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愛しい、泡沫

作者: 小鳥遊 紅

神様は、お好きですか?

 蝉が儚い一瞬をけたたましく嘆く中、少年は力強い足取りで鬱蒼とした林を練り歩いていた。


 興奮で半開きの口から上の前歯が片方抜けているのが見えて、少々不格好である。小さな肩下げ鞄と虫かごを両脇に携え、虫取り網を杖のように扱っていた。


 木々に手を当てその根元を観察して回る少年は、さんざめく虫たちに一切の興味を示さない。


 朝早くから熱心に何かを探しているが、目当ての物はなかなか見つからないようだ。


 むむ、と少年は口をへの字に曲げた。そして蝉に張り合うように腹の虫が鳴る。飽くなき好奇心や探求心と空腹を天秤にかけた結果、少年は休憩することにした。



 けもの道を一路進んだ少年は、しばらくすると人の手によって造られた階段に飛び出す。


 麓の鳥居をくぐらなかったからだろうか、中腹に鎮座する狛犬からじっとりとした視線を感じるが、少年は気づかないふりをして足早にすり抜けた。少しだけ気まずく思う。


 人が二人すれ違うことができる程度の幅しかない階段を駆け上がると、素朴な神社が少年を出迎えた。


「お邪魔します」


 少年は鳥居の前で頭を下げる。


 本来は麓でするべき行為であるが、一応したのだから先の狛犬には許してほしい。現に今横で見つめる狛犬は満足そうだ。


 少年は軽やかに賽銭箱の前まで駆け寄った。


 鈴を鳴らすのだったか、礼をするのだったか、拍手をするのだったか。


 少年は頭を抱えるが、正解がわからない。結局、小銭を投げ入れ、大きな音を立てて両手を合わせた。


「カブトムシを捕まえられますように!」


 山を探索する少年の目的は、男児が憧れる夏の風物詩らしい。


 神頼みをした後も、少年は立ち去らずに神社の周りをうろつく。時折神社の中を伺うが、どうしたものかと鞄をたたいた。


「坊主、どうしたんだい?」


 耳障りの良い優しい声が、神社の裏から発せられる。


 神か何かに見られていたのかと少年は飛び上がるが、姿を現したのは老齢の男だった。


 少年は、この古い神社に住み込みの神主がいたことを遅れて思い出した。正確には管理人としておいてもらえるよう村長に頼んだらしいが、かなり昔のことだから詳しくは知らない。村の者たちも、山の老人を神主と言っているため、少年も神主であると頭に入れている。


