38 王国の魔女エヴァ・クラーリの日常
大地を隔てる不文律。引いたと夢想するのはいささか詩的に過ぎるだろうか。考えたところで知る由もない。そう目の前の苦悩を受け入れることで放棄した相手を前に、それは救いではないと誰が責められるであろうか。
それでも費やした時間はやがて疑うことすら忘れさせ、一度勢いづいた流れは濁流のようにすべてを風化させた。
上から下へ。尋常に意味を求めることでしか無知を補えないのであれば、そこに生じる異常は本当に異常と呼べるのであろうか。
過程を無視した先に行き着いた帰結が当然ならば、例えその先に何があったとしてもそこには切り捨てるだけの正しさがある――そう思うことでしか得られない安寧がもたらしたのは本当に安寧だけだったのだろうか。
不意に曝される側のことなどまるで考慮しない海風に歩を止めては、わずかに目を細める。
気の抜けた昼下がりの陽光。港町特有の朝の熱気は当に落ち着きを取り戻し、海を臨む小さな宿屋の正面では、背の低い小舟たちがただキラキラと輝きを放つ水面でその不規則に身を委ねている。
変化は尊くもされど変わらないことに勝るや否や……。
足下に照らし出された輪郭は図らずもその一端を示していた。
「ひめさま――?」
ふと、宿屋から歩み出てきた顔はどこまでも懐かしい。
だからこそだろう。疑うことでしか得られない真実とも違う、切り捨てることで得られる現実とも違う。ただ変わらずそこにあるだけの日常にこうも心地よさを感じてしまうのは――。
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「まったく……」
私はため息交じりに、その実どこか浮足立っている自分に気付いて、誤魔化すように少しだけ口をとがらせた。同時に逸らした視線はその端に一面の青を捉え、明滅する白に紛れては慣れ親しんだ潮風がその独特な香りで呑気にも日常を運んでくる。
「砂糖はいらん」
「いれてないですっ」
頭の後ろに目でもついているかのような軒下の主。手にした砂糖をそっと元へと戻しては、いつからいらなくなったのだろうと一抹の寂しさを覚えてしまう。
「やっぱり入れてくれ」
「やっぱりいるんじゃないですかっ!」
嬉しさ半分、隠そうとしてはついつい口調が荒くなってしまう。久しぶりに会ったというのにまるで変わらない彼女とのやりとりは、勝手に感じていた距離とそれまでの時間を一言で埋めるようでいてとにかく気恥ずかしい。
それも他ならぬ彼女のことだ。分かっていてやっているのだろうと思えばこそ、余計に熱がこもってしまう。
まったく……手元に並べたカップは二つ。片方に砂糖を落としては、盆の上で気ままに揺れる湯気を引き連れ、ようやくと彼女のいる軒下へと顔を出す。
「それ、どうにかならないんですか?」
「何がだ?」
カップを渡しては当たり前のように嘴から漏れてくる湯気。促すようにその隣へと用意された椅子に腰を下ろしては、被り物自体すぐにどうでもよくなってしまう。
「甘いな」
「砂糖入りですから」
続けて確認するように手にした入っていないほうのカップを口に近づけては、寸前で手を止める。
「その調子だとまだまだ先は長そうだな」
「姫様? 一応言っておきますけど、私にもそういう話はあるんですよ?」
「認めん」
「みっ、えっ? そ、そういう話じゃないと思うんですけど……。あ、そういう話っていうのはそういう話がそういう話じゃないって意味で……はぁ。ほんと、まだまだ先は長そうですね」
「そうでもないさ」
「えっ?」
落ち着こうとしては自ら傾けたカップ。あまりの驚きに触れた先から思わず口を離してしまう。
「零れるぞ」
「あっ」
横からさりげなく手が伸びては入れ替わる二つのカップ。これで零れなくて済む――そういって手元に残された空のカップはまだほのかに温かい。
「ひめさま?」
「なんせ長旅だったからな」
「ひめさま?」
「いっておくがそういう意味じゃないぞ?」
「まったく……ならどういう意味ですか?」
「人であっては横に並ぶこともできない世界もあるということさ」
「それでその頭ですか? 歩み寄るにしてももっとやり方がある気がするけどなぁ」
「飛んだ方が早いだろ?」
「そういう問題ですか?」
「そもそも私に騎士は似合わんだろう。私が騎士ならともかくな」
「鈍間な騎士はいらないと」
「逆さ。鈍間結構。ただ人知れず守ってやりたい質でな」
「なんか、苦労しそう」
「分かってくれるさ」
