婚約破棄されたので身を引いたら、王弟殿下に最初から囲われていました
夜会の中央で、婚約破棄が告げられた。
予定調和みたいに。
音楽が止まる。
ざわめきが遅れて広がる。
視線が、集まる。
――逃げ場がない。
「俺は、お前との婚約を解消する」
エドガーの声は、よく通った。
迷いがない。
隣の令嬢の手を取る仕草が、わずかに遅れる。
笑っているのに、目が泳いでいる。
(……噛み合っていない)
違和感が、残る。
「この人を、愛している」
その言葉が、軽い。
借り物みたいに。
喉の奥に、引っかかる。
それでも。
エリシアは、息を整える。
「……承知いたしました」
それだけを返す。
ざわめきが揺れる。
期待された“何か”が起きなかったみたいに。
「随分と、あっさりしているな」
エドガーの声。
遠い。
意識が、別の場所に引かれている。
――視線。
背に、落ちる。
ぞくり、と。
皮膚が粟立つ。
ゆっくりと、振り向く。
柱の影。
光の外に、ひとり。
レオンハルト。
動かない。
ただ、見ている。
最初から、ずっと。
視線が、絡む。
外れない。
(……見られている)
違う。
(……なんで)
息が、浅くなる。
逸らしたいのに。
できない。
そのまま。
一歩、踏み出していた。
引き寄せられるように。
「……ご覧になっていたのですね」
声が、わずかに掠れる。
「ええ」
短く。
「最初から」
その一言が、落ちる。
逃げ場のない音で。
そして。
「ようやく、手放したな」
意味が、追いつかない。
でも。
その言い方は、
まるで。
最初から、そうなると知っていたみたいで。
廊下に出た瞬間、
足元が、わずかに揺れた。
息が、続かない。
整えていたはずの呼吸が、ほどけていく。
(……立って)
思うのに。
力が、入らない。
そのまま。
崩れる。
――前に。
腕が、支える。
落ちるより先に。
当然みたいに。
引き戻される。
「壊さない」
低く。
すぐそばで。
その声に。
張り詰めていたものが、ほどける。
内側から。
静かに。
「……っ」
息が、揺れる。
触れられているのは、ほんの一部なのに。
そこから、広がっていく。
崩れかけていたものが。
ゆっくり、形を取り戻す。
外からじゃない。
内側を、なぞられるみたいに。
「そのままでいい」
耳元で、落ちる声。
逃がさないのに。
締めつけない。
ただ、留める。
それだけで。
力が、抜ける。
(……楽、)
思ってしまう。
その瞬間。
境界が、滲む。
自分と。
彼の。
区別が、曖昧になる。
「崩さない」
短く。
それだけで、十分だった。
呼吸が、整う。
心臓が、落ち着く。
気づけば。
立っている。
自分の足で。
けれど。
支えられていた温度が、残る。
離れたあとも。
消えない。
数日後。
王宮は、静かに歪み始めていた。
決裁が遅れる。
人が動かない。
小さな綻びが、広がる。
「どうして、こんな……」
エドガーの声。
その隣で、令嬢が目を伏せる。
「王弟殿下の……」
その一言で。
すぐに、理解したわけじゃない。
ただ。
引っかかる。
夜会の光景が、浮かぶ。
あの視線。
あの言葉。
整いすぎた流れ。
(……違う)
偶然じゃない。
そう思った瞬間。
ひとつ、繋がる。
さらに、ひとつ。
言葉の端。
仕草の遅れ。
視線の向き。
すべてが。
少しずつ、噛み合う。
(……最初から)
息が、止まる。
指先が、冷える。
でも。
否定できない。
むしろ。
納得してしまう。
「理解したか」
背後から、声。
振り向く。
レオンハルト。
逃げない視線。
「……あなたが」
問いながら。
もう、わかっている。
「どう思う」
試す声。
逃げ道を残したまま。
でも。
外には出さない。
「……そうとしか」
言葉にする。
その瞬間。
すべてが、確定する。
「正解だ」
あっさりと。
軽く。
でも、外さない。
「欲しかったから」
同じ言葉。
でも。
今は、重い。
全部、含んでいる。
「逃げるか」
静かに。
選ばせる声。
エリシアは、目を閉じる。
一瞬。
開く。
「……いいえ」
答える。
その瞬間。
引き寄せられる。
迷いなく。
でも、乱暴じゃない。
逃げ場を残したまま、奪う。
呼吸が、近い。
混ざる。
「そうか」
低く。
満ちる声。
それだけで。
抗う理由が、ほどける。
崩れるのは、遅れて。
でも、確実に。
「エリシア!」
振り向く。
エドガー。
「お前が必要だ」
届かない言葉。
「……遅かったですね」
静かに、切る。
余白なく。
「……あの男か」
理解している顔。
「……ええ。でも、今は、私が」
……選びましたから。
言葉にならない言葉。
それで、終わる。
完全に。
一歩、引く。
距離を断つ。
その瞬間。
背に、触れる。
引き寄せられる。
抗わない。
知っている温度。
「綺麗に切ったな」
わずかに、笑う気配。
「全部、思い通り?」
「いいや」
短く。
「最後に選んだのは、お前だ」
その言葉が、落ちる。
深く。
逃げ場なく。
「後悔は」
問われる。
エリシアは、目を伏せる。
残る熱を、辿る。
「……いいえ」
短く。
はっきりと。
抱き寄せられる。
静かに。
深く。
「なら、いい」
夜が、落ちる。
触れている場所だけが、熱を持つ。
離れない。
離さない。
でも。
選ばせたまま。
――もう、戻れない。
戻りたいとも、思わなかった。