「握り飯、ここで食べてもいいかな?さっきお祈りはした!」


 神社に来たもう一つの目的を溌剌と答える少年に、神主は穏やかに聞いた。


「神様は良いとおっしゃったかい?」


 一拍置いて首をひねる少年は、ちらと神社を見上げる。いいですか?と心の中で問いかけた。


「うん、良いって言ってるよたぶん。神様は優しいでしょ?」


 少年の曇りのない眼を眺め、神主は目元のしわを深めて言う。


「そうかい。なら、そこに座って食べなさい。漬物はいるかい?」


 神主は背負いかごを下ろした。その中身は山菜やキノコだけでなく、畑で採れる野菜も入っている。山の麓に神社が所有している畑があるため、そこから収穫したのだろう。


「いる!」


 無垢な少年は現金でもある。自家製の漬物はさぞ美味かろうと期待がこもった返事であった。



 神主と少年は、並んで境内に腰を下ろした。間に置いたきゅうりと茄子の漬物は、食べやすい大きさに切りそろえられている。


 少年はおかずに垂涎しつつ、鞄から包みを取り出した。紐をほどいたその中には、形の良い握り飯が二つ拵えられてある。


「じいちゃんに一つあげるよ」


 少年はぐいと神主に握り飯を差し出した。木洩れ日が照らす白米は艶めかしく輝き、一層の魅力を放つ。


「気持ちだけ受け取っておくよ。子供はいっぱい食べないとね」


 誠意だけでも心温まる神主だったが、少年は口を尖らせた。


「母ちゃんが言ってるんだ。優しくされるだけなのはダメだから、同じく優しくしろって」


「……ではいただこうか。ありがとう」


 観念した神主は、少年から握り飯を受け取る。幼い純粋な好意を無碍にするのは浅慮であった。


 お互い優しくできたと満足そうな少年は、早速握り飯にかぶりついた。神主も同じく飯を口にする。程よい塩加減が呼び起こす食欲は、次の一口を急かした。


 漬物にも手を伸ばした少年は美味い美味いと喜び、口いっぱいに昼餉を頬張っている。


「……神様も、今の私のようなお気持ちだったのか」


 滲み出たわずかな寂しさを感じ取った少年は、咀嚼していた物を飲み込んでから顔を上に向けた。


「神様?」


「この神社の神様だよ」


「じいちゃん神様にあったことあるの?」


「そうだよ。だから私はここに住まわせてもらっているんだ」


「ふーん?」


 少年は大根の漬物をつまんだ。


「どんなのだった?」


 老いたる者への親切か、少年は神の話を信じるらしい。


 神主は昔を思い起こすように遠くを見やる。古い鳥居の上、そこにあったかの姿の記憶は既に不確かなものになってしまった。それでも確信していることはいくつかある。


「とても優しくて美しい方でね。神々しいという言葉そのものだった」


「もう会えないの?」


 神主の語り草からずいぶん昔のことだと察した少年の握り飯は、もうなくなっていた。


「……いつかは、会えるんじゃないかな」


握り飯も漬物も、かつて味わったしょっぱい別れを想起させる。とはいえ、少年の前でしめやかに哀愁を垂れ流すとは大人げない。神主も握り飯を完食した。


「美味しかったよ。作ってくれた人にお礼を伝えておくれ」


「うん」


 少年は腰を上げる。勢いよく神主を振り返ると、虫かごをたたいた。


「ところでじいちゃん、カブトムシがどこなら捕まえられるか知らない?」


 神主は唸る。カブトムシなどを気にする年齢はとうの昔に過ぎ去ってしまった。


「あまり詳しくないからねぇ……あっちのほうで昔は見かけたけれど」


「そっか!ありがとう探してみる」


 ごちそうさまでした、と手を合わせる少年は神社に向かってもありがとうと声を放つ。


「じゃあ行ってくる!」


 うんうん頷いた神主は、目を細めて困ったように微笑んだ。


「遅くならないうちに家に帰るんだよ。神隠しには気をつけなさい」


「わかってるよー」


 背中で耳新しくない忠告を受ける少年は、先程指された方向に向かってずんずん山の中へ歩を進めていった。


「……神様。子供でも神様を信じてくれることを、私は嬉しく思います」


 神主の独り言は風にさらわれ、揺れ動く木々に吸い込まれた。


……


「おお坊主。ほう、人が来るのは久しぶりよな」


 細長い階段を登った先の鳥居の上で、彼女は悠然と寝そべっていた。


 少年と呼ぶにもあまりに幼い童は、目を白黒させる。


「危ないよ?」


「うん?ああ、そうか、それもそうだな」


 どっこいせ、と婆臭い掛け声を上げて彼女は童の目の前に飛び降りる。


 真っ白な布を簡単に巻き付けただけの衣服に、装飾品の類は一切つけていない。夜空が流れるような髪を垂らした彼女は、ひとえに美しい。


「お姉さん目の色が変わってるね?」


 童は不思議そうに彼女の瞳を覗き込んだ。


