隣の席の美咲さん
僕の名前は本郷平太。どこからどうみても"普通"という言葉がピッタリの平凡な17歳だ。
そんな平凡な僕なのだけど、最近悩んでいることがある。上で述べた通り僕は17歳――つまり高校二年生になる訳だが、僕はこの年になるまで誰かに恋をしたことがない。
つまり肉体的にも精神的にもチェリーボーイという訳だ。もっと簡単にいうなら初恋童貞という奴だ。
別に初恋童貞でも特に困ることはないのだけれど、友人やクラスメイト曰く、童貞はともかく17歳までに初恋を経験したことがない僕はどうやらおかしいらしい。
初恋童貞の僕としてはその"おかしい"という感覚がわからない。そもそも"恋"とか"愛"とかの感情自体を理解することが出来ない。
このままでは良くない気がするので、初恋という奴をしてみようと思う。
だけど困ったことがある。初恋をしたことがない僕は、そもそも恋がどういうものなのか理解することが出来ない。
どういう状態が恋なのか、何をどうすれば初恋になるのか理解出来ない現状では、仮に初恋をしたとしても気づかないままになってしまうのではないだろうか。
そこで恋とはどんなものかしら――なんて乙女チックな質問を、恋愛を理解するために友人達に聞いてみた。
とある友人曰く、恋愛は人生を豊かにしてくれるので必ずするべきものだそうだ。
また別の友人曰く、面倒くさくてうっとおしく思う時もあるけど、概ねは面白くて楽しいものだという。
折角アドバイスを頂いたのに申し訳ないが、あまり参考にならない意見だった。
これだけではよく理解出来ないし、そもそも意見を聞いた友人二人はお世辞にもあまり恋愛経験豊富というタイプではない。
という訳で恋愛経験豊富な人に聞いてみようと思う。
「いや、だからってなんであたしだし」
「だって美咲さんはモテモテじゃないか」
何を隠そう、隣の席の美咲さんは学校で一番可愛い女子として有名であり、その名前と容姿は他校にも知れ渡っている程の美少女だ。
噂によると校内の男子全員が一度は美咲さんに告白したことがあるとか。そんなにもモテモテの人ならきっと恋愛経験も豊富であり、僕の疑問にも答えてくれるに違いない。
僕がその旨を説明すると、美咲さんは呆れたように僕を見た。
「恋愛経験がないとは言わないけど、校内の男子全員に告白されたとか言う噂はデマよ。第一、その噂を君が信じているなら聞きたいことがあるんだけど、君ってあたしに告白したことあったっけ?」
言われてみれば僕は美咲さんに告白したことなどない。つまり美咲さんが校内の男子全員に告白された経験があるというのは嘘だということか。なんだかガッカリだ。
「……勝手にガッカリされても困るんだけど。その噂を立てたのはあたしじゃないし。勝手に噂を信じて、勝手にガッカリされてもねえ」
……言われてみればそれもそうか。この件で彼女を責めるのは酷というものだな。
「美咲さんの言う通りだ。この件に関しては僕の非を認めよう」
「なんか上から目線でムカツク」
ムカつかれてしまった。上から目線なんてそんなつもりはないのだけれど。
「まあその噂はともかく、美咲さんが男子にモテるのは確かだよね?」
「……まあ、そりゃあ他の人に比べれば男子に告白される回数は多いとは思うけど、別にあたしは恋愛経験が豊富って訳じゃないわよ」
「でも美咲さんは先月まで大学生と付き合ってたじゃないか。もう別れたみたいだけど、少なくとも先月までは恋愛をしていた訳だろう?だったら恋とはどんなものかという質問に答えられるはずだ」
僕がそう言うと、美咲さんは犯罪者を見るような冷たい目で僕のことを睨みつけてきた。
「何で本郷君があたしの恋愛事情を知っている訳?もしかしてストーカー?マジキモイんだけど……」
「おいおい。美咲さんは何を言っているんだか。初恋をしたことがない僕が美咲さんをストーカーする訳がないだろう。悪いが恋愛的な意味では美咲さんに興味を抱いたことはないよ」
「……また上から目線でムカツクし、面と向かって興味がないって言われるのもなんだかムカツクわ」
「じゃあ美咲さんに興味津津とでも言えばいいの?」
「それはそれでキモイからやめて」
じゃあいったいどうすればいいんだ。年頃の女の子は難しい。
「その困ったような顔が本気でムカつくんだけど……。まあそれはともかく、何で本郷君があたしの恋愛事情を知っているか答えて欲しいんだけど?場合によっては法的手段を取らなければいけないし」
なんだ、そんなことか。
