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私は教室の窓に映る景色を見た。町のちょうど中心にそびえる巨大な機械の塔。世界の頂点まで伸びるその塔を中心にしてドーム状に広が天井には、夕暮れ時を示す赤と黄色のグラデーションが描かれていた。あと二時間もすれば星空が映し出されるだろう。私は素早く荷物をまとめると、学校を後にした。
駅へ向かい、村へと帰る電車に乗る。鉄板を折り曲げただけの冷たい座席は、当然のようにその赤く錆びた表面をあらわにしていた。
椅子の表面にハンカチを敷いて、私はその上に座った。一両編成の小さな電車。朝と夕方に一本づつしか通っていない農村地域行きのこの電車には、ドアなどという高級なものはついていない。ただの鉄の箱だ。
笛の音が聞こえた。それと同時に、私一人しか載せていない錆びた箱は、ぎしぎしと音をたてながら動き出した。
学校がある中心都市の町並みはすぐに消え、窓には田園風景が映し出された。その風景をぼんやりと眺めながら、私はふと、昔のことを思った。
こんなことを思い出したのは、いつぶりだろうか。
私たちがまだ幼かったころ。幼馴染のサヒと二人で、忍び込んだ祖父の書斎で偶然見つけた、一冊の、あの絵本。その絵本のあるページには、無限に広がる緑の大地と、深い蒼穹とが広がっていた。それ以外には、何も書かれていない。幼かった私でも、それがこの世界のずっと上にある「世界」の絵であることが分かった。
「きれいなえだね」
その絵に、私は憑りつかれたように見入っていたのを覚えている。
「でも、ほんもののほうがもっときれいなんじゃないかな?」
私の言葉に、サヒはそう返した。
「ほんもの?」
私が首をかしげると、サヒはうれしそうな顔をして、口を開いた。
そのあと、サヒが何と言ったのかは覚えていないが、私はその言葉に、胸がときめいたことを憶えている。
その絵の風景が、今はもうないと知っていても、やはりあの風景はぜひ見てみたいと思ってしまうほどに。
大昔、人この世界のはるか上で暮らしていたらしい。そこにはここよりももっと大きな場所があって、こことはくらべものにならないぐらい大きい陸地が広がっていて、さらにその倍以上もあるもっと大きな湖もあったらしい。
でも、今から何千年か前、そこに人食い悪魔がやってきて、陸地を焼き払い、湖の水をすべて毒にしてしまったのだそうだ。たくさんの人が人食い悪魔に殺されて死んだらしい。でも、そこに救世主様が現れ、この今の世界を作り、たくさんの人をそこへ逃がしたそうだ。人々はたくさんの知識と技術、それまでの歴史を失う代わりに、人食い悪魔から逃げ切ることができた。
こうしてこの世界が始まった。誰も、外へ出ていこうとする者はいなかった。いつしか、それは掟のようになり、外の世界は絶対に行ってはいけない場所だと、多くの人が口をそろえて言うようになった。以降、救世主様が私たちをここへ送った道は失われ、人食い悪魔に殺される者はなかったという。
これが、この世界の始まり。誰もが知っている、この世界の常識だ。
歴史の授業でこれを習ったとき、私はあの絵本の世界がもうなくなってしまったという事実に、本当に胸が詰まる思いだった。だけど、あの世界はもう何万年も前の物だったのだ。今更そんなものを見たいと言っても、しょうがない。見れないものは見れないのだ。悪魔がいる焦土に、わざわざ危険を冒してまで行っても何の価値もない。第一、上へ行く道がないのだ。道がないのに、行く方法なんてあるわけがなかった。絵本のページはすぐに幼い頃の記憶の中の一部として埋もれるだけだった。
電車が、がこん、と音をたてて止まると、私はハンカチを回収し、かばんを持って席を立った。出入り口の前にポツンと設置されている赤く錆びた階段を降り、草でおおわれかかっている改札口の箱に切符を放り込む。目の前に続くあぜ道を、私は淡々と歩き続けた。
やがて、村の子供たちの声が聞こえてきた。子供たちは私を見つけるなり、笑顔で小さな麻袋を担いでこちらに走ってきた。
「ねぇちゃんおかえり!」
そう一言だけ残すと、子供たちは私の横を麻袋を担いで、元気に駅の方へ駆けていった。
「ちゃんと夕飯までには帰るんだよ!」
立ち止まり、彼らの後姿を眺めながら、私は声をかけた。すぐに、「わかってる」と元気な返事が聞こえてきて、私は再び家路についた。
