黄昏時の婚約破棄
黄昏時。
地平線の向こうへと沈み行く夕陽を見つめながら、私たちは丘の上で佇んでいた。
子爵家の次男にして騎士、クリス・ローリー。
そして伯爵家の次期当主である私、ジェニファー・カーライル。
五年間にわたって婚約者として過ごした日々の中で、一体何度この丘に訪れただろう。
無邪気に走り回り、笑い合った……そんな日々はもはや、今となっては懐かしい。
「ジェニファー・カーライル。君との婚約を、破棄する」
硬い声音でクリスが告げた。
今にもこぼれ落ちそうなサファイアの瞳が朱に染まって煌めいている。
その輝きに密かに魅入られながら、私はこてんと首を傾げて見せた。
「……どうして?」
「君とはもう、結婚できないからだ」
「そう。クリスって、薄情者だったのね」
ひゅうう、と冷ややかな秋の風が私の頬を撫で、吹き抜けていく。
しかし今の私の心はもっともっと、冷たい。
五年間もずっと一緒に過ごしてきたのにどうして今更、別れなんて口にするのだろう。
「ごめん。恨んでくれていいよ」
「あなたなんか恨んでもあげないわ」
笑顔を無理矢理作るクリスを、私はバッサリと切り捨てた。
今はそんな優しさはいらない。
昔のように私の手を引いて、どこへでも連れて行ってくれたらと願わずにはいられなかった。
伯爵家の一人娘だった私は、厳しい教育に押し潰されそうになっていた。
そんな時に婚約者に選ばれたのが彼。初めての顔合わせ、ガチガチに緊張して縮こまっていた私に「ちょっと抜け出そうよ」と甘い誘惑をし、この丘に二人でやってきた日のことを、忘れたことはない。
『これからは僕に甘えてほしい』
『だって僕は君を守る騎士なんだから』
黄昏の空の下、囁かれた言葉の数々は、時に冷血な心を持って人を殺めなければならない騎士にしては優し過ぎるほどに優しくて。
彼へ恋をしたのはあの時だった。
一体誰が想像できただろう。五年後の今日、婚約破棄されてしまうだなんて。
あの日の情景と重なり、涙が出そうになる。しかし私はそれをグッと堪えた。
だって泣いたって、この結末が変わることはないのだから。
「わかった。婚約破棄、しましょう。
今までお世話になりました。ローリー子爵令息、どうかお元気で」
他人行儀にドレスの裾を摘みながら頭を下げる。
明日までには書面が交わされ、クリスと私は本当の意味で他人になるのだ。そう思うとたまらなく寂しい。
そして他人のままで彼が死んでいってしまうのだと知りながら何もできない、あまりに無力な自分が悔しかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
――クリスの訃報を聞いたのは、それから半年後のことだった。
絶大な軍事力を誇り、負けなしと言われる東の帝国。
連日のように多くの騎士たちが国境沿いの戦場へと向かっては、誰一人として生きて帰ってこない。クリスもそんな死地に送られることになった。
クリスは優しいから、婚約者の死に私が傷つかないようにと考えてくれたのだろう。
だから恨むに恨めなかった。
でもそれがどれほどに哀しいことなのか、やるせない気分になるのか――彼はわかっていたのだろうか。
わかっていてもなお、その選択をとったのだろうか。
クリスたちの戦いも虚しく、王国だったこの国は今や帝国の属国である。
戦乱の中で帝国の兵に焼かれて丸裸になった丘の上に立った。
すっかり変わってしまったこの場所だけれど、いつかクリスが帰ってくるような気がして、婚約破棄のあの日から黄昏時はいつもいつも通っていたのだ。
「でも、それも今日で終わり。あなたは本当に死んじゃったのね。……この薄情者」
その声に応える者はもうこの世のどこにもいない。いなくなってしまった。
茜色の夕陽が地上から消え去ると共に、私の初恋は静かに終わりを迎えた。