「人は誰しも他人の恋愛事情に興味津津だからね。校内のカッコイイ男子や可愛い女子の恋愛事情は筒抜けだと思った方がいいよ」
人は誰しも他人の恋愛事情に興味津津だ。誰と誰が付き合っているか知りたいという欲求はゴシップの原点だと言えよう。
自分には何の接点もない芸能人の恋愛事情を知りたがるのと一緒で、イケメンや美少女の恋愛事情――ましてや芸能人と違って手が届くかもしれない相手の恋愛事情は皆が知りたがる。
僕は先に述べた通り美咲さんの恋愛事情なんかに欠片も興味がなかったけど、美咲さんの恋愛事情は友達が聞いていないのに教えてくれた。いつの時代も、どんな場所でもゴシップというものは話の種になりやすいということだ。
「……プライバシーって言葉を知っている?」
そんなことを僕に言われても。でもイケメンや美少女の個人情報は芸能人と同じで保護されないと思った方がいい。その点を考えればイケメンに生まれなくて良かったかもしれない。
「……そうだね。本郷君はイケメンに生まれなくて本当に良かったね」
可哀想な物を見るような目で見られた。心が痛くなった。
「でも真面目な話、何であたしが最近別れたって情報が伝わってるんだろう?あたし、そのことは仲が良いほんの一部の子にしか話してないんだけど……」
誰かが盗み聞きしていたって可能性を除けば、そう言った情報が周囲に漏れる原因は一つだよな。
「まあそういう情報って大抵はその人と仲が良い友達とかが周囲に話すんだよね。『これは内緒の話だけど、あの子彼氏と別れたらしいよ』とかってさ」
容姿が整っている人間は好意や注目を集めやすいが、悪意や嫉妬も集めやすいものだ。
美咲さんが大学生と別れたという情報も、もしかしたら彼女が話をしたという仲が良い友達とやらが周囲に漏らしたのかもしれない。
僕がその旨を説明すると美咲さんは俯いた。俯いたせいで彼女の艶のある長い前髪が、彼女の目を覆い隠す。
何かブツブツと聞こえる気がする。耳をすますと、どうやら音の発生源は美咲さんであることが発覚した。
「……もしかしてあの娘が?そう言えば前にも……」
どうやら心当たりがあるらしい。女子同士の黒い闇を見た気がした。これ以上闇を見てしまったら、初恋など出来そうにないなので話を戻すことにしよう。
「そんなことよりも、恋をするとはどんなことなのか教えて欲しいんだけど?」
「あたしにとって結構重要な事を"そんなこと"で片付けられても……。ま、まあいいか。えっと恋をするとはどんなものかって話よね?……あたしに言わせれば恋をしようと思ってする恋は本当の恋じゃないわね」
「というと?」
「だって恋は"する"ものじゃなくて"落ちる"ものだもの」
「ほほう。なんかそれっぽい言葉だね」
「それっぽいとか言うなし。えっと、なんて言えばいいかな……あたしはさ、恋って自分でも気がつかない内にしてるものだと思うのよ。上手くいえないんだけど、恋ってしようと思って出来るものじゃないと思うのよね」
わかったような、わからないような。
恋がしたいと思ってしまったら恋が出来ないというのなら、僕は初恋を出来ないかもしれない。
「じゃあ、恋をするとどんな状態になるの?」
「そりゃあ……気がついたらその人のことをつい目で追ってしまっていたり、常にその人のことを考えてしまっていたり、その人が自分以外の異性と楽しそうに話しているのを見たら嫉妬しちゃったりする状態?」
「何で疑問形?」
「ま、まあなんか複雑な状態になるのよ!というかこんなこと言わせないでよ。何か恥ずかしくなっちゃったじゃない!」
顔を赤くして照れている美咲さんは可愛いと思いました、まる。
えっと恋をするとその人のことを目で追って、その人のことを考えて、その人が自分以外の異性と話していると嫉妬したりしちゃうのか。……ん?ちょっと、まてよ?それってつまり……
「それはストーカー?」
「いや、何でストーカーだし」
「だってストーカーだって、好きな人のことをずっと考えていたり、好きな人のことをずっとみつめていたり、好きな人が自分以外の異性と一緒にいると嫉妬のあまり嫌がらせに走ったりするじゃないか」
「……ま、まあストーカーは恋愛感情の暴走が原因で起こるっていうし、ある意味では間違ってないけど、ストーカーと恋愛はやっぱり別ものよ」
「恋愛感情の暴走……つまり恋愛暴走者ってことだね?」
恋愛暴走者って何かカッコいい言い方だね。念能力にありそうな名前。
「はあ?何言ってんの?意味わかんないし。マジでキモイ」
女の子にこの中二病的な言い方のカッコよさは伝わらなかったか。残念!
