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短編集

ミートボール

作者: 豆苗4

 衝撃とはささやかな風のことだ。彼はそう書き残したっきり出掛けて行ってしまった。おそらくもう戻ってくることはないだろう。一抹の寂しさのようなうす紫色の影と胸のすくような白色の熱をビールで押し流しながら、しばし酒場の一角で彼の不在に浸ることにした。

 彼は愚鈍なウサギのような口ぶりで物事を語る男だった。しかし、不思議な魅力のある男だった。言っていることは滅茶苦茶だし、整合性もない。話の流れは巨大迷路に迷い込んだよりもぐちゃぐちゃで、マゼラン海峡に突っ込むよりもひどい酔い、悪臭のするひどいものだった。しかし時折見せる跳躍の予感に我々はついぞ固唾を飲んで見守る他なかった。彼は身も心も飛んでいたのだろうと今になっては思う。残念ながら口がついてこないのだ。どうやら彼の口に羽は生えていないらしい。もしも生えていたならば、どぶにまみれながら底に埋まった宝石を素手で掴むような愚かな真似はしなかっただろうに。彼の口癖は「”meet”するんだ」だった。こうとも言っていた。「ぶち当たるんだ、交差するんだ、ぶつかるんだ、何はともあれ」。何にと聞いてみても、彼は例の要領を得ない風で首の座らない赤子のように、熱に侵された病人のうわ言のように「”meet”するんだ」を繰り返すばかり。我々が痺れを切らし、再び「だから何に」と語気を強めて聞くと、しばらく黙った後に「ボール」の蚊の鳴くような声で今にも消え入りそうになりながら答えた。その日から彼はミートボールと呼ばれるようになった。多くの人が蔑称じみたニュアンスで使ったが、中には敬意を込めて呼んでいる人いた。そのような人々に何が彼に対してそうさせるのか聞いてみたが、彼らは皆一様に言葉を濁し、彼に直接聞いてみなさいという人ばかりだった。そこで彼に直接聞いてみることにした。彼は非常にゆっくりしゃべるし、十を聞いても一しか返ってこない。しかし、私は気になったのだ。あの怪物じみた予感は、背筋の凍るような薄ら寒い罪悪なのか、それとも島々をひとっ飛びに駆け抜ける魔法の翼なのかを。

 結局三時間かけて彼から引き出すことのできた単語は、名詞にしてビリヤード、ボール、花、波、塔、ドラム、衝撃、動詞にして"meet"、ぶつかる、交わる、回る、叩くであった。彼はこの世の疑問符を顔じゅうにくっつけている私の顔を見て悲しそうにしていた。彼は恐る恐るこちらを見ると意を決したかのように紙を準備すると私にペンを持たせた。そして例のたどたどしい口調で紙にあらゆる疑問を書き尽くしてほしい、私が寝ている間にそこに書いたことや書いていないことのすべてに答えるだろうといったようなことを述べた。私は耳を疑ったが、兎に角忘れないうちに書き記そうと思い立ち、彼との会話で生じた疑問を列挙した。その紙を彼に渡すと彼は転寝を始めた。すると彼の手が凄まじいスピードで動き始めた。どうやら彼の言ったことは本当らしい。私は内容が気になったので、彼の動きの邪魔をしないよう注意深く内容をのぞき込んでみた。すると、その文章の何と美しいことか、私は腰を抜かしてしまった。日頃の彼からは想像もできないような美しい言い回し、簡便かつ創造的な表現。そこにすべての愛があった。しばらくして彼が書き終わったのか目を覚ました。

 私が目を輝かせて文書を読んでいる様子を見て、軽く頭を押さえながら彼は戸惑いと物悲しさの混じった複雑な表情をしていた。彼は流ちょうな喋り方で「これは実は君の記憶なんだ。君の奥深くにあって思い出せない記憶なんだ。すべての記憶は消えるんじゃなくて思い出せなくなるだけなんだ。」といった。私は興奮冷めやらぬ様子で彼にお礼を言った。彼は続けて「ただ、残念だけど記憶はまた再び薄れていくんだ。この紙の内容も。」と言った。私は再び愕然とした。こんなにも美しいものが失われつつあるのか。「完全にではないけどね、大部分は」。私のショックを隠し切れない様子にフォローするように彼はそう付け加えた。「もしよかったら少し話してくれないかな。自分も実はよく知らないんだよね。君の記憶を。」彼はおずおずとした様子で言った。私は依然として戸惑いつつも彼に促されるようにして話し始めた。未知の私が私の口を通じて飛び出し始めた。彼は非常に楽しそうな様子で私の話を聞いていた。私は間違いなく飛んでいた。足元には太陽が、頭上には月が、正面には塔とドラムが、背後には花が見えた。私は、単数かつ複数のボールだった。間違いなくビリヤードで"meet"した、ボールにぶつかった、花と交錯した、塔を回った、ドラムが叩れた。三時間後、私は語り尽くし一息をついた。彼は私に目配せをすると、再び転寝を始めた。私も彼の寝顔を見ていると眠くなったので少しの間だけ目を閉じた。

 ふと気づくと私の目の前には「衝撃とはささやかな風のことだ。」とだけ書かれた紙が置かれており、彼の姿はもうどこにも見あたらなかった。

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