あの麻袋には、子供たちの遊び道具が入っている。そして、彼らは駅に停まっている電車の中で遊ぶのだ。私が乗ってきたあの電車は、翌日の朝、再び都市に向かうまで、あのまま放置される。だから、子供たちの特別な遊び場になっていた。別に電車を使うわけではないので、だれも止めはしない。それに、電車の中で遊んでくれた方が、いろいろと安全なのだ。田んぼで遊ばれると、もし子供が足を取られておぼれかけていても、見えないことがあるし、畑では、せっかくの作物が踏まれて傷んでしまうかもしれない。だから、親たちは、子供たちに積極的に電車で遊んでもらっていた。
「ただいまぁ」
ようやく家につき、玄関の扉を開ける。仕事で誰もいない家はいつも通り閑散としていた。その足ですぐに自分の部屋へ上がり、荷物を置くと、さっさと作業着に着替え、長靴を履いて再び外へ出た。
田んぼの方へ走ると、やはり、そこには背の高い彼の姿があった。
「サヒ!」
私が呼ぶと、サヒは土で汚れた顔をこちらへ向けた。
「あぁ、ミラか。今日も勉強お疲れさん」
「ううん、そっちこそ。いつも作業お疲れ様」
私はそういうと、道においてあった麻袋を取り、作物の間に生えている雑草を引っこ抜いていった。
「さんざん勉強やったあとに、畑の雑草取りまでやってくれるとは。優等生は違うな」
「優等生じゃないよ。こういうのが好きなだけ」
話しながら、私とサヒはせっせと雑草を引っこ抜いては、麻袋の中に放り込んでいく。
「この村一頭がいい子供が優等生じゃないんだったら、だれが優等生なんだ? ミラ」
「サヒに決まってんじゃん。あの時サヒが試験さぼらなかったら、絶対サヒが一番だったでしょ」
「俺は試験で文字追っかけるよりも、ベッドでごろごろしてる方が好きなのさ」
街の中心にしかない初等学校には、世界中から集まった「頭がいい子供たち」が集められる。ただ、各地方からは必ず一人は学校に行かないといけない決まりになっていて、私たちの村からはひとり、学校に通うことができた。その通う生徒を選ぶための試験に、サヒは来なかったのだ。本人は「寝ている方が好きだから」と言っているが、本当のところはよくわからない。
「にしては真面目に作業やってるよね、それはどう説明するの?」
「……これやらねぇと家に入れてもらえないからな」
サヒはそうぼそりと言って、腰を上げた。
「こっちは終わったぞ。そっちは?」
「まだ。ちょっと手伝って」
私がそう言うと、サヒはあくびをしてから私の分も草をむしっていった。
夜、宿題に向き合っていた私の頭には、やっぱりあの夢のことが浮かんでいた。
あの絵本。遠い昔に見ることなどできないと分かった、あの景色。
私は書きかけのノートを放り出すと、こっそり、祖父の書斎の前へ立つ。
ドアをノックして、扉を開ける。祖父は椅子に座って眠っていた。
起こさないように注意して、本棚の前に立つ。壁一面に並ぶ本。その多くは何千年も前に書かれたもの。
その本棚のうち、一番右の本棚を思いっきり壁に押し込む。
がこん、と何かが外れる音がして、押し込んだ本棚が左に流れていく。
隠し本棚。なんでこんなものがあるのかはわからないが、その中に、あの絵本があった。
黄ばんだその本を、壊さないように慎重に手にとる。そして、あのページを開いた。緑の大地に散りばめられた、白や黄色の星々。吸い込まれそうなほど深い色の空には、白く輝く光の球が浮いていた。右上に、黒い古代文字で、何かが書いてある。
その次のページには、その大地の上で身を伏せる人と、たくさんの空に浮かぶ青白い球が、さらにその次には灰色の空と黒い大地が描かれていた。
私はそっと本を閉じ、元あった場所に返すと、左にしまい込んでいた本棚をひっぱりだし、奥のを隠した。そして、祖父を起こさないように、こっそりと部屋に戻った。
翌朝、私はいつもよりも早く目が覚めた。頭の中には、やはり、あの風景が残っていた。いつもだったらすぐに忘れてしまいそうなことなのに、なぜか頭から離れない。
気分を紛らわそうと、外に出て体を思いっきり伸ばす。そして、ただ何となく、田んぼを眺めていた。
足音がして振り返る。見ると、サヒがあくびをこきながら、こちらに歩いてきた。
「なんだミラ。朝の作業なんか手伝ってたら学校に遅れるぞ」
