第八章〜重責〜
とうに日も落ちたのに、昼間とは違うじっとりとした暑さが街を包んでいる。
窓から空を見上げると、もう雲の色はわからないが星は姿を消していた。
「明日は雨かな……」
いつだったか、空は心を写す鏡だって聞いたような気がするけど、案外当たってるかもしれないな。
ま、明日大嵐がきても、私の依頼は変えられないんだけどね。
「……はぁ〜あ」
街の役所から出た依頼だから報酬はかなり大きい。それでも、やっぱりレイやエメリアと一緒に行きたかったなぁ。
一人より大勢の方が心強いし、何より楽だ。
だが、同じ森に行くにしても、私の方が段違いに危険性が高い。
レイやローファだけならともかく、残り二人まで連れていくわけにはいかないよね……。
いいかげん憂鬱になってきたので、心を沈める曇天から目を背け、部屋の隅に視線を向ける。
彼がいるから私は一人じゃない、はず。
「具合はどう?」
ベッドに腰掛け、そこで横になっている私の大切な人に聞いてみた。
ちょっと前までいつも一緒に過ごしてた大好きな彼は今、横で苦しみに耐えるばかりだ。
日に焼けていた顔は蝋のように白くなり、今にも燃え尽きそうな程痩せ細っていている。
輝くような金髪も艶が無くなり、引っ張ったら容易く千切れそうだ。
「……上々だよ、キルヴィナ。……本当にごめんね」
彼の持つゆったりとした包み込むような暖かさは、死への恐怖が凍てつかせていた。
「もう何?いきなりどうしたの?」
訊いているけど分かっている。
いつものあれだ。
「僕が呪いをかけられ、なければ、ハァ、君に仕事なんて、させることも」
「あぁもう聞き飽きたよ。似たような台詞、これで何回目?」
口に指で栓をする。
「これは私が望んでやってること。結婚もしてないんだから、嫌ならもうとっくに別れてるよ。それでも私はあんたのことを助けたいの。昔みたいに二人でまた楽しく過ごしたいから」
優しい彼だから、こんなことを考えるのも当然だ。
なのできっと何か抵抗するようなことを言うだろうと思ったけど、予想は外れた。
「……ありがとう」
「あれ?今日はやけに聞き分けがいいね」
無理やりに笑おうとする姿は、見ていてとても辛かった。
「フフ……言っても、無駄だからね」
本当に私のこと、よく解ってくれてるよね……。
そんなあなただから、私は見捨てたくないんだよ。
「ふぅ……それじゃあ私はもう寝るよ。明日早いし」
「ああ、お休み」
一瞬彼に動揺が走ったのを見て見ぬふりして、私は部屋を出た。
たぶんそいつは遊び半分だったんだろう。
黒いローブに身を包んだ白髪の若い男。
街中だというのに大鎌を肩にかけ足音もなく歩くさまは、さながら死神のようでいまだに目に焼き付いている。
この街でただ普通に暮らしていた私たちの前に現れたそいつは、何の面識もないのに、すれ違いざまに呪いをかけてきた。
息を吐き出すようなかすれた声で詠唱はあまり聞き取れなかったが、確か最後に“衰弱の夢魔”と唱えたと思う。
するとそいつの鎌が黒い炎のようなものに姿を変え、矢のような意匠を象った。
直後それは目で追えない速度で放たれ、一切の反応を許さずに彼の左胸を貫いたのだ。
その場の外傷こそ残さなかったものの、その黒炎は日が落ちると彼の全身から生気を吸い取り、文字通り衰弱させていく破滅の夢魔となった。
恐らく術者独自の呪いなのだろう。
どんな書物を必死になって漁ってもこの術は載っておらず、困り果てた私は知り合いの高名な魔術師に聞いてみた。
彼の話では、この魔術は地の特性“吸収”を基礎にした強力な呪いで、効果は夜だけ顕れることから進行はとても遅いがもってあと4年の命だろう、とのこと。
彼もこの国の魔術師団も自分達には治せないと言ったので、優秀と名高いクローベルの魔術師団に文書を提出してみたところ、料金が100000ボルカ。
それだけあれば家でも買えそうな値段だ。
勿論数年でこんな額を真っ当な手段で用意できるわけがない。
そこで私はもともと並はずれた身体能力を持っていたこともあり、この手を血に染めることにした。
遊郭や魔術の被験者等も考えられたけど、人殺しは死と隣り合わせの仕事。失敗すれば命は無いが、見返りは他の比ではないからだ。
