無職プロポーズ
「誕生日おめでとう」
雨宮賢人がワイングラスを掲げると、咲良が笑顔を作った。
「ありがとう。これからも二人でたくさん楽しい思い出を作ろうね」
そこは閑静な住宅街にある洋風の邸宅を改築したフレンチレストランだった。
窓辺のテーブルで若い男女のカップルがディナーのテーブルを囲んでいた。今日は恋人の三輪咲良の27歳の誕生日。同い年のふたりは付き合って三年になる。
「素敵なお店ね……」
咲良が窓の外に目を向ける。ライトアップされた庭園には、キンモクセイの葉が緑の苔の上にオレンジの絨毯のように広がっていた。
「ロビーのハーブがすごかったね。元は民家だなんて信じられないよ」
「でも高いお店なんでしょ? クリスマスはウチにしようね」
賢人は「わかってるよ」と苦笑した。
去年のイブ、飛び込みで入ったレストランで目が飛び出るような高い代金を請求された。若い二人はクリスマスシーズンが特別料金だと知らなかった。
賢人は上着のポケットに手を入れた。指先にはリングケースの固い感触がある。中には指輪が入っていた。
彼はその夜、咲良にプロポーズをする予定だった。成功したら店のスタッフがアコーディオンを演奏しながら花束を持ってきてくれる手はずだが――
(できないよ、無職でプロポーズなんて……)
昨日、会社で上司から会議室に呼び出された。
一ヶ月ほど前、同じ部署の親しい先輩から「おまえを正社員に推薦しておいたから」と言われていたので緊張していたら、伝えられたのは真逆の内容だった。
「君との契約は更新しない」
中堅の出版社で賢人は契約社員として働いていて、一年毎に更新していた。
「君が3年間、ウチでまじめに働いてくれたのはわかっている。ただウチはこれから女性向けのコンテンツを強化していきたい。男性編集者より女性の編集者が必要なんだ」
頭が真っ白になった。面談の後、どうやって自分の席に戻ったのかも覚えていない。
(正社員になったことを咲良に知らせて、プロポーズしようと思っていたのに……)
すでに指輪も購入していたし、彼女の誕生日を祝うためにお店も予約していたのに、計画が狂ってしまった。
「お父さんとお母さん、賢人に会えるのを楽しみにしてるって」
「うん、僕も楽しみだよ」
一週間後、彼女の両親が親戚の結婚式に参列するため上京してくる。会って挨拶をすることになっていた。
「どうかしたの? さっきからなんか元気がないけど……」
「いや、こんないいお店めったに来ないから緊張してるだけだよ」
クスッと咲良が笑った。
「ほんとね。ほら、お隣のテーブルの人、いかにもお金持ちって感じがする」
常連だろうか、一人で来店していた老人がソムリエを相手にワイン談義をしている。
「私たち、最初に出会ったときのことを覚えてる?」
「単行本を作った後の打ち上げだったよね」
咲良はデザイン事務所で働くデザイナーだった。賢人が担当する本の装丁を依頼し、彼女が担当することになった。初対面から話しやすく、飾らない人柄に惹かれた。
編集作業が校了した後、製作にかかわったイラストレーターやライターを呼び、打ち上げと称して飲み会を開いた。
みな口々に「へー、この版元は一冊終わるたびに打ち上げなんてやるんだー」と驚いていたが、実は咲良と親しくなるのが目的だった。
飲み会でプライベートの連絡先を交換し、何度かデートを重ねた。付き合ってくださいと告白したのは賢人の方だ。
「ね、今まで何が楽しかった? 私は夏休みに北海道旅行に行ったことかな」
札幌でレンタカーを借り、旭川、網走へと行く先々でホテルに泊まり、道北を巡って戻ってきた。
「ほら、沿道のお店で生きたカニを買ったけど、かわいそうだからって海に戻したじゃない」
「覚えてる。あのカニ、たくましく生きてるかなぁ」