「ちょっと早く起きただけ」
サヒは私の横を過ぎ、田んぼへと歩み寄った。水が抜かれて固くなった田んぼにしゃがみこみ、手のひらにそっと乗せた稲の穂先を見る。
真剣に稲と向き合うサヒを見て、ふと、胸の中から言葉がもたげてきた。衝動的に、口から声が漏れる。
「……ねぇ、サヒ。ちょっと変なこと聞くんだけどさ」
「ん? どうした?」
サヒは稲を観察したまま言う。
「ほら、私たちがまだ小さかったころにさ、よくおじいちゃんの書斎にこっそり入って本読んでたでしょ?」
「ああ、そんなことがあったようななかったような……」
「そこでよんださ、『あの』絵本、覚えてる?」
――サヒを取り巻く空気が、凍った気がした。
「……ああ、あれな。きれいな絵だったな。どうしたんだ? いきなり」
「昨日、突然思い出しちゃって。もういっかいあの絵本読んでみたんだよ」
「忍び込んでか?」
「うん。それでね……」
先を続けていいのかわからなかった。もう一度、やっぱりあの景色を見てみたいと思った、なんて言ったら、サヒはどんな反応をするのだろう。俺も見てみたいって共感してくれるのか。それとも、まだ子供っぽいこと言ってんだなと笑われるだろうか。
「……もう一度、見てみたいって思ったってか?」
私の言いたいことなど、はじめからわかっていたように、サヒは言った。
「……うん」
突然、サヒが立ち上がった。空中に放り出された稲の穂が、その茎をゆらゆらとゆする。
サヒが、無言でこちらに歩み寄ってきた。彼の体がいつになく大きく見えて、私は思わす後ずさった。
私の両肩を、サヒはがっしりとつかんだ。肩がつぶれそうなほど強く握りしめられた。
「サ、サヒ……?」
「一度だけ忠告する。よく聞いとけ」
見上げると、そこには突き刺すような視線を送るサヒがいた。
「二度と、あの本のことは口にするな」
サヒは、乱暴に私の肩から手を離すと、無言で去っていった。彼の視線に射殺されたようになっている私は、ただただ、その場で立ち尽くしているだけだった。
あんなサヒは、見たことがない。
射殺すような冷たい視線。冷徹な口調。肩には今も、彼に握られた感触が残っていた。
それからあの日まで、私たちは言葉を交わすことはなかった。
********
部屋の扉を開け、電気をつける。まだ慣れない高校寮の自室が、明るく映し出された。
冷えた鉄の床にかばんを置き、私は机の横においてある大きなベッドに倒れこんだ。
耳にまとわりついた先生の声が、うるさいほど頭の中を駆け巡る。逃げたくて、顔を枕に深く沈める。
――これから、皆さんには大事なことをお話しいたしましょう。
――この世界の「歴史」は、ただの作り話です。
知りたくなんてなかった、知らなければよかった。
歴史の「悪魔」が私達だったことなんて。
高校では、学校を卒業した生徒のうち、さらに優秀な人が集められ、専門的な授業が行われる。何とかその試験に合格したときは、私はほっとして、全身があたたかくなった。
高校で歴史科を専攻することに決めた私は、その日、初回の授業を心待ちにしていた。なぜ、サヒがあの絵本のことをあそこまで嫌うようになってしまったのか、結局、あの絵本は何が書いてあったのか、ここで学べば、またサヒと話せるようになるんじゃないか。なぜだかはわからないけれど、そんな気がしていた。
しかし。
「これから歴史科の授業を始めますが、その前に皆さんに絶対に遵守してほしい決まりがあります」
教室に入ってきた先生は、教壇に立つやすぐに言った。
「これから君たちが学ぶことは、この世界の秘密に触れてしまいます。それをいかなる理由があっても絶対に公開しないこと、これが決まりです。もし破った場合、情報を流出させた者はもちろん、流出した情報を聞いた者も『処分』されます」
これが守れないと思う人は、今すぐ退学、もしくは転科してください。
急に、教室の空気が重くなった気がした。緊張が教室を支配し、息苦しくなる。
誰も動かないのを確認すると、先生はまた淡々と話し始めた。
「以上をもって、この場の全員が、前述ことに同意したものとしてみなします。では、今回は初回ということで、講義を始める前に、いくつか知っておいてもらいたいことがあります」
まず一つ目に。
「今まであなたたちが習ってきたであろう『歴史』は、すべて作り話です」
――え?