「じゃあ美咲さんは先月まで付き合っていた大学生のことをつい目で追っちゃったり、一日中その人のことを考えたりしていたの?」
「あ~元カレの場合、あたしは告白される立場だったからなあ。というか、今までの恋愛であたしって告白したことないんだよね。全部告白される立場だったから、その人のことを目で追ったりってことはなかったかも」
「え~?じゃあその元カレの人達には恋をしていない状態で彼氏彼女の関係になったってこと?」
「……言われてみればそうかも。途中で気持ちが育つってことはあっても、最初から恋してるってことはなかったかな」
……美咲さんは恋をしていない状態でも付き合うことが出来るのか。それは美咲さんだけのことなのか、それとも女の子全般がそうなのか気になるところだな。
「そんなひかないでよ。というか恋愛感情がないのに付き合うパターンって結構あると思うわよ。勿論女子だけじゃなく男子にもね」
「え~そうかなあ?例えば?」
「ん~そうねえ。例えば……体目当てで付き合うとか」
ああ、なるほど。言われてみればそうだな。確かに体目当ての場合は恋愛感情がないか。
僕が納得していると、不意に美咲さんが遠い目をしながらボソリと呟いた。
「……なんか思い返してみると、あたしってまともに恋愛したことってないのかも。今までに何人か彼氏がいたけど、その人に夢中になるってことはなかったからなあ」
ほお!モテモテの美咲さんもまともな恋愛をしたことがないのか。つまり僕と一緒ってことだね!!
「じゃあ美咲さんも初恋童貞なんだね!!いや、女の子だから初恋処女か!!僕と一緒の仲間だったんだ!!!」
こんな身近な所に仲間がいたなんて、なんだか嬉しくなっちゃったね!!
僕が親しみを込めた瞳で美咲さんを見つめると、これ氷河期きたんじゃねえのって錯覚するぐらい冷たい瞳で見つめ返された。
「それセクハラだからね?後あたしと本郷君は絶対に一緒じゃないから!!一緒にするのだけは本気で止めて」
そんな強く否定しなくてもいいじゃないか。せっかく仲間を見つけたと思ったのに。
「だいたいあたしは恋愛経験はあるんだからね?あたしは"まとも"に恋愛をしたことがないだけで、恋愛自体は経験済みだから」
ああ、そういえば大学生の彼氏とかもいたんだよな。
「じゃあ美咲さんは既に経験済みなんだね。既に処女じゃないのかあ」
「だからセクハラだって言ってるだろうが!!」
思いっきり頭を叩かれた。ものすごく痛い。
何故叩かれたのだろう。僕はあくまでも初恋について言っただけなのに。
……うん?ああ、そういうことか。僕の言い方も悪かったかもしれないけど、彼女は重大な誤解をしている。
「違うよ美咲さん。僕はあくまでも美咲さんが初恋を経験済みだと言っただけで、実際に美咲さんが処女なのかどうかは「まだセクハラを続けるか!!」」
また頭を叩かれた。しかもさっきと同じ場所。
美咲さんも怒りのあまり顔が真っ赤になっている。口調も変わっているし、だいぶお怒りらしい。
ここは素直に謝っておくとしよう。
「ごめんよ美咲さん。なんだか知らないけど怒らせちゃったみたいだね。しょうがないから僕が謝るよ」
「……そのちょくちょく出る上から目線がまたムカつくなあ」
折角謝ったのにムカつかれてしまった。一体何がいけなかったんだろうか。
「ふぅ。本郷君と話していると色々疲れるわ。セクハラもたくさんされちゃったし」
「いや、さっきの発言はあくまでも初恋についてであって、セクハラをしたつもりは……」
訴訟沙汰を避けるために必至に言い訳しようとするが、美咲さんがそれをビシッ!と僕に指を突きつけながら遮った。
「どのような事情があろうとあたしがセクハラをされたのは事実だわ。それについてはどう思ってるの?」
「そりゃあ……申し訳ないとは思っているけど」
僕がそういうと美咲さんはニッコリと僕に向かって笑いかけた。
「今、自分がセクハラをしたって認めたわね?」
しまった、誘導尋問か!!ハメられた!!セクハラに関しては一度認めてしまったら無罪にするのは難しいって聞いたことがあったのに!!
「そ、その……僕はバイトもしていないですし、貯金もそんなにあるという訳では……。裁判をしても僕から大金を取ることは難しいと思うし、何とか訴訟だけは勘弁してもらえないでしょうか」
僕が土下座をして懇願すると、頭上から呆れたような声が聞こえてきた。
「何で訴訟の話になる訳?」
「え?だって僕がセクハラを認めたから、訴訟を起こして僕からお金を取る気じゃあ……」
「……一回本郷君の頭の中を覗いてみたいよ。もういい時間だし、あたしはただ本郷君に夕飯でもおごって貰おうと思っただけだよ」
「へ?」
時計を見ると既に七時を回っていた。放課後に話しを始めた訳だから、なんだかんだ言って二時間近くも話しをしていたらしい。
そういえば空も既に夜色になっている。……全然気づかなかった。時間が経つのが早かったなあ。
「それでどうするの?あたしに夕飯を奢ってくれる?それとも……本郷君のお望み通り訴訟にしようか?」
その綺麗なニッコリ笑顔の前では、僕の選択肢など一つしかなかった。
「是非夕飯を奢らせてください!!」
後日談として、僕はこの後無事に初恋童貞を卒業して、将来的にはその人と結婚することになる。
相手は誰かって?個人情報の流出が騒がれる昨今でそんなプライバシーに関わることはいえないさ。
ただ一つ僕が言えることは、彼女の拳は今も昔も物凄く痛いってことだけだ。