いつ消えるか分からない灯火に“消えないで”と祈りながら、人の命を休むことなく次々と金に変えていった。
最初はそんな自分に嫌悪感を抱いていた。
何回も悪夢を見たし、時には彼から隠れて一人で夜通し泣いたりもした。
もし私の仕事が傭兵だと知れば、彼は意地でも辞めさせるはずだから。
だが人間とは恐ろしいもので、月日が経つにつれて殺しにまで慣れてしまう。
「……ふぅ」
寝転がり、両手を頭の下敷きにしてため息をひとつ。
これではあの悪魔と大差ない、立派な殺人鬼だ。
いや、傭兵全員がそう言えるかも知れない。
「レイは、どうなんだろ」
一年くらい前だったか、最初にあいつを見たとき、迷わず声をかけた。
昔の私と同じ、血の臭いも背負う命の重さも全く知らない素人の雰囲気が感じられたからだ。
だけどあいつは腕こそすごい成長を遂げているけど、今でも殺しを嫌うことができている。
挙句、怪物に成り果てたお姫様を預かろうなんて言うんだから、鬼と呼ぶには優しすぎる気がする。
じゃあ、そんなお人好しが剣を握る決意を固めた理由は……。
「……バッカみたい」
考えようとして、止めた。
他人の事情には口出しするべきじゃない。
あいつにどんな理由があろうと、私には関係ないんだから。
それにいざその話を聞いて同情してしまったら、万が一レイが敵に回った時に闘うことを躊躇う原因になりかねない。
例え相手が友人でも、己の感情を押さえつけ、冷徹に標的を消すことだけに集中できるかが殺しにおいて最も重要な点だ。
感情に流されたり一瞬でも油断を許せば、無数の凶刃に斬り裂かれ、何ともつかない肉塊となって果てることになる。
まだ、自分は死ぬわけにはいかない。
側に置いてある愛用のランスに両手を伸ばし、誓いをたてるように切っ先を天に向ける。
鉄製で装飾も塗装もない、傭兵を始めてからずっと使ってきた私の相棒。
近接戦闘でも使えるようかなり短めに作られている、ランスの規格を外れた安物だ。
「……」
いつものように、闘争前夜の覚悟を武器に込める。
傭兵になって2年。
たまった額は80000ボルカを超えた。
そして明日の成功報酬は5000ボルカだ。
そう。
あと少しで、昔に戻れる。
あと少しで、全部終わるんだ。
だから、絶対明日も生き延びる。
「あの人のために」
我ながらあまりに臭い台詞だと、一人で忍び笑いしたのだった。
朱。
その一色に全てが染められた、暗く朱い丘。
俺はそこに立っていた。
足下には、踏みしだかれてひしゃげた人の残骸が無数に転がっている。
首、手、脚、胴。
それぞれが四方八方に飛散しており、いくつかは腐食し、蛆がわいて吐き気のする悪臭を放っている。
三日三晩降り続けた霧雨はついぞ止むこと無く、月が時折顔を出すようになった今も、朱を洗い出そうとするかのように俺の全身を静かに濡らしていた。
その右手には身の丈ほどはあろうかと言う巨大な両刃剣が握られている。
殆ど光の無い空間で輝きを失った刃には、どす黒い染みが残っていた。
「うぉぉぉ……ぐぉぇぇ……!」
膝をつくと同時に剣が手から滑り落ち、柔くなった地面を自身の重みで穿った。
満身の力を四肢に込めたものの、倒れないよう両手で踏ん張るのがやっと。
直視したくない現実に拒否反応を起こしているのか、頭が割れそうなほどに熱く痛かった。
込み上げる吐瀉物が贖罪の為の毒薬であるような気がして、必死で飲み込む。
殺した。
何人も、何十人も。何百かもしれない。
俺がこの手で斬り殺してしまった。
首を飛ばし、胴を払い、腕を切り落とした。
他でもない、自分が……。
「う゛うっくそっ……なんで、こんな……」
雨と涙で視界は霞み、何もかもがぼやけて見えない。このままこの惨状が溶けてなくなればいいのに……。
「仕方のないことだ」
不意に上から聞こえた、息を吐くような掠れた声。
抑揚が全く無く、感情を捨て去ったかのような虚無な声が、俺に囁く。
「お前の実力がこの骸共を上回っていただけのこと。それより報酬の分け前のことだが」
「それより……?」
頭の熱が一気に増したような気がした。
手傷を負い唸りを上げている怒りという猛獣が、覚醒の遠吠えを上げる。
何だよそれ。
こいつらより、金の方が気になるのか?