二人とも車の運転は不慣れだったが、北海道の道は広く、交通量も少なかったのでなんとか予定していた道程をやり遂げた。今となってはいい思い出だ。
「僕は去年の花火大会かな」
「えー、賢人、行ったと思ったらすぐ帰ろうって言ったじゃない」
「だって人が多くてさ。戻ってマンションの廊下から見た花火が良かった」
「ずっと二人きりだったね」
咲良は出会った頃から変わらない。まっすぐで、嘘が嫌いだった。付き合ううちに自然と結婚したいと思うようになった。
「でもこの3年間、賢人といろんなところに行けて、すごく楽しかったよ」
そうだね、と賢人は力なく笑った。
彼女を3年も待たせたあげく、無職になってしまった。咲良には近々、正社員になれると言ってしまっていた。
(結婚したいなんて言えるわけないよ……)
涙がにじみそうになり、顔をうつむかせた。ナプキンを膝から外し「ちょっとお手洗いに行ってくる」とテーブルを離れた。
厨房の前で男性の店員に「杉本様――」と呼び止められ、賢人は足を止める。
「お打ち合わせの通りでよろしいでしょうか? 杉本様がお相手の方にプロポーズをしたら、我々が花束を渡しに行き、アコーディオンを演奏するという……」
「それはちょっと止めていただけますか?」
店員が首をかしげる。
「少し予定が変わってしまって……今日はプロポーズをしないかもしれません。すいません。せっかくご用意していただいたのに……」
「わかりました。お気持ちが変わられたらいつでもお申し付けください」
店員と別れ、賢人は店のトイレに入った。気持ちを落ち着かせるようと洗面台で手を洗う。鏡の前に自分の顔が写っていた。無職になるからだろうか、いつも以上に頼りなく見えた。
上着のポケットからリングケースを出し、フタを開けて指輪に目を落とす。
(せっかく指輪も買ったのに……)
じわりと目に涙が浮かんだとき、トイレのドアが開く音がした。他の客が入ってきた。リングケースを洗面台に置き、蛇口で手を洗うフリをした。
「プロポーズかい?」
小便を終えた老人が隣に立ち、不意に訊ねてきた。
「え?……」
「君たちがいるテーブルは、この店で〝プロポーズ席〟と呼ばれていてね。私は何組ものカップルがあそこでプロポーズをするのを見てきたんだよ」
思い出した。隣のテーブルで一人で食事をしていた老人だ。常連なのか、店員と親しげに話していた。
「はい……でも今日はしないかもしれません」
「どうかしたのかい?」
「実は……会社をクビになってしまって……契約を切られたんです。来月からは無職です。彼女にプロポーズをするわけにはいきません」
なんで初対面の老人にこんな話をしているのか自分でもわからなかった。誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。
ふむ、という感じに老人がうなずく。
「転職活動はするんだろう?」
「もちろんです。ただいきなり正社員は難しいので……」
「君は正社員じゃないから結婚する資格がないと思ってるのかな?」
「そういうわけでは……ただ、正社員でないと経済的な安定がないので、結婚した後、彼女が出産や子育てで働けないとき、僕がちゃんと支えていけるか不安なんです」
「でも働く意志はあるんだろう? だったらいいじゃないか。君は誰よりも彼女のことが好きで、大切にしたいと思っている。僕はそれだけで、君にプロポーズの資格はあると思うがね」
賢人は黙り込んだ。それはきれい事だ。現実の生活は甘くない。
「今はこんな時代だ。今日は正社員でも明日には無職になるかもしれない。誰の身にも何が起こるかわからない。正社員になったら、出世したら、金持ちになったら……そんなことを言っていたら、いつまでも結婚できないよ」
ポケットから白いハンカチを出し、老人は濡れた手を拭いた。
