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ふすまの向こう側

作者: カバーネ

一体なぜだろう。


その木造2階建ての古びたアパートは、一目見た瞬間から私の気持ちを強く揺さぶった。建物の持つ古風な雰囲気が、なにかを頻りに訴えてくる。


最初はてっきり木造に対する懐古趣味、いわゆるノスタルジーが呼び起こされたと思った。


だが違った。


私にこの時、押し寄せたのは、そんなフワフワした、心地のよい感覚ではなく、どちらかというと不愉快な、どんよりした類のものだった。不安のような、怒りのような、なにか得体のしれない衝動だ。


「来るべきじゃなかった」


私はそうした思いに一瞬だけ捉われた。だが今さら帰るワケにはいかない。不動産屋の主人にわざわざ案内してもらい、ひどい渋滞の中、車で小一時間かけてアパートの下見に訪れたのだ。


気を取り直すため


「さてと」


ドアの前で声を発した。私のそんな様子を見て主人はニコリとほほ笑んだ。有望な客と見込んで期待を持ったのだろう。


部屋に入ると最近では珍しい畳敷きの内装だった。壁も天井も全体的に古くささが漂っていた。できれば築年数のあさいフローリングの部屋が希望だが、しかし、それが絶対というワケではなく、改めてゆっくり室内を見まわすと、古いとはいえ、さっぱりした6畳と台所、そして浴室とトイレが完備されており、私のように男が一人で住むならこれで十分である。


「どうですか。なかなかいい部屋でしょ」


不動産屋の主人が頃合いをみて話しかけてきた。その口調はさりげない感じで商売っ気があまりなく、私は好感をもった。遠方まで車で案内してくれたこともあり、できれば契約したいと素直に思った。


「リフォームも済んで立地もまあまあですから住み心地はいいと思いますよ」


主人の軽めの営業トークを聞きながら6畳の和室に足を踏みいれた。畳に触れる経験が久しぶりなせいもあり、感触がひどく新鮮に思えた。ゆっくり右足、そして左足で敷居をまたいだ。


すると、その瞬間だった。私は強い既視感にうたれた。


「!」


理由は明白だった。部屋の奥に押し入れがあり、ふすまを覆う和柄の模様に見覚えがあったのだ。それは白地に扇の意匠で、幼いころの実家のふすまと瓜二つにみえた。


「あの絵は……たしか居間の押し入れ…」


私の意識は子供時代に急速に引き戻された。30年前の光景がありありと鮮明に蘇ってくる。私は反射的に抵抗した。拳を固く握りしめ


――ダメだ。思いだしてはいけない


そう念じた。


――子供時代のあの記憶は封印したではないか


私は扇の模様から目を反らそうとした。しかし、できなかった。むしろ凝視しつづけた。ふすまの裏側を想像し、押し入れの狭い空間と、その暗さを思って身を硬くした。


「どうしました。大丈夫ですか」


不動産屋の主人が心配そうに声をかけてくる。私の様子に異変を感じ、困惑しているふうだった。


「大丈夫ですか。顔色が…」


主人の声はしっかり聞こえていたものの、応答できないまま私は棒立ちになっていた。



 ◇



子供のころの私にとって押し入れというのは逃げ場所だった。狭くて暗いあの空間に、小学生の私はじっと息を潜めて隠れることがよくあった。目的は、ある存在から逃げることだった。


一体なにから逃げたかったのか。


父である。実の父親を避けるため押し入れに身を隠したのだ。


私の家族は両親と兄と妹で、外からみれば5人暮らしのごく普通の中流の家だった。だが、中に入ると普通ではなかった。父は家の中で暴力を振るう人間だった。DVという言葉が当時はまだなかったが今振りかえれば典型的なDV男性だった。


母と私たち兄弟にとっては辛い日々の連続だった。しかし、どうしようもなかった。当時は男が家庭で暴力をふるうのが黙認されていた。しつけと称して妻や子供を殴ることに世間は寛容で、そうした男を告発するという発想が私たちにはなかった。どこか宿命のようなものとして不本意ながらも受け入れていた。


父の特徴は些細なことで機嫌が変わることだった。気まぐれに怒ることも多かったため、私は父の顔色をいつもうかがっていた。そして荒れる兆候を察知すると黙って部屋を移動し押し入れに逃げこんだ。暗闇で膝をかかえこみ、家が静かになるのをひたすら待った。その間の恐怖をまぎらわすため、自分にこう言いきかせた。


――今はかくれんぼで遊んでる最中だ。父さんが鬼役で家族仲良く遊んでいるだけなんだ


あきらかな現実逃避でどこか滑稽だが、子供にかろうじてできる精神の防御法だったのかもしれない。


そんな日常がつづくなか、突然、兄が死んだ。表向きは階段から転落したことにされた。だが、それは偽りで、実際は父の折檻が死の原因だった。その事実を私は知っていたのだが誰にも言わないまま貝のように口をつぐんだ。情けないことだが父のことが心底から恐かったのだ。


兄の不在により家の中はいっそう沈鬱になった。気弱な私とちがって2才上の兄は父に立ち向かう勇気を持っていた。母や妹や私を守るため父の前に果敢に立ちはだかることがよくあった。しかも殴られても引かない性格だった。その兄がいなくなり、私の心にぽっかりと空洞ができた。


4才になったばかりの妹の奈津は、そんな私に聞いてきた。


「ニイ兄タンはどこ」


奈津は亡くなった兄のことをニイ兄タンと呼び、とても懐いていた。ほぼ毎日のように一緒に遊んでいた。その兄が急にどこかへ消えて困惑していたが、まだ幼いためか人の死をうまく理解できず、仲良しだった兄にしきりに会いたがった。夕方になると窓の外を眺めるようになり、下校する男の子が通りすぎると、その姿をガラス越しに目で追った。そして