 片方は血のようなおどろおどろしい深紅であり、片や反対は白金のようなしっとりとした煌めきを放っている。


 呆けていた色違いの双眸は次第に細まり、からからと上機嫌に笑い出した。


「お姉さんかー?そうだ。お姉さんは変わっているんだ」


 何故彼女が声を上げて喜んでいるのか、童の理解は及ばない。というよりも奥にある神社に用があるらしく、彼女を振り切っていいものかと考えあぐねているようだ。


「ん?ああ、神社に何か?」


 冷静になった彼女は、童で遊ぶことをやめた。背後に構える神社を振り返ると、自嘲的な笑みを浮かべる。


「末端の神を祀っている神社だ。ご利益はないかもしれんぞ」


「ご利益?」


 厭味ったらしい彼女の横を通り過ぎ、童は神社の前へとてとて駆けた。大きな音を鳴らして手を合わせると、数秒黙りこくる。


 目を開けた童の後ろに立つ彼女は、釈然としない顔を歪めながら尋ねた。


「で、何を願ったんだ?」


「何も」


「何も?」


「何も……?」


 小首を傾げる童に、彼女は腕を組んで考え込んだ。わざわざ小童が神社に来てまで願わないことなどあるのだろうか。


「……では何故、ここに来た?」


「お姉さんはなんでここにいるの?」


 子供とは、大人の疑問に素直に応じてくれないらしい。


「私は、あれだ。近くに住んでいる」


「そうなの?」


「そうだ」


 彼女は強く主張した。この山に住んでいる人はいないはずだとか、麓の村で見たことがないだとか言われるかもしれないと、内心冷や汗をかいている。


「じゃあ、僕が来なくても大丈夫だったんだね」


「どういうことだ?」


 境内の片隅で草いじりを始めた童に倣って、彼女も腰をかがめた。


「村の人もあまり来ないみたいだから、神様が寂しがっていると思ったの」


 お姉さんがいるなら寂しくないでしょ。そう言う童は、器用に野花を編んでいる。


「……神が寂しくないように、お前さんが来たのか」


「こんにちはってご挨拶した」


 彼女は何も言わない。薫風と踊る百枝が小声でおしゃべりをするだけだ。時折手折られる野花の音でさえ、鮮烈に響いた。


「できた。お姉さん、これあげる」


「ん?」


 我に返った彼女は、童の掌を見た。編み続けられた草花は綺麗な円環を描いている。俗に言う花冠という物だ。


 童は立ち上がると、屈んだままである彼女の頭に花冠を載せた。


「気に入った?」


「はは、私の頭に載せるか」


「気に入らなかった?」


 端正な(かんばせ)に嫌悪と困惑と喜悦の色を垣間見て、童は戸惑う。悲し気に様子を伺う童に、彼女は口角を上げてみせた。


「捧げものはありがたくいただくものだ。うむ、気に入った。お前さんは手が器用だな」


 誉め言葉を受け、童の顔に花が咲く。最も子供らしい喜びようであった。


「よかった。なんだかお姉さん、つまらなさそうだったから」


 子供というものは、稀に核心を突く。己が内に顔を出す暗澹たる思いと共に、彼女は一笑に付した。


「明日も来ようか?」


 冠をいじる彼女に、童は声をかける。彼女が理由を聞く前に、童は率直に語る。


「神様よりも、お姉さんの方が寂しそう」


「ああ……うん、そうか……ありがとう」


 無邪気なお節介をかけると宣告された彼女。寝覚めが悪いような面目ないような心境は、どうも落ち着かない。


「じゃあお姉さんまた明日!」


 弾む鞠のように階段を降りる小さな背中を、彼女は異なる色彩を持つ瞳で見送った。


……


「じいちゃーん、カブトムシいなーい」


 翌日も少年は神社にやって来た。神主は丁度拝殿の中に入るところで、その手には花冠が拵えられている。繊細な作り物と高齢の男性は、妙にしっくりくる。


「えっそれじいちゃんが作ったの?」


「そうだよ。ここの神様が気に入っていたものでね」


 神主から花冠を拝借した少年はまじまじと見入り、感嘆の声を上げた。


「すげー!妹も花冠作れるけど、こんなに綺麗にはできないや。でもお供え物ってもっと立派なやつじゃなくていいの?」


 花冠を返してもらった神主は、温和な笑みをこぼす。確かに少年の言う通りだ。他の命を頂戴して作ったものとはいえ、供え物とされる酒や米、宝物と比べれば大分見劣りする。


「神様はね、物が何かではなくそこに込められた心で一番喜んでくれるんだ」


「へえ」


 少年は神主が花冠を供える様を茫然と眺めていた。はっと息を飲むと、虫取り網の柄の部分を両の掌で挟んだ。


「今日こそカブトムシを捕まえられますように!」


 嵐のようにやって来て立ち去る少年を見届けた神主は、虚空に語り掛ける。


「初めて神様にお会いした時の夢を見ました。昨日までは神様のお顔もお声も、必死になっても思い出せなかったのに、夢の中ではあの頃の麗しいお姿を目にすることができました。おかげで神様をありありと思い浮かべることができますよ」