ふざけんな……!
「人の命って、そんな軽いものじゃないだろ!!」
相変わらず地に這いつくばる格好のままだが、声の限りに地に向けて叫んだ。
顔を上げることすらできないほどに参っているのに、暴れ始めた獣は悲哀の怒号を止めようとしない。
「敵だから殺してもいいのか!?弱い奴は死んで当然なのか!?違うだろ!!」
傭兵になった時から、うっすらとは分かっていた。
いつかこんな日がやってくることも、この考えも所詮理想論でしかないことも。
「なんで誰かが死ななきゃならないんだ……!俺は誰も殺したくないのに……」
斬らなければ自分が斬られるから、こちらが相手を斬るしかない。
それでも、納得したくなかった。
何十何百の人生を己の一振りで断ち切り、それぞれがさらに何百何千の悲嘆を生み出す。
負の連鎖の元凶となる自責の念に、どうにかなりそうだった。
今までの苦しみは心の最奥にひずみを作ってしつこく居座り続け、命を刈り取る度に悪夢を想起させる。
最期に聞かされた嘆願や呪詛、怨恨と絶望の張り付いた死顔。
過去の罪が頭の中で映像となり、今の罪をより深く刻み込む。
抉られた傷痕は、もう底が見えないほどに深い。
「ならば、ここで終わらせてやろう」
相変わらず声では殺意すら感じ取れない。
雨音に混じって風を切る音がしなければ、鎌を振り上げたと気付かなかった。
反射的に立ち上がろうとするも何故か動けない。
見ると、側に転がっていた無数の腕が地に根を生やして俺の脚を封じていた。
「死して償え」
再度鎌が風を切り、宙に飛んだ頭が雨粒より派手な音をたて地に落ちた……。
「ハァ……ハァ……」
跳ね起き辺りを見回すと、翼付きの娘が俺のベッドで可愛い寝息を立てていた。
同じく真っ暗ではあったが、そこに朱はない。
一応地面がぬかるんでいないことを触って確かめてみる。
「チッ……下らねぇ」
舌打ちし、激しい動悸を抑えようと大きく息を吐く。
殺されるところ以外は生々しいまでに過去が再現されていた分、より現実的で質の悪い夢ではあったが、冷静に考えてあれが現実なら生きているはずがないのに、夢であることを確認した自分が馬鹿らしく思えた。
額の汗を腕で拭いながらそっと立ち上がり、頭を掻く。
あれ以来、俺は暗殺や戦闘を目的とする依頼を受けなくなり、剣を振るうのも自分や他人を守るためだけになった。
その分収入が減って、故郷を出る前に領主に言われた“ノルマ”が重く感じられるようになったが、自分が人斬りの外道であってもそれを厭わない鬼にはなりたくないと思ったのだ。
白髪に黒いローブを纏い、柄から刃まで余さず真っ黒な大鎌を持つあの死神のようには。
少し遠慮がちに伸びをし涼みたさに窓を開けると、そよ風が頬を撫でると共に、弱々しい霧雨が頭を濡らした。
月も星も全く見えない。
恐らく日の出には程遠い時間だろうが、寝る気はまるで起こらなかった。
寝ている間雨にさらされるエメリアにも悪いので、涼しさに別れを告げそっと窓を閉める。
「……変わったな、俺」
この街に来たばかりの頃は他人のことなんか歯牙にもかけなかったのに、せめてもの罪滅ぼしにとつまらない人助けをする内に、いつの間にかすっかりお人好しになってしまった。
まぁ、ここまで面倒な依頼人を抱え込んだのは初めてだが。
契約内容はいたって単純。
5年間、もしくは彼女の姿が元に戻るまで俺と共に暮らすというもの。
俺の仕事を手伝ってもらうことで依頼人に報酬を割り増ししてもらい、増えた分を彼女の収入とする。
その中から家賃を払うことが条件だ。
更に彼女がクローベルの王族復帰を果たすことができれば、一つ望みを叶えてもらうことができる。
何も問題は無い。
仕事を手伝ってもらうと言っても情報収集や空からの偵察、先導などの危険の少ないことをしてもらうのだし、何も問題はない、よな……。
言い聞かせるが、それでもやはり一抹の不安が残る。
確かにエメリアには常人には及びもつかない能力があるし、安寧と寵愛の中で育てられたとは思えない精神力を持つ。