「……私は会社を経営しているんだがね、三回、事業に失敗して倒産してるんだ。そのたびに無職どころか借金を背負った。二回目のときは結婚して子供もいたよ。三回目の起業は皿洗いをしながら資金を稼いだんだ。妻は僕を見放さずについてきてくれたよ」
ハンカチを折りたたみ、上着のポケットにしまう。
「老人が説教がましいことを言って済まなかったね……実は今日は妻の誕生日でね。君の彼女も誕生日らしいね? つい耳に入ってね、よけいなことを言ってしまった。許してほしい」
「いえ、そんな……あの、奥さまは?」
老人は最初からひとりで食事をしていた。妻の姿は見なかった。
「妻は去年、亡くなったんだ。癌でね……このレストランで毎年、妻の誕生日を祝っていたんだよ。だから僕はあのテーブルに座って、亡くなった妻との思い出に浸りながら食事をとってるんだよ」
「…………」
「まあ、老い先短い老人のたわごとさ。気にしないでくれ。君の人生に幸あることを祈ってるよ」
そう言って老人はトイレを出て行った。通り過ぎるとき、ホワイトムスクの甘い香りがした。
賢人は鏡を見た。脳裏に老人の言葉がよみがえる。
『君は誰よりも彼女のことが好きで、大切にしたいと思っている。僕はそれだけで、君にプロポーズの資格はあると思うがね』
それはたしかに契約社員より正社員の方がいいに決まってる。貧乏よりも金持ちの方がいい。でも、結婚するかどうか決めるのは彼女だ。
(最初から僕は自分にその資格がないと思い込んでいた……)
賢人は意を決してトイレを出た。テーブルに戻り、上着のポケットからリングケースを出し、咲良の前に置いた。
「今日、君にプロポーズをするつもりだった」
咲良が驚きで目をみはる。
「でも、その前に言わなくちゃならないことがあるんだ。僕は会社から契約を切られた。来月からは無職になる……」
弱々しくなっていく気持ちを奮い立たせるように、ただ、と顔を上げた。
「もちろん働く意志はある。どんな仕事でもする。君を好きな気持ちに変わりない。ぜったいに幸せにする……こんなことになっちゃって説得力はないけど……君に苦労はかけない。だから――」
自嘲気味の顔をキリッと引き締め、咲良の目を見つめた。
「僕と結婚してください――」
咲良が押し黙り、やがて静かに口を開いた。
「……本当に私を幸せにしてくれる?」
「幸せにする。約束する」
咲良の顔におだやかな微笑みが浮かぶ。
「大丈夫よ。私は正社員だし、なんとかなるわよ……でも、私が身体を壊したり、働けなくなったときは賢人が支えてね」
「もちろん。ふたりで助け合って生きていこう」
どちらかに経済的に依存するのではなく、ともに支え合って生きていく――結婚の意味を老人の言葉で気づかされた。
「これからよろしくお願いします」
咲良が頭を下げた瞬間、隣のテーブルから様子を見守っていた老人がパチンと指を鳴らした。
店の照明が落とされ、二人のいるテーブルだけが明かりで照らされた。アコーディオンの演奏が鳴る中、花束を持った女性スタッフがやってきた。
賢人が咲良に花束を渡し、周りの客からいっせいに拍手が起こる。店内は若いカップルの結婚を祝福するムードに包まれた。めでたし、めでたし――
◇
「へー、かっこいい。それでおじいちゃんはおばあちゃんと結婚したんだ」
そこは老人ホームの病院のベッドだった。白髪になり、顔にしわの刻まれた老人の賢人がベッドのリクライニングに背を預けている。
見舞いに来ていた中学生の孫娘が訊ねた。
「仕事はどうなったの?」
「運良く別の出版社に雇ってもらえてね。一年後に正社員になれたんだ」
妻の咲良との間に一男一女に恵まれ、家庭を持った。妻はデザイン事務所を退職し、子育てをしながらフリーのデザイナーとして家計を支えてくれた。
「そのレストランは今もあるの?」