……


 それから童は毎日のように神社に通い、彼女と過ごした。童は特別、村にいることが窮屈なわけではない。うら寂しそうな彼女の相手をしなければと、自分に役目を課したのだ。他を遠ざける態度をとる彼女が徐々に懐を開いてくると、童は甘酸っぱい喜びを覚えるようになる。今日も明日も明後日も、味を占めた童は足繁く神社を訪れる。


「最近知らない人に話しかけられるんだ。あっ、人じゃないや」


 はたから聞けばおかしな話だが、彼女の柔和な顔つきが瞬く間に消え失せた。


「あやかしか?神か?」


「えー、神様じゃないでしょ。だってこんなのとか、こんなのとか」


 木の棒で地面に絵を描く童を、彼女は険しい目つきで見守る。


 川辺にいる全身緑の人間に似た何かや、村で見かける飛ぶ火の玉や尻尾が別れた猫、あとは何がいたか。次を描こうとする童は、ふと彼女を振り返る。


 悲嘆、憤怒、諦観、慈愛、罪悪。どの感情が彼女を苦悶の表情へ導くのか、童には難解であった。しかしなんとなく、今の彼女には触れない方がいいと本能が訴える。


 尖った、煩わしい感情を一旦押し込めた彼女は、諭すように、それでいて絶対に逆らえないような声色で童に向き直った。


「いいか。一つだけ忠告するぞ。それらのものには決して真名を明かしてはならない」


「真名?」


「お前さんの名前だ。お前さんが産まれた時につけられた、その魂に刻まれた名前のことだ」


 真剣に語る彼女に、童は初めて恐怖を抱いた。煮えたぎる溶岩が目の前で溢れ出すかのような恐怖と同様である。深紅の瞳が爛々と鈍く煌めいた。


「……わかった」


 是非に及ばず、童が言えることはこれしかない。


「いい子だ」


 童は、今のように天女の笑みを携える彼女の方が好きだ。一気に安堵した童は、彼女と出会ってからの違和感を聞いてみることにした。


「そういえば、お姉さんに僕の名前を教えてないよね?僕もお姉さんのお名前を知らない」


 小さな抗議は、ひどく彼女を困らせる。下がった柳眉にゆるく弧を描く唇は、もの言いたげに童を静観する。童が無知でいることを悔いているのか、喜んでいるのか。


「知らずとも、不便はないだろう?私はお前さんをお前さんと呼ぶのを気に入っている。お前さんからお姉さんと呼ばれるのを気に入っている。それでいいじゃないか」


 やんわりと、しかし有無を言わせない彼女の言葉に、童は大人しく頷くしかなかった。


「さて。私は少々やることができた。お前さんもそろそろ帰りなさいな、晩飯が待っているだろう」


 日は傾いているが、夕焼けと言うには早すぎる。追い払われている気がして童は不満を感じたが、黙って彼女に従うことにした。


「わかった。明日は?来てもいい?」


 断られるのではないかという童の予想とは裏腹に、彼女は思い切り破顔する。


「もちろんだ。お前さんならいつでも大歓迎さ」


 許された安心を得た童は名残惜しそうに、されど明日の楽しみを心中に弾ませて帰路についた。


……


 今日も神主は花冠を供えた。瞳を閉じればすぐそこで、神様が柔らかい笑みを浮かべ、その慈愛につつまれている気になる。


「神様。あの日初めて、私は神様に恐怖を覚えました。それと同時に、毎日のように神様ととりとめのないお話をすることが、私の楽しみであると自覚した日でもありました。次の日からあやかしたちがちょっかいを出してこなくなったのは、きっと神様が何かしてくださったんですよね。ありがとうございます」


 騒々しい蝉だけが、神主の話に適当な相槌を打つ。


 ぼとり、と境内に落ちた一匹の蝉を見やり、神主は一人尋ねた。


「……こんなにも昔の、しかも神様の夢を続けて見るなんて。そろそろ私も天寿を全うできるということなんでしょうかねぇ」


 死んでも会えるかわからないのに。


 せめて次の生でも神様を覚えていたい。


 神主は手を合わせ、神に祈った。心の底から強く神頼みをしたのは、これが初めてだった。


「もう一度、神様にお会いできますように」


……


 それはなんの前触れもなく、あまりにも突飛な出来事だった。


 村の外から来たという人に、童は道を教えただけだ。笠に隠れた眼に凝視された童は身震いして、早々に立ち去ろうとした。しかし男は童を引き留め、世間話をいくつか繰り出す。