「ニイ兄タン、学校から帰ってこないね」


小さくつぶやいた。


私は何も言えなかった。言うべき言葉がなんなのか、わからなかった。そして、そういう自分をひどく情けないと感じた。本来なら死んだ兄に代わって妹を守るべきなのに、それができない自分に幻滅を覚えた。


――どうせ俺なんか


卑屈な感情に私は次第に捉われていき、家族に対して壁をつくりだした。母との会話を拒み、兄に会いたいという妹のことを時に疎ましく思った。


そして、その日がおとずれた。


休日の夕方だった。私はいつものように、惨めな気持ちで2階の押し入れに隠れていた。父は階下におり、そのヒステリックな声がふすまを通して耳に入り込んできた。これから暴行がエスカレートする前兆だ。せめてもの救いは妹の奈津が保育所のイベントで家にいないことだった。


母の悲鳴が聞こえた。私は反射的に耳をふさごうとした。すると、なにかが手に当たった。小さな箱だった。暗がりで目をこらすと、それは裁縫箱だった。蓋があいており縫い針や糸が無造作に詰め込まれていた。その中に、ズシリと重い金属製のなにかがあった。大きな裁ちばさみだ。


細かい裁縫道具が多いなか、それは異様に目立っていた。ふすまの隙から光が差し込み、刃がきらめいていた。


私はその裁ちばさみにそっと手を触れてみた。先端が鋭利にとがってまるで凶器のように冷たい凄味が伝わってきた。


母の悲鳴がまた聞こえた。


私は裁ちばさみをギュッと握りしめた。感触をたしかめ、先端を父の腹部に突き刺すことを想像した。吹きだす血しぶきと、それを浴びて真っ赤に染まる自分の姿がくっきりと脳裡にうかんだ。咄嗟に恐くなり、はさみを投げ出した。


しかし私の目は金属の凶器に魅入られていた。手を伸ばし、はさみをもう一度手にとった。心臓がドクドクと激しい鼓動を開始した。


やるしかない。そう思った。


ふすまを開け、外に踏みだそうとした時だった。私の腕を誰かがつかんだ。


振りかえると、そこにいたのは兄だった。死んだ兄が私の腕をつかんで離そうとしなかった。


「…兄ちゃん」


兄はゆっくりと首を振った。


――お前は行ってはいけない。ここにいろ


そんな声が聞こえたように思う。幻聴かもしれないが私にはそう聞こえた。


兄は私を引きとめると、入れ替わるように自分が押し入れから出ていった。私を見つめ


――母さんと奈津を頼むよ


そう言葉を残して兄は部屋の外にでた。静かに階下へ降りる背中を私は見送った。その直後、うぉぉぉという父の苦悶の声が大きく轟いた。それは一瞬だった。


私は恐る恐る階段を降りた。階下にいたのは母だけだった。父の姿も兄の姿も見当たらない。母が気を失って倒れているだけだった。


兄が父を連れ去った…


子供の私はそう考えた。ほかに説明のつかない出来事だった。



 ◇



母はなにかを見たかもしれないし見てないかもしれない。それについて私は聞いたりしなかった。


父は失踪した扱いになり、私と母と妹は3人での新生活に移行した。日々の暮らしに暴力がなくなり素直に嬉しかった。しかし、その一方で、経済的な面では苦しくなった。母の収入は決して多くはなかった。


――母さんと奈津を頼むよ


兄のその言葉を守るため、私は中学時代にアルバイトをはじめ生活費の足しにした。そして高校を卒業して就職した。大学に行きたいと思ったが金銭的な理由であきらめた。残念だったが、その後、後悔はしていない。


「大丈夫ですか」


不動産屋の主人がそっと顔をのぞきこんできた。


「え」


私は30年前の追想からゆっくり引き戻された。部屋の下見に来たことを思いだし


「…いえ、なんでもありません。ちょっと立ちくらみがしただけで」


返事をして笑顔を取りつくろった。そして予定通り、10分ほど室内を見てまわった。


だがその間、気分はあまりすぐれなかった。過去の記憶が浮かんでは消えを繰りかえし、押し入れのふすまが視線に入ると体がひやりと冷たくなった。不動産屋には悪いが、この部屋に住むのは無理そうだ、他を探そうと思った。


それから数年が過ぎた。


ある夏の日だった。たまたま用事があって、アパートの付近に出かけた。ふらりと足をのばして現地を見にいくと木造アパートはなくなっていた。すでに取り壊され、跡地は小奇麗なビルになっていた。


そのビルは正面がウインドウで覆われており、近づくと私の全身が映った。それを見てつい苦笑した。少しだがお腹がでている。


「太ったな」


給料もそこそこ良くなり美味しいものを食べたいだけ食べるようになったが、そのせいだろうか。あるいは単に年をとっただけなのか。


そんなことを考えながら立ち去ろうとした。するとウィンドウに人影が映った。私の背後に誰かがぽつんと立っている。


子供、男の子…少年だ。


痩せた体に半ズボンをはいている。その格好に見覚えがあった。


はっとして


「…兄ちゃん」


慌てて振りむいた。


「!」


しかし、そこには誰もいなかった。見まわしても人影はなく、路上をゆっくり軽自動車が走りぬけていく。動くものはそれだけで、のどかな光景がひろがっていた。私はその場に立ちつくし、少年の姿をしばらく探し求めた。

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