だが、社会の裏にはそれらをいとも簡単に蹂躙する鬼畜外道が憚っているのだ。
命は保証出来ない。
「……チッ」
ともすれば弱気になっている自分に気がつき、もう一度舌打ちした。
しっかりしろよ。
こんなことだからエメリアに気を遣わせてしまうんだろ。
どんな障害が立ちはだかろうと、俺が全て薙ぎ払えばいい。
殺しは極力避けて、な……。
さて、朝までここに居ても安眠の妨げになるだけだし、下に降りるか。
いつまでも感慨に耽っていたって仕方がないしな。
そう理由付けをして思考を中止し、慎重に梯子に足をかける。
この決意が矛盾していることは自覚している。
この先、殺しは避けられないことくらい分かっているが、今はこう考えるしか無かった。
「随分と早起きだな。いい夢は見れたか?」
頼りなさげな明かりに照らされた薄暗い部屋で背後から聞いた問いかけは、昨日のそれと同じだ。
「いいや、不審者が家に押し入ってくる夢を見ている最中だ」
静かに梯子を降り、双子の前で肩をすくめる。
こんな夜更けだからノックをしても無駄だろうが、どうしてこう家に来る人は勝手に入ってくるのだろう?
「ごめんねサイラス。でもここくらいしか思いつかなくって……」
ローファが頭を下げると、彼女の綺麗な亜麻色の長髪が揺れた。
つくづく兄より妹のほうがよほどしっかりしている。それより……。
「何の用だ?」
大方予想は付いているが、一応聞いてみた。
「いやな、あの後遅くまでローファと店の片づけをしてたんだが、突然物騒なお客様が扉を破ってまでうちの店で遊びたいっていうもんだから、付き合ってられないと逃げてきたんだ」
アルスが笑いながら肩をすくめた。
そんな状況で冗談を交えられるこいつの肝の太さには感服するな。
「数は?」
「ご来店なさったのが三人。辺りを巡回してらっしゃるのが十人ぐらいか。多分店の前に待機してた奴も何人かいたな。かなり俺たちにご執心らしい」
やはり夕方の推測は当たっていたようだ。
しかしそうなるとあいつも隊列に加わっているはずだが……?
「よく生きてたな」
これが素直な感想だ。
「そりゃ生きてるさ。俺の妹を誰だと思ってるんだ?国家公認の魔術師も裸足で逃げ出す大魔法使い、ローファ・カインだぜ?」
確かにローファは、貴族の生まれなら間違いなく魔術師団を束ねる一流魔術師になれる程の腕を持つ。
だが彼女でも、あの死神に勝てるとは思えない。
「ローファ、戦った中にでかい鎌を持ってた奴はいたか?」
案の定、彼女は首を横に振った。
「ううん。私は押し入ってきた三人を気絶させた後、お兄ちゃんが先に開けておいた裏口から逃げただけだから……。見回りをしてた中にもそんな人はいなかったけどなぁ……?それ、誰のこと?」
「いや知らないならいい、忘れてくれ。それよりアルス、お前妹を置いて何処行ってたんだ?」
自分で振っておきながらなんだが、この話題は早く逸らしたかった。
「俺はお前んとこの大将に会いに行ってたんだ。あの人なら信頼もできるし、ある程度動かせる駒も持ってるだろ?あの人に頼んで奴等を街から追い出してもらおうってわけだ。無償でな」
「おぉ、なるほど……」
純粋に感心した。
実に上手い、アルスらしいやり方だ。
戦闘に関してはからっきしの一般人だが、口のうまさと頭の回転は天下一品。
俺にはあの堅物を言葉巧みに籠絡するなんてとても出来る気がしない。
ともあれ、会長が動いたのなら心配はないだろう。
「それならじきに落ち着くだろ。出発はほとぼりが冷めてからだ」
「りょーかい!そんじゃちょっと遅いが晩餐といこうか。腹が減っては戦ができぬってな」
するとアルスはどこに持っていたのかという程でかい鞄から数点の食料品を取り出した。
彼はその中から一切れの干し肉を拾い上げ、俺につき出してきた。
「頼りにしてるぜ、サイラス」
別に腹は減っていなかったが、なんとなしにかじりつく。
その干し肉は、少しパサついた感じがした。