 夕日で伸びる影の違いに気づき、童は確信した。どっと汗が噴き出す。


「僕、もう帰らないと」


 乾いた舌で何とか発声したのもつかの間。童は必死に逃げることとなる。


「ああごめんねそうだね、ねえ君、()()は?」


 童は震えあがって駆けだした。


 細長い影は童のもの一つしかなかった。名前を聞いてきた。つまりは絶対に関わってはいけないものだと頭に警鐘が鳴り響く。男だったものはいつの間にか姿を崩し、奇怪な音を上げて追いかけてくる。


 怖い、怖い、怖い。


 恐怖一色に染まった脳は、泣きわめく暇さえ与えない。


 童は小さな歩幅で懸命に走っているつもりだった。だが気が付けば見覚えがあるようで全く知らない道を只管に走っている。あのあたりに自分の家があるはずなのに、と童は記憶と照らし合わせるが不気味なまでに何もない。


 童は、日が暮れないうちに帰らなければならない理由の一つを思い出した。逢魔が時の存在である。


 昼と夜の境界線がにじむ逢魔が時は、人の世に魔が交わると言われている。子供騙しの神隠しではない、恐ろしい何かが本当にいた。


 未視感に駆られる別の道、ひいては世界で、童は迫りくる何かに怯えて叫んだ。


「お母さん!」


 恐怖で呼吸がうまくできず、次第に苦しさが増してくる。


「お父さん!おばあちゃん!」


 頭が痛い、足が痛い、肺が痛い、全てが痛い。混乱と怯えの狭間で狂気に駆られる。


「誰かっ……」


 恐ろしい世界で、恐ろしい何かと二人きり。足がもつれて惨めに転んだ童は、最後の気力を振り絞って声を張り上げる。


「お姉さん!」


 ふと、温かい腕に包まれた。感じ慣れた神秘的な雰囲気と毎日のように目にした真っ白な装束に、童はようやく人心地がつく。堰を切ったように涙がこぼれだした。


「おう、おう、お前さんの泣き顔は初めて見たなぁ」


「お姉さんっ……!」


 童は初めて彼女の体温を知ったはずだが、親以上の安らぎに包まれている。彼女に委ねておけば何も怖いことはないという、絶対的な安心だ。


 彼女にしがみついて初めて、元は男の形をしていたものを視界に捉えた。


 童は思わず顔をしかめる。


 真っ黒い泥人形のようなそれは、全身のいたるところに口があり、泥のような黒い何かが絶えず滴り落ちては足元に集合していた。


 気味の悪いそれは、彼女を前に動きを止めている。


「悪霊の類か。よく名前を言わなかったな」


 彼女は童をねぎらい、小さな頭を優しくたたいた。こくこく首を振る童を慰め、おかしそうに微笑する。


「さて……」


 彼女は立ち上がり、悪霊と対峙した。童もなんとか地を踏みしめるが、彼女の服にしわができるほど強く握り縋っている。ずいぶん低い位置にある肩へ、彼女は宥めるための手を置いた。


「この子を、というか人間を襲うな。お前の望む結果にはならないぞ」


 悪霊も何かを希っているのだろうか。いずれにせよ、童を睨みつける悪霊などろくなことを願っていないと断言できよう。


「いいか?二度と人に関わるな、そして立ち去れ」


 彼女はしっしっ、と手を払う。しかし悪霊には伝わっていないようで、引き下がるどころか一歩距離を詰めてきた。


 童の体がまた震え、彼女の瞳に影が落ちる。


「なるほど。よぉくわかった」


 日に焼けていない嫋やかな手が、悪霊に伸ばされる。


「去ね」


 腹の底から沸き上がる憤慨をそのまま吐き出した声色は、正直童も恐れ慄いた。


 時が止まったのか微動だにしない悪霊は刹那、その風体もろとも弾け飛んだ。


 水に垂らした墨汁が広がるように、童に見える景色がよく見知ったものに馴染んでいく。すぐそばにある鳥居は、彼女がいる神社へ続くものだ。無我夢中で走る中、童は現世の彼女の(もと)へ向かっていたらしい。