「この世界ができた原因、それが『悪魔による侵略』であると皆さんは習ったでしょう。しかし、本当は悪魔なんてものは存在しません。いや、比喩的に悪魔ということはできますが、それはあくまで比喩。今まで君たちが習ってきたような黒い大きな体の生き物ではありません。でも、今あるこの世界の上の世界が滅びたのは事実です」
淡々と語る先生に、だれもがついていけなかった。
いままで当たり前だと思っていたものが、急に嘘だと否定される。何が本当なのかわからなくなるような感覚に、私は飲まれていった。
「では、だれが滅ぼしたのか」
一呼吸おいて、先生は言った。
「私達です」
――――。
「正確には、私たちの先祖です。今から約七一〇〇年前、上の世界では人類が互いに殺し合う、殺戮の社会でした。彼らはとにかくいかにたくさん人を殺すことができるかを考え、そのための道具である『武器』を作り続けました。そして、最後に作られた、『火の玉の武器』によって、上の世界は滅ぼされたのです」
先生が、何をしゃべっているのかがわからなかった。「なんちゃって。今のはすべて私が作り上げたフィクションですよ」なんて言ってくれた方が、まだ納得がいくと思った。
「『火の玉の武器』は強力な熱線と、大量の毒を出すと言われています。それを人類が互いに使用し続けた結果、上の世界に住む場所がなくなり、生き残るためにこの世界が作り出されたわけです。そして、この世界では絶対にあんな惨劇を起こさないよう、逃げてきた人々は事実を隠しました。争いのもととなった上の世界をすべて消し去り、新しく争いのない世界を作ろうと。そのために、上の世界のあらゆる記憶は民衆から消され、私達のような限られた人が争いが起きないように社会を調整するようになったのです。あなたたちに先ほど秘密の漏洩を禁止したのはそれが理由です」
そのあとも、今まで知っていたことはすべて否定され、新しい本当の知識を植え付けられていった。
今まで習ってきたことは一体何だったんだろう。私たちは、今まで騙されていたというのか。だったら、今教えられたことはどうなんだろう。やっぱり嘘なんだろうか? それとも、本当のことなんだろうか? どちらにしても、これからはこの秘密をだれにも明かさずにしなければならない。私も、嘘をつく側の人間になってしまったのだ。先ほどまでの未知の世界にときめいていた自分が、なんだか馬鹿らしく思えた。こんな罠にはめられたような、そんな気持ちになるなんて、思ってもみなかった。何のためにここまで来たんだろう。そう思うと、やりきれなかった。
それからは、もう深く考えないようにした。人形のように、ただただ知識を受け取り、操られるだけ。そう思っても、心の奥底にたまった濁ったものは、なくならなかった。
あっという間に時は過ぎ、夏期が終わるころには、友達もできていた。
ある日、その友達と街にあるお菓子屋さんにお茶をしに行こうという話になり、私はついていった。
その店は、小さくてかわいらしく、赤い屋根が似合うベージュの建物だった。
店内に入り、注文をすますと、だらだらと雑談を始める。
何も考えずに笑っていると、ふと、窓の外に目がいった。
――そして、そこに彼の姿があったような気がして、私は思わず立ち上がった。
「え? ミラ、どしたの?」
いや、見間違いなんかじゃない。間違いなく彼だ。確信すると、私は床に置いていたかばんを持った。
「ごめん、ちょっと用事思い出した。せっかく誘ってくれてたのにごめんね」
私はそれだけ言うと、店を飛び出した。人ごみの中を、彼が入っていった裏通りへと急ぐ。
彼はこちらを向いて立っていた。まるで、私が来ることがわかっていたかのように。
久しぶりに見る彼の顔は、なんだかやつれて見えた。いろいろと言いたいことが駆け巡ってきて、それでいて何も言い出せなかった。
「……久しぶりだな、ミラ」
「……うん、久しぶり、サヒ」
言葉が出てきて、ちょっと安心する。けれど、無表情なサヒの顔を見るや、すぐに靄に包まれた。
「分かったか? あの絵本の話をしてはいけない理由が」
サヒが問う。
「……うん」
「なら、上へ行くことがどういう事かも、わかるよな?」
「……うん」
「なら、やっとあきらめがついたか?」
「……ううん」
サヒの表情が曇ったのが分かった。
