36 くり抜かれた世界の中で振り向いた彼はそう言って笑った
椅子からもろともに吹き飛ぶ帝国代表の男。それを仁王立ちで見送る妹のアリアーヌを前に、兄であるエヴラールはただ圧倒され、その場の雰囲気に流されては呆気に取られていた。
「あんた、正気?」
吹き飛んだ男を横目に、その後ろで控えていた女性が整った顔立ちに似合わない嫌悪感を募らせる。
「だから謝ったでしょ」
「だからって……」
「言っておくけど皇国のあんたもよ! 本人を前にすれば何を言ってもいいってわけじゃないんだからね!?」
言いながら今にも掴みかかりそうな勢いで捲し立てるアリアーヌ。それを背後からやりかねないと制止するのは、色濃い焦りを顔に滲ませた連合国の代表ヤナ・エルサともう一人のエルフだった。
「あ、アリアーヌっ。私はいいからっ」
「私もですっ、アリアーヌ様っ」
言動に反して何故か嬉しそうに声を弾ませている亜人の二人。当のアリアーヌはといえば――何も分かっていない様子で――驚いたようにわずかに眉をひそめている。
「っ……第六王女アリアーヌ・デュムーリエ……思った以上に常識の通用しない人間らしいな」
気が付けば男の口元から滴っている鮮血。それを乱暴に拭い去る手の甲。男は浮かべた余裕をそのままに、それでもすぐさま立ち上がろうとしないのは、アリアーヌの放った不意の一撃がどうみても尾を引いているからだった。
「そのいかれた言動は、やはり第二王女譲りかな?」
あえて道化でも演じるようにわざとらしく肩をすくめては、自身と同様に吹き飛んだ椅子へと手を伸ばす男。隠し切れない足の震えと共に、それを杖代わりに無理やり立ち上がる様は、もはや誰の目から見ても気の毒なほどだった。
「あんたは文句の一つも正面から堂々と言えないわけ? 殴ったのは私なんだから私を非難するのにいちいち私以外を持ち出すのはやめなさいよ!」
「ククッ……」
男は嘲るように一笑し、覚束ない足取りのまま、それすら演技であるかのように椅子へと深く腰かける。
「噂通りの奔放さだな。第六王女アリアーヌ・デュムーリエ? いや、この場合は魔女の弟子と、そう呼んだ方がいいのかな?」
「このバカ! 分からずや! あんたを殴ったのは私でしょ!? そのすかした態度をいい加減にやめて、今すぐにでも私を殴り返したらどうなのよ!」
「ハッ! ハハハハハッ――!」
高らかに笑う男。何の前触れもなく真顔に戻っては、急にそれまでの熱を失ったように淡々と告げる。
「なら遠慮なく」
男が言い終わるのと同時に会議室へと響く鈍重な音。アリアーヌの頬を殴りつけたのは、殴られた本人ではなく――それを後ろで見ていた整った顔立ちの女性の方だった。
「っ……」
その場に佇み、微動だにすることなくただ口の端から一筋の血を流すアリアーヌ。
「冗談でしょ?」
反対にアリアーヌを殴りつけた女性の方はというと、目の前の光景が信じられないとばかりに震える拳をもう片方の手で覆い隠すようにして握りしめている。
「ほう? 流石は自分で自分を殴れと豪語するだけはある」
「違う……そうじゃない……! 今はそんなこと関係ない! あんたは気づいてないかもしれないけど……あんたはもう、誰かを殴ることすら自分じゃできなくなってるのよ!」
アリアーヌはただ真っすぐに叫ぶ。
「生憎と私にはその必要がなくてね」
「バカ! この意気地なし! 拳の作り方も忘れた臆病者! そんなんだから相手の痛みも理解できないのよ!」
「ぶっ! ははっ! はははははっ――!」
そこに突然と上がる無邪気で盛大な笑い声。会議室内の視線が自然と入り口に向けられる中、姿を見せたレギーナ・スタルチュコフは脇目も振らずに一直線にアリアーヌの下へと近づいていく。
「チッ……」
あからさまに視線を逸らしては舌打ちする帝国代表の男。
「誰よアンタ」
アリアーヌの声にピタリと動きを止めるレギーナ。
「……あなた、船の時からもしかしてと思ってたけど、私のことを知らないの?」
「知らない。それにあなたが例え誰であっても私は引かない。だから邪魔しないで」
「へ――? ふっ、ははっ、うそでしょ? これがエヴァの切り札っ? 一国の行く末を担う王女の振る舞いっ? まったく、エヴァは何を考えてるんだかっ」
レギーナはその場で一人腹を抱えては、ほどなくしておもむろに方向転換する。そして事態を傍観する連邦の立会人の隣――その空いた席へと当然のように腰を下ろす。
「どうぞ? 続き、したいんでしょ?」
レギーナからアリアーヌへと向けられる優しい眼差し。
「よくわかんないけどお礼は言っておくわ。ありがとう」
「いいわよ。どうせこれでもう会うこともないだろうしね」
レギーナはそうして餞別だと言わんばかりに満面の笑みを形作る。
