32 連邦の白レギーナ・スタルチュコフの白日
「厄日だわ……」
海上でうねる巨大なタコ足、その先端に佇む小さな影。幸いなのは、その二つの興味の矛先が皇国の討伐隊の方へと向いていることだけだった。
「伏せて!」
クロナが叫ぶ。それと同時に小さな船体を直撃するのは、その余波というにはあまりにも度を越した衝撃――甲板のアリアーヌとエルフたちは、咄嗟に屈めた姿勢をそのままに転がるようにして船のへりへと追いやられる。
「何なのよもう!」
アリアーヌの怒声に似た戸惑い。反射的に立ち上がろうとするアリアーヌをその場に押しとどめるのは、そのすぐ脇から伸ばされたいくつものエルフたちの腕だ。
「立ち上がらないでアリアーヌ様!」
「危険ですから!」
吹きすさぶ強風の最中、それでも自らの身を二の次にアリアーヌを優先するエルフたち。しかしそんな彼女たちの献身を嘲笑うかのように、ヤナの視線の先で事態は更なる混迷を深めていく。
「嘘でしょ?」
タコ足が急に割けたかと思えばその背後で何故か沈んでいく討伐隊の船。ヤナは目を疑うように二度三度と瞬きを繰り返すも、変わらぬ光景にもはや笑うしかないと上げた口角をそのまま引きつらせる。
そして現状を飲み込むよりも先に、ものの数秒で確定した過去は未来へと向かってヤナの正面へと襲いかかる。
「ひゃっ――」
一瞬の変化。強風は暴風に、その変化に耐え切れずヤナは宙へと体を浮かすも、寸でのところでクロナに腕をとられては、思わず後方へと振り返る。
「アリアーヌ!」
それは陸地よりも水中を得意とするヤナにとってどこまでも当然の反応だった。ただほとんど反射に近い速さでそう口にしたのはヤナにとっても意外であり、同時に立場を超えた個人の繋がりを自然と意識させた瞬間でもあった。
「みんな――!」
止まない風を前に募る焦りと苛立ちから徐々に落ち着きを失っていくヤナ。エルフたちは覆いかぶさるようにして必死にアリアーヌを押さえているが……もしかしなくてもその内の何人かはすでに海へと放り出されているかもしれない。そんなヤナの不安を他所に、風は弱まるどころか加速度的に激しさを増していく。
「クロナ! 手を離して!」
ヤナの視線の先でブルブルと打ち震える牛頭。時に判断としては間違っていなくとも、決断としては遅すぎることもある。ヤナはそのことをよく知っていた。しかし――。
「クロナ!?」
クロナはどういうわけか握った手を離そうとはしない。ヤナは戸惑いながらもどうしてという違和感の先で、その牛頭の鼻先が自身へと向けられていないことに気付く。そうして目を向けた先――遂には感情の制御が追い付かなくなる。
「勘弁してよ……」
大して広くもない甲板。上空から降ってきたのは対照的なまでの白と黒。食物連鎖の頂点たる二人を前にして、ヤナは泣き出しそうな自分を忘れてはそっと心の中で叫び声を上げる。もうきっとなるようにしかならないわね!
「クロナ……?」
相対する白と黒。不意に黒が白から視線を外しては、少しだけ驚いたようにその名前を口にする。
「やあ――」
気が抜けたように、急にその勢いを失ってはヤナを優しく着地させる風。完全におさまったところで、見計らったようにクロナの一段と穏やかな声が黒へと返される。
「久しぶり。元気そうだね」
「元気そう? こっちはしばらく会わないから死んだのかと思ってた」
黒は一見して凶悪そうな印象に反して、やけに軽い雰囲気を周囲へと漂わせる。むしろ冗談めかした口調に、あまつさえ緩めて見せたその口元はヤナからしてどこか浮ついているようでもあった。
「にしても相変わらず訳の分からない面子といるもんだな? ここに魔族がいないのが少し寂しいぐらいでもあるぞ」
「そうかな?」
声には出さないまでも確かに笑い合う二人。それまでという過程を一切感じさせない、まるで緊張感のないやり取りを前に、自らの足でその間へと割って入るのはもう一方の白――。
連邦の防衛の要として名高い女性レギーナ・スタルチュコフは、浮かべた余裕をそのままに周囲へと品定めするような視線を送る。
「ふぅん? 第二王女の船にあの赤髪は第六王女かな? それにエルフがわずかに貴女は人魚? それに魔族と元勇者パーティーのクロナは旧知の仲に見えるし……。うーん、この現状を私に説明してくれるのはこの中の一体誰なのかな?」
黒にも劣らない一度見たら忘れられない強烈な存在感。腰元まで伸ばされた銀髪に近い白髪は特に印象的で、彼女が天使と呼ばれる所以でもあった。