「……どういうことか、わかったんだよな?」
「……うん」
「なら――」
「にげちゃ、ダメだと思うから」
私の言葉に、サヒは、何も言わなかった。
「惨劇が起こって、それで、みんな死んじゃって。でも、それって隠してもいいことなの? 嘘ついて、『悪魔』のせいにして。ちゃんと向き合って、どうすればいいかを考えないといけないんじゃないの?」
あの授業の日から、私が思い続けていたこと。胸の奥に押さえつけていたこと。そのすべてが、あふれるように出てきた。
「自分が遊んだおもちゃは自分で片づける。後始末は、村の子供達でも出知ることだよ? それを、知らないふりして、隠して、逃げて。自分でやった責任は自分でとらないとダメなんじゃないの? 争いがあったことを隠しても、その原因が解決しなかったら、また同じことが起こるよ? その時もまた隠すの? 逃げる場所なんかもうないのに?」
あふれ出た言葉が、サヒに対しぶつけるべきものなのではないことは、わかりきっていた。でも、それを然るべき人に言う勇気は、私にはなかった。サヒに、全部八つ当たりしていた。
「……勝手にしろ」
サヒはそういうと、私に背中を向けた。
去っていく大きな背中を、私は追いかけることができなかった。
その日の夜、私は寮母さんに呼び出された。なんでも、家族が訪ねてきたのだという。
誰だろう、そう思ってエントランスへと急いだ私は、その来訪者を見て、息をのんだ。
「よう」
そこにいた彼は、短くそう言った。
立ち尽くす私に、彼は笑顔でこういった。
「ちょっと話があんだけど、いい?」
鉄の街を二人で歩く。なぜ、来たのか。どこへ行こうとしているのか。頭を埋め尽くすほどの疑問に襲われながら、私は前を歩くサヒの大きな背中を無言で追いかけていた。
人気のない公園へとたどり着くと、サヒは街灯下のベンチへと腰掛けた。私のその隣にお邪魔する。
しばらく、沈黙が流れる。気まずい思い空気が、二人を取り囲んでいた。
「……本当に、見てみたいのか?」
「え?」
サヒの言葉に、私は思わず聞き返した。
じっと、真剣に私のことを見つめ返すサヒに、なんだか恥ずかしくて、私はうつむいた。
「うん。見たい」
「たとえ、命と引き換えにしても?」
命と引き換え、か……。
そう言われても、なんだか漠然としなかった。けれど、この世界の中で一生騙し続け、ごまかし続けて死ぬよりも、あのきれいな景色を見る方が、なんだかいいような気もした。
「分からないや。でも、後悔はしないと思うな」
私がそう言うと、サヒは小さく噴き出し、笑った。
「なんで笑うの!?」
「いや、ミラっぽいなっておもってさ」
サヒはひとしきり笑い終えると、さて、と笑顔で言った。
「それじゃ、行くぞ」
差し出された右手を、私はそっとつかんだ。
「うん、また明日ね」
「は?」
「え?」
サヒの返事に、私は思わず聞き返した。
「お前、今からどこ行こうとしてるかぐらい、話の流れからわかるだろ?」
「え? でも、上の世界までの道は行方不明なんじゃ……?」
私が尋ねると、サヒは笑って。
「まあ、ついてこい」
そう言って、私の手を引き、機械の塔へと走り出した。
入り組んだ裏路地を進み、私たちは塔のふもとにある大きな鉄の扉の前にっていた。
サヒがその扉を押すと、扉は音もなく静かに開いた。まるで、だれが勝手に入っても別に構わないとでもいうかのように。
サヒの後から塔の中に入ると、鉄のにおいが満ちていた。どこからか、水が滴る音も聞こえてくる。あたり一面は錆びた鉄の色でおおわれていた。
「こっちだ」
私が扉を閉めると、サヒは私の手を引いて、鉄の階段を昇って行った。
いってもいっても、永遠に螺旋階段が続いているだけの、簡単な仕組み。罠の類も一切ない。
「俺の親父、あいつの本当の職業は、処分屋だ」
階段をのぼりながら、サヒは口を開いた。
「処分屋?」
「『秘密』をばらしたやつを抹消する係、つったらわかるか?」
「……うん」
「俺がいろいろ知っているのはそれでだ」
話が終わると、またひたすらに階段を上り続ける。
「ねぇ」
今度は私から切り出した。
「どうした?」
「あの絵本、なんでうちにあったんだろうね?」
「……さあ? それは俺もわからん」
こうして、とりとめのない話ながら、私たちは階段を昇って行った。
「あとこれ」
サヒが、どこからか本を取り出した。