「王国につくのか。連邦の白、純白の人。レギーナ・スタルチュコフ」
「何を言ってるのかよく分からないのだけれど。私はただ連邦の防衛を任されているだけであって、政治に関与することはできないのよ?」
「ふざけたことを……連邦がいつまでも中立でいられると思うなよ」
「へぇ? 面白いこと言うじゃない。今ここで踏み絵でもしようっての? そりゃそこの王女様にも嫌われるわけね。殴られて当然じゃない?」
「言ってくれるじゃないか。連邦の抑止力風情が」
「ふふっ。抑止力が振るわれないと思っているのなら、あなたはとんでもない間抜けね」
「ククッ……」
レギーナの脅しにも等しい揺さぶり。男はまるで動じずと下卑た笑みを浮かべる。
「"現"勇者パーティーに皇太子エヴラール。ギルド『夢の国』クロナにそのメンバー……。そして王国と連合国とをつなぐ第六王女……」
「王国にはエヴァがいるわ」
「いるだけさ」
「この会議を成立させたのは誰?」
「だから?」
「帝国は地獄を見ることになるわよ?」
「見るのは私ではない」
「それでも行くのはアンタよ」
互いに譲る気になしと余裕をぶつけ合う二人。レギーナからの追及に男の飄々とした態度はいつまでも平行線を描き続ける。
「アリアーヌ……」
そこで呆気に取られていたエヴラールがようやく我を取り戻したように声を上げる。しかしそれは時間の経過や、ましてや二人のやり取りによるものではなく――ただエヴラールの目に映った妹の拳――そこから深紅の液体が音もなく零れ落ちていたからだった。
「アリアーヌ――!」
「アリアーヌ様っ!」
駆け寄るヤナにエルフ。しかし二人がその拳を何とか緩めようと手を伸ばすよりも早く――エヴラールの見つめる先で――アリアーヌは自ら閉じた両手を静かに開く。
「あんたらは間違ってる……。だから、私は――……」
不意にアリアーヌの頬を伝う一筋の光。それはアリアーヌ自身にしても予想だにしないものだったのだろう――。真っ赤に染まった両手。その指先で頬に触れては、僅かに滲んだ赤い液体を前に、アリアーヌの中で何かが途切れるのをエヴラールは見た。
「ぁ――」
――気が付くと黒で統一された暗い世界をアリアーヌは一人、歩いていた。
♦
……。
……。
ねえさん……
……ししょう……
……ししょう?
――思えば私が頼れるのはそのひとしかいなかった。
アリスン……? ソフィー……? マルグリート……?
エリーザ……? ゼルマ……? ルイーゼ……?
マリアンネ……? エリザベータ……? ビアンカ……?
ロジーナ……? カヤ……? アンナ……? ヨゼフィーネ……?
クレメンティア……? ヒルデガルト……? アンネリース……?
ヤナ……?
――思えば私に初めて出来た友達らしいともだちだった。
ニーナ……? おまわり……?
サラブレッド……? アーノルド……?
ミス……? ミスター……?
ネクロマンサー……?
――思えばいつだって一緒に居てくれる頼もしいなかまだった。
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わたしは…………………………………………
…………もう……………………………………………………
………………………………僕だけ特別扱いかい――?
「うるさい――!」
それは黒一色だった世界に白が射しこんだ瞬間だった――。
♦
「ぁ……」
息をしようとして思わず小さな声が漏れた。
大丈夫。大丈夫だから――。
そんな声が耳元で聞こえる。
一体何が……。
ぼんやりとした頭。不思議と落ち着く妙な閉塞感。
海水の匂い……。
彷徨う視線。暗闇に浮かぶ二つの視界。
あれは……。
頼りない背中。いつも通りの声。
僕は子供の味方だよ――。
どこまでも私をイライラさせるその物言い。
むかつく……。
それが誰のためでもなく、私のためならなおのこと。
アリアはやるよ――。
私をアリアと呼んでどこにでもいる少女と同じように扱ってくるあいつ。
「つく……」
どれだけ乱暴に寄りかかっても逃げないくせに、離れたところで私を追いかけようともしないあいつ。
「――か、つく……」
ただそこにいて、いるだけでイライラするのに、いないと余計にイライラするあいつ。
だから……だから私はその頭に思いっきり思いをぶつけてやるのだ。
いつか、いつか私を避けようと。そう、思う日まで――。
「むかつくのよ……牛頭のくせに……」
だから私は呼んでやらない。呼んでやらないのだ……。ずっと。ずっとこの先も、ずっと――。
「私は一人じゃない……だから――」
私は笑う。白と黒のまだら模様の下で私は笑う。
「何があっても大丈夫。でしょ?」
「うん。流石はアリアだ。その通り」
くり抜かれた世界の中で振り向いた彼は、そう言って笑った。