ただそれもまた一人の少女にとっては特別ではなかったようで。
「クロナ! ソフィーが海に!」
「大丈夫」
言うが早いか船の中央へと進み出るクロナ。直後にその頭上へと海からエルフが投げ込まれては、初めから分かっていたかのように危なげなくその体を受け止める。
一言でいうなら優先順位であろうか。相変わらずなアリアーヌはさておき、それに合わせるクロナもそうだが、一連の流れに対してヤナは自分でも気付かない内に笑みを浮かべていた。
「おまわり……!」
遅れて船のへりからずぶ濡れで顔を見せる犬頭。頭を振ってあちこちに飛沫を散らす様は、正に一仕事終えた彼にこそ相応しいものだった。
良かった……。ほっと胸を撫でおろしては人知れず息をつくヤナ。海水に濡れたエルフをアリアーヌの下へと優しく運んだクロナは、それからようやくと正面にレギーナを捉える。
「待たせたね」
「別に?」
あくまでも強者としての余裕を崩そうとしないレギーナ。しかしそうして浮かべた笑みはどこか不自然極まりなく、ピクリともしない仮面はそこから氷を想起させるに十分なものだった。
「何から話そうか」
「くだらない……」
それまでのすべてを拒絶するかのように吐き捨てるレギーナ。一部を除いて甲板の上の雰囲気が一変するのをヤナは感じた。
「クロナ。今の内に謝っておく」
「大丈夫。こっちの落ち度だよ」
「そうか……」
「話は済んだ?」
レギーナはまるで抜き身の刀身を構えるように真横へと腕を伸ばす。
「いいやまだだ。クロナ。長生きはするものだな」
「どうかな。ぼくはまだそれほど長くは生きていないよ」
「ふっ。またあの馬鹿どもを連れて遊びにくるといい」
「"元"だけどね。勇者パーティーは"全滅"した。それが今の世界の共通認識だよ」
「そうなのか?」
「うん。正直半信半疑だけどね」
「それは奇遇だな。私もだ」
また二人だけの世界で笑い合う二人。
「また誰でもいいから連れてこい。あの女以外なら歓迎するぞ」
「君でもエヴァは苦手かい?」
「あれは妙に私と張り合うところがある。一応言っておくが私は別に仲良くしてもいいんだぞ?」
「そうエヴァに伝えておくよ」
「よしてくれ。私はいつだって誰とでも仲良しさ」
「確かに」
今度は誰の目から見ても分かるように、軽妙な声を上げて笑い合う二人。
「連邦まで送ってやろうか?」
「それを世間では不法入国というんだよ?」
「魔族に国境云々を語るとは世界広しとお前ぐらいだろうな」
黒がわざとらしく肩を竦めてみせれば、すかさずそれに合わせて見せるクロナ。
「あのさぁ。いい加減にしてくれないかなぁ……」
そこで遂に分厚く見えたレギーナの余裕に目に見えた綻びが生じる。
「何だ。振り上げた腕がだるくなったか? それとも単に運動不足か? よもやどこぞの王女さまが流行らせた紛い物の影響ではあるまいな?」
「うるさいなぁ……」
レギーナの目に宿る冷ややかな色。向けられたのが自分であったのなら――考えたくもないと逸らした現実を前に、しかしそれを分かった上でクロナとの間に割り込んだのは正しくその同類だった。
「ちょっ、犬頭!?」
「おまわり――!」
「わんっ!」
呼応するようにアリアーヌから犬頭へと直線で飛来したそれを手にしては、一目でそうと分かる熟練の動きで引き抜かれる一振りの剣。
「はぁ……いい加減にしてよね」
卓越――されども縮まらぬ差。そこは届かぬ領域。レギーナの羽虫でも振り払うかのような横一線に、犬頭の構えた剣がけたたましい音を立てては見事なひびが浮き上がる。
「うそ!?」
「冗談でしょ……?」
レギーナから振り下ろされる自嘲交じりの二撃目――。背中越しにそれに待ったをかけたのは、他でもないクロナだった。
「待った」
クロナによって背後へと引き寄せられる犬頭。直後に黒によって受け止められるレギーナの振るう何かは、その余波だけでいとも簡単に船を甲板から真っ二つにする。
「やっぱり厄日じゃない!」
「アリアーヌ様!」
「ヤナさん」
「分かってるわよ!」
軋みを上げては急激に折れ曲がる船体。すでに走り去ったはずの衝撃がなおも空気を揺らし、海上をこれでもかと白く泡立てている。
更に事態の収束を待たずして再び海面を押し上げる何か。現状にとどめを刺すように現れた幾本もの巨大なタコ足は、空を覆い隠すように容赦なくその船体を包み込む――。
「またな」
「また」
暗闇に響く二人の声。そしてすべては海中へと飲み込まれた。
レギーナ・スタルチュコフ=腰まで伸びた銀髪に似た白髪。連邦の最高戦力。中立の要。