「お前には、これがいるだろ?」
その本は、あの「絵本」だった。
とたんに、涙がこみあげてきて、私は絵本を両腕でしっかりと抱きかかえた。
「ありがと」
サヒは小さく笑った。
私たちは歩き続けた。
いつまでたっても終わらないような長い階段を、ひたすらに上り続けた。
不意に、頬を柔らかく、温かいものが撫でていったような気がして、私は立ち止った。
サヒは、壁に貼られた鉄の板に小さな隙間があるのを見つけると、そっと、その前に手を置いた。
「……風だ」
「……うん」
「急ごう」
足を止めることなんてなかった。
今までの道のりが、とたんにとても短く感じられた。
そっか、これだけでよかったんだ。実際にしてみると大したことはないのに、なんで今までやらなかったんだろう。そう思った。
でも、その短いはずの距離も、なんだかとても長く感じられた。
そうだ、きっと、世界のルールがよそ見をしたんだ。そして、よそ見をしている間に逃げた私たちは、今、だれも見たことがないものを見ようとしている。そう思うとたまらなくて、涙があふれてきそうだった。
気が付けば、鉄の錆びたにおいも、武骨な色も、なんだか柔らかみを帯びた、やさしい感じになってきていた。
はやくはやくとせかす自分が、自然と足を速くさせる。
サヒも、だんだんと早足になってきていた。
だけど、道を踏み違えないように、一歩一歩、しっかりと。
そして。
ついに最後の段を踏み終わったその先には。
分厚い鉄の扉が、ひっそりとほこりを被っていた。
「開けるぞ」
サヒは言った。
私は頷いた。
サヒがドアノブを回し、ゆっくりと押す。ぎちぎちと音をたて、扉が前へと開いていく。
開いていく扉の向こうから、光が差し込んできて、私は思わず腕で目を覆った。
彼の息をのむ音が聞こえた。私は、そっと腕をどけた。
そこには、すべてがあるように思えた。
遠くまで広がる緑の草原に、ちりばめられた色とりどりの花はまるで輝く星のよう。さらにその向こうには、どこまでも続いているんじゃないかと思わせるほどに大きな湖が広がっていた。そして、空を見上げると、吸い込まれるほどに深い、鮮やかな群青が飛び込んできた。白い綿がいくつか浮かび、まぶしすぎて見つめることすらできない球が、温かい光を注いでいた。暖かい風が私たちをそっと、やさしく包み込むように流れていった。
不意に、すべてがにじんで、私は自分が泣いているのだということに気が付いた。
もう、他に何もいらない。そう思った。
私はそっと、腕に抱えていた絵本を地面に置いた。この本は、ここにあるのが一番いいように思えたから。
「綺麗だな」
サヒが言った。
「見に来てよかった」
「うん」
こらえようと思っても、涙は次から次へと頬を伝う。そんな私を、サヒはそっと、抱きしめてくれた。
この後、勝手にしまった扉は、中からカギがかけられたみたいになって、開けることができなくなっていた。でも、別にいいと思った。だって、こんなに素敵な景色を見られたのだもの。
肩を寄せ合って、私たちは閉じられた扉にもたれかかり、ただ、その景色を眺めていた。
「きて、よかったな」
サヒが笑う。
「うん、本当に」
私が笑った。
「花束は、これでいいか?」
「え?」
私が聞き返すのが早いか、唇に柔らかい感触がした。彼の顔がすぐ近くにあった。
しばらくして、そっと、唇から柔らかい感触が離れる。彼の顔は赤くなっていた。
何が起こったのかわからず、呆然としていると、彼の口が動いた。
そして、その言葉を聞くと同時に、顔が熱くなっていくのを感じた。
私は頷いた。
サヒは、赤くなりながらも、照れくさそうに笑った。
おなかの奥の方から、全身が暖かくなるのを感じた。ああ、ずっと、この幸せが続けばいいのに。そう思ったら、なんだか不意に瞼が重くなってきた。
「サヒ、私眠いや」
「ああ、俺も眠い」
サヒの優しい笑顔が、うれしかった。
「お休みだね」
「ああ、お休み」
手をしっかりつないで、私たちは再び肩を寄せ合った。
群青の羽を纏う鳥が一羽、緑の上に降り立った。
トントンとはねるように歩くそれは、見知らぬ肌色の巨大なものにぶつかると、とたんに逃げるように空高くへ、その色に溶け込むように飛んで行った。
そのあとには、やさしく眠る二人の髪が、花の咲いた緑と共に、風に柔らかく揺れていた。