「怪我はないか?」


 彼女は素早く童と視線の高さを合わせた。両手を握り、目に見えるところは全て確認する。


 慄然とするおぞましいものが消え脱力する童は、大きく深呼吸をした。


「あれは、何だったの……?」


「悪霊だな。人々の怨嗟の塊だ。人を襲ったのは、人を恨んでいるからだろうな……全く、恨みなんか遺して何になるってんだか」


 彼女が小さな毬栗頭を撫でる手つきは優しく、童はもっと早くにその優しさが欲しかったと欲張りにならざるを得ない。


「……今まで、どうして撫でてくれなかったの?」


「ああ、お前さんを守るためだ」


 家に帰ろう、彼女は童を促した。二人は手をつなぎ並んで歩く。空はすっかり暗くなり、彼女の髪と同化して見えた。


「なんで、撫でないと守られるの?」


 至極当然の疑問だ。彼女はそうだな、と間を置いてから口を開いた。


「末端の神とはいえ、神気はもちろんあるんだ。神の力である神気というものは、あやかしの妖力を強くし……端的に言えば神と同等の力を得られる。まあ神を食べれば即刻神になれるが、ほとんどのあやかしは神より弱いからな。戦いを挑んで滅ぶより、神気の残滓をちまちま食べたほうがいいってわけだ。この神気は、神が触れることでそのものに宿る。神がいない間の神社は神気を食らいに来たあやかしで恐ろしいぞ?」


 神が持つ力を皆欲しがっているようだ。童はなんとか要約する。


「お前さんに触れなかったのはそのためだ。小さくてか弱いお前さんに神気が宿っていたら、あやかし共はこぞってお前さんを襲うだろう。だが同じ空間に長くいたせいか、この神が気に入っている童だと感づいて、ちょっかいをかけるやつもいたみたいだがな」


「あやかしは……たぶんなんとなくわかった。でもさっきのは?悪霊はどうして?」


 童は少し前に頻繁に話しかけに来た異形たちを思い出しながら疑問をぶつけた。


 村が見えてくると、心なしか彼女の歩調が緩慢となる。


「あやつらは基本無差別だ。ただ、たまたまお前さんが他の人間と違って神の残り香があったから、目を付けたのだろう」


 脳裏によぎった悪霊の姿に、童は未だ鳥肌が立つ。


「悪霊は、あやかしみたいに神になれないの?」


「なれない。あやかしは人の恐れの象徴、神は……特に後発の、付喪神なんかは人の恐れや信仰が主で様々な思いの象徴とされる。あやかしは少しばかり神と似た側面を持つが、悪霊は全く別物だ。恨み辛みが本能だからな。気をつけろ」


 気をつけろと言われても。童は幾ばくか心配になってきた。今彼女と手をつないでいるということは、神気が宿りあやかしやら悪霊やらに狙われるのではないか。


「心配するな。あえて神気を注ぐことにした。ある程度まで行けば、虫よけになるからな。手を出せば神に消されるとわかればいいだろう」


 呵々と笑う彼女を見るに、童の杞憂であった。ならよいかと息をつくが、彼女に対して微細な違和感を覚えた。彼女はいつも以上に寂しそうである。


「もう、会えないの?」


 落莫たる孤独。理由など、童には一つしか想像できなかった。


「そうだなぁ。こうして顔を合わせることはなくなるな」


「どうして?」


「修行の一環というか、力の源である信仰を集めるため、一時的に現世へ姿を現しているだけなんだ。お前さんが通ってくれたおかげで、修行を終えまた神としてあるべきところに帰るんだ」