「それは分かってると思いますよ?」
「そうか?」
覆い隠された表情はうかがい知れない。それでもどことなく嬉しそうな彼女を見ていると自然と笑みが零れてくる。
「そうですよ」
「だといいんだがな」
言いながら彼女は立ち上がり、いつの間にやら空になった二つ目のカップを椅子に残しては、ほんの数歩で軒下を出る。
「姫様……」
日陰から日向に。格段に暖かい場所に立っているはずなのにやけに冷たく感じてしまうその背中。見覚えがあるはずなのに重ねては否定されるあの頃の記憶――。
幼かったあの日。何も知らない少女は少女ではないと知ったあの日。私はいったいどうしただろう。鮮烈なはずの記憶は時の流れと共にいつしか思い出せなくなっていた。
「入国審査は骨が折れる」
二人して見据えた水平線。小さな黒点が浮かんでは、ほどなくして線だったと知る。ああ……普段目にする小舟が本当に小舟だったんだなとどこか他人事のように眺めては、それがまだほんの一部だったことに気付かされて途端に嫌な汗が背中を伝った。
「流れた先で生まれた流れがまた新たな流れを生む、か。あれにはいったいどれほどの流れが詰め込まれているんだろうな」
私はそっと目を閉じた。彼女を突き動かすのはいつだって好奇心だ。ああ……私はあの時、いったいどうしたのだろう……。
「止めないのか?」
瞼を打ち付ける彼女の声は、まるで冷や水のようだった。反射的に開いた両目は彼女を真っ直ぐに捉え、彼女も私を真っ直ぐに見据えていた。
何か言わなければ――そう感じて咄嗟に開いた口は、未だに過去の自分に答えを求めて囚われ続けている。
情けない……何も持ち合わせない今の私が……私はただ思ったことを、その時の気持ちを声にしただけなのに……!
「いい天気だな」
「はい……」
「風はほどよく、波も低い」
「はい……」
「今朝も船は出たんだろう?」
「はい……」
「大漁だったか?」
「はい……」
「それは良かったな」
「はい……」
「明日は?」
「それは……ここ最近、めっきり船も浮かばなくなりましたから……」
「そうなのか?」
「はい……」
「なんだ、そうだったのか」
「はい……」
ふと、線を見やれば何やら海面が騒がしくなっている。目を凝らしては何かに急かされるようにして彼女の隣へと足早に並ぶ。距離にしてたったの数歩。たったの数歩だが、疑問を解消するにはそれで十分だった。
「あんな沖で海に飛び込んで……」
それも仕方のないことだと思った。船は浮かばない。乗っていてはいずれ……いずれ?
「やったわね? エヴァ?」
私は相手が誰であるかなど忘れてその猛禽頭に掴みかかる。
「何のことだ?」
「バカ! エヴァのバカ!」
私は声を大にして叫んだ。過去の自分もきっとそうしたに違いない。初めから答えは目の前にあったのだ。
「記憶が混乱してる! アンタとの出会いも思い出せない! やったでしょ! ねえ! やったんでしょ!? エヴァ!」
私は彼女が第二王女であることなどお構いなしに鉄拳を制裁する。お互いの関係はきっと初めからそうだったのだ。そうして渾身の一撃が空を切っては、子供が駄々でもこねるようにみっともなくその場で地団太を踏む。
「みっともないぞ?」
「わかってる!」
「いつものことだろ?」
「わかってる!」
「後は任せていいな?」
「ああああとはって! 浮かない船にどうやって人を乗せるのよ!」
「そうか? 私には浮かんでるように見えるけどな」
「ううう浮かんでるけど! 確かにっ! 浮かんでるけど! 今朝も漁に出ててでも船は浮かばなくて!」
「言ってることが滅茶苦茶だぞ?」
「アンタがそうしたんでしょ!?」
「心配ない。エレナ、お前なら出来る」
「また適当なこと言って! 絶対二度としないでって絶対きっと言ってないけどきっと絶対言ってたでしょ!」
「私が出来ないことを頼むと思うか?」
「で、でもでも相手は帝国で……ってえぇっ!? なんで、帝国が……こんなところ、に……」
「考える時間が必要か?」
「それは……」
考えようとして私はすぐにそれを止めた。それは今の自分でも変わらず持ち合わせているものだったからだ。
「私はなんて言ってた? なんてね」
私は苦笑する。きっと"いつぞや"のエヴァも同じように私の答えを聞いて苦笑したに違いない。
「調子が出てきたじゃないか」
「言っとくけど次やったら言いつけるからね?」
「それは困るな」
エヴァは分かりやすく肩を竦めてみせた。
「お前は妹似だからな」