「もう閉店してしまったんだよ。おばあちゃんの誕生日にはいつも二人で行っていた。隣のテーブルにいた老人は亡くなって、私たちが彼のいたテーブルでプロポーズをするカップルも見送るようになったんだ……」
「お母さんや叔父さんが生まれたのもその人のおかげだね」
「そうだね。もっとちゃんとお礼を伝えられたら良かったんだけどね……」
ヘルパーさんが検温をしに部屋に入ってきた。孫娘は祖父を残して部屋をいったん出た。向こうから母親がやって来たので、今、聞いたばかりのおじいちゃんのプロポーズの話をする。
あはは、と母親は笑い飛ばした。
「それ、ぜんぶ嘘」
「嘘?」
「私、亡くなったおばあちゃんから聞いたの。おじいちゃんが契約を切られたの、おばあちゃん、出版社の知り合いから聞いて知ってたんだって」
「え?……じゃあ、トイレで会ったっていうお金持ちの老人の話は?」
「だから、そんな人いないんだって」
母親は笑いながら真相を教えてくれた。
「契約を切られたの? っておばあちゃんが問い詰めたら、おじいちゃん、レストランでワンワン泣き出しちゃったんだって。隣のテーブルにいた夫婦がハンカチを貸してくれたらしいから、たぶんそれを脚色したのよ」
孫娘は声をなくした。ぜんぶ架空の話? なんでそんな嘘の話を孫に話して聞かせたのだろうか?
「まー、よっぽどみっともなかったんでしょうねえ……テーブルに突っ伏して泣きじゃなくって、涙と鼻水で顔はグショグショ。周りのお客さんも、おばあちゃんもドン引きしてたっていうから」
「じゃあ、プロポーズは?……」
「でね、泣きながらおばあちゃんと別れたくない、結婚したいって言ったんだって。指輪も買って、レストランの店員さんに花束まで仕込んでたから、おじいちゃんも引くに引けなかったでしょうね」
孫娘はさすがに声を失った。さっき聞いた話とえらい違いだ。
「おばあちゃん、かわいそうになって、この人には私がついてあげなくちゃと思って結婚してあげたんだって。でも、おじいちゃんは恥ずかしいもんだから作り話を子供や孫にするのよ。ほんと、かっこ悪いわよねえ……」
ちなみに一週間後、上京してきたおばあちゃんの両親とは、無職のことは隠して挨拶したという。
「それでね、おばあちゃんから聞いたんだけど、両親はお見合いの話も持ってきてたんだって。ちょっと年上だけど、イケメンで、大企業に勤めてる人」
「おばあちゃんはどうしたの?」
「正直グラッときたらしいんだけど、おじいちゃんのプロポーズをもう受けちゃってたからお断りしたんだって」
「じゃあ、おじいちゃんがレストランでプロポーズしてなかったら?」
「おばあちゃん、別の人と結婚してたんじゃない?」
あはは、と母親は笑い飛ばし、それから母娘は部屋に引き返した。
「お父さんの好きなヨウカンを買ってきたわよー」
母がそう言って、ベッドに近づいていく。祖父は「このヨウカンじゃない」と文句を言い、母親は「えー、そうだったっけ?」と言いながら、ポッドでお茶の準備を始めた。
ベッドの祖父の姿を見ながら孫娘は思った。
もし、おじいちゃんがおばあちゃんにプロポーズをしていなかったら? お母さんも私も今、この世に存在していない。
青空の下を駆け回ったり、友達とバカ話で笑い転げたり、おもしろい小説や漫画を読んで感動することもなかった――
だから思った。おじいちゃん、ありがとう。無職なのにおばあちゃんにプロポーズをしてくれて。
世の中にはお金をかけてプロポーズを派手に演出する人もいる。けれど、弱さを全部さらけだして、愛する人に自分の気持ちを伝えたおじいちゃんは、世界で一番かっこいいプロポーズをしたのだ。
いつかおじいちゃんにそれを伝えよう、そう思いながら孫娘は祖父が横たわるベッドに笑顔で近づいていった。
(完)