 彼女の口ぶりから、神として帰ることは悲しむことではなくむしろ喜ぶべきことだと理解した。理解はしたが、胸が張り裂けそうだ。


「大丈夫だ。神はお前さんをずっと見ている」


「……うん」


 童は駄々をこねたかった。行かないでと懇願したかった。しかし神であるのなら、たかが人間がと邪見にされることが怖かった。


 だから、物分かりの良い振りをした。


「じゃあ、僕が神社のお掃除してあげる。古い建物はちゃんと手入れしないといけないんだって」


「そうか。ありがとう」


「なんの神様なの?何をすれば強い神様でいられるの?」


「死後への恐れ、今を生きる不安。極楽浄土への憧れ、明日への希望。両極端な神だ。どちらかでも思えば力になるが、明日への希望を抱いてくれると、神は喜ぶ」


「じゃあ僕が大人になったらあの神社に住んで、明日を信じて明るく生きるよ。そうするから……あのね、お姉さんの目は、その両極端な思いの……」


「ほら、家に着いたぞ」


 童が早口でまくしたて、彼女は悠揚たる物腰で言葉を紡ぐ。


 家に帰れば最後、二度と彼女と会えないのだと悟ってしまった。


「でも、あの……」


 童は両目に涙の膜を張りながらも、なんとかしゃべろうとする。


「お前さん」


 優しく、優しく、丸い声が耳元で聞こえた。つい先ほど初めて味わった彼女の腕の中で得られる温もりを感じて、遂に玉のような涙が溢れ出す。


「神は、いつもお前さんを見ているよ。どうか、お前さんが健やかで幸せな人生を歩めますように」


「お姉さ、」


 童が瞬きをして目を開くと、既に彼女はいなかった。髪の毛も、足跡すら、彼女がいたという一切の痕跡がない。ほんのり温かい体だけが、彼女が存在し抱きしめてくれた唯一の証左である。


 その淡い証さえも夜風に容易く蹂躙され、童は号哭した。大きな泣き声に気づいた家族が迎えに来ても、恩愛を一身に受けても、童の悲哀は癒えることがなかった。


……


「神様、私は神様が神様であれるよう、明日への希望を抱いて生きてきました」


 薄い布団の中で、神主は何に話すでもなく、強いて示すならば天井のその先天高くに囁く。


「明日こそは、明日こそは、神様にお会いできるんじゃないかと信じて……もしかしから、あの世でお会いできるんじゃないかって、希望を持って、ずっと……」


 神主は、眠そうに瞼を下ろす。


「あの世でこそ、神様にお会いできますように……」


 最後の願いを、希望を胸に、神主は眠るように息を引き取った。



「じーちゃん!カブトムシ捕まえたー!」


 カブトムシ探しがてら毎日神社に通っていた少年は、お宝を手に神社を訪れた。やっと見つけた相棒との凱旋だと嬉々としてやって来たのだが、出迎えてくれる神主の返事はない。


「あ、神様見て。捕まえたよ!安心してよーこいつはずっと大切にするんだ!……じーちゃん?いないの?」


 簡潔に神へ報告した少年は、神主を探すため拝殿の中を覗き見る。何度も通っていると神主がいる時間帯もわかるようになった。今はいるはず、と少年は境内を歩き回る。


「じーちゃん?……うおっ、蛇!?」


 いよいよ境内の隅にある、神主が住んでいる庵に来てみたのだが、戸口の前に小さな蛇がいた。少年は距離を取って毒蛇かどうか注意深く見るが、どうやらそうではないらしい。それどころか蛇の体は真っ白で、赤いつぶらな瞳を少年に向けている。


 蛇はそろそろ動き、まるで少年を庵の中へ誘導したがっているようだ。


 白い蛇は神の遣いといわれていることを知っている少年は、意を決して扉に手をかけた。


「じーちゃん?入るよ?」


 不用心なのか盗る物が何もないからか、引き戸は抵抗なく動く。


 神主の居住区は、六畳一間に台所と囲炉裏がついた簡素な場所だった。


 年季の入った薄い布団の中で、神主はただ眠っている。


「じいちゃん?寝坊助?……じいちゃん?」


 少年は感覚的に理解した。穏やかな寝顔からは想像ができないが、きっともう目覚めることはないのだろう。


「麓の村で大人に伝えて、丁重に葬ってあげてくれ」


 どこからか、子を慈しむような女性の声が聞こえた。少年は後ろを振り返る。既に白い蛇はいない。この声がここの神様かな、少年は漠然とした森厳を感じ、もう一度神主の顔を見てみた。


 少しだけ、口角が上がっている。幸せそうな温顔に、安らかな眠りを祈った。

最後までご覧いただき、感謝の念が尽きません。本当にありがとうございます。


こちら、初めて取り組んだオリジナルの小説になります。今後のために、ご感想をいただけますと幸いです。

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