつが俺のことを好きでも、いつか横から掻っ攫われてしまうのではないかという不安が、いつまで経っても消えてくれない。男爵家は、まだ俺たちに心から納得しているわけじゃない。所詮俺はただの商人の息子で、口約束の許嫁だ。
だから俺は早く学園を卒業したい。たかが歴史がちょっと深いくらいの男爵家なんか、ねじ伏せるほどの権力を早く手にしたかった。
ルイーゼは卒業後に正式な婚約を結べると信じているが、生憎俺はそんな楽観視できるほど馬鹿じゃないから。人の信頼や思い込みで成り立っているものが、最も簡単に裏切られることを俺は身をもって知っている。
「ヴィーヴィー、見まして!?私さっきあの害虫令嬢を捻り潰して差し上げましてよ!」
「あぁ、そうだな。どこぞのご令嬢をちぎってはなげ、ちぎってはなげを繰り返すお前の姿は実に愉快だったよ。」
だからルイーゼ、お前だけは俺のことを見続けてくれ。
裏切ったら許さない。そういう思いを込めて、俺はあいつの綺麗な手を握った。




