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クラリネット

作者: 桜枝 巧

 愛用の自転車にまたがりペダルに力を入れると、景色が走り出した。

 綿雲が散歩する真っ青な空と、まだ何も植えられていない田んぼと、透き通った水が流れる小さな水路と、灰色のコンクリートで埋められた、トラクターがぎりぎり通れるような細い道がずっと続いている。それらと田んぼと道を仕切る白いガードレール以外、見えるものは無い。

 ガードレールは昨日の雨のためか、少し泥で汚れていた。どうだ、私はこんなに昨日頑張って仕事をしたんだと、どこか誇らしげに立っているようにすら思えてくる。

 中学に上がる時に買ってもらったもののずっと乗っていなかった自転車のフレームの白さに何となく虚しさを覚えた。登下校はずっと電車だったので、機会がなかったのだ。

 しかもせっかく中高一貫の学校に合格したというのに、家の周りには誰も同級生がいなかったため、

「今度遊びに行っていい? 家どこ? ……あ、そこなんだ、えっと、遠いね……」という台詞が飛び交い、「友達と遊びに行く」という中学生の一大イベントは一学期の内にあっけなく終わってしまった。

 去年の春休みはずっと家で寝ていたし、せっかく中二にもなるのだし、と外へ飛び出してみたものの、行くあては無い。大きな街に行くには電車に乗る必要があるが、財布を持って来るのを忘れた。そもそも街で遊ぶほどのお金がない。

「……あ」

 そこまで思考を巡らせたところで、一つ、行き先を思いつく。ガードレールに従うように右に曲がる。

 まだ名前も知らない草が生い茂っている田んぼと田んぼに挟まれた道を、何度となく左右に曲がりながら進む。何年も前の話だというのに、体が道順を覚えているのが分かる。自然とペダルを踏む力が強くなる。春の暖かな風が私を追い越していく。

 十分ほど走り続けて、ようやく田んぼの緑が後ろへと追いやられた。どこからか、小学生が吹くリコーダーではない、低めの笛の音が聞こえてくる。はて、この辺で住んでいる人でそんなハイカラな人物はいただろうか。

「えー、左側に見えますのが、小学校時代の遊び場所の決定版、所謂土手ア―ンド澄吉川でございます……て、あれ」

 小学校の修学旅行で初めて聞いたバスガイドの真似をしていると、先客がいることに気がついた。灰色のフード付きパーカーにジーンズというラフな格好をした同い年くらいの男子だ。川の脇のちょっとした原っぱのような場所で、一人突っ立っている。遠くからなのでよく見えないが、その手には黒く長い棒が握られている。

 この辺には犬猫好きの一人暮らしおばあさんしか住んでいないはずなのだが、どうしたのだろう。迷子、だろうか。

 ガードレール脇に自転車を止め、そばにあった階段で川付近まで降りる。

小学校低学年の頃よく友達と遊んでいた場所だ。私以外彼ら彼女らは他の町へ引っ越してしまったけれども、川は相変わらず底が見えるほど水が透き通り、黄色い菜の花が辺り一面を覆っていた。胞子をふりまき終えた土筆がおばあちゃんに取られずに一本放置されているのを見つける。

 あのう、と言いかけて、私はその男子がやっと自分の中学校一年次のクラスメイトであることに気がついた。名前は何だっただろうか? 一年間男子陣と話したのは体育祭のリレーの順番決めくらいだったので、覚えていない。

 近づくにつれて、木管独特の優しく、深い音色が大きくなる。

 そうだ、と私は顔をあげた。

 男子が演奏している黒く細長いそれの正体は、クラリネットだった。音楽に疎い私はそれが何の曲だか分らなかった。ゆったりとした、押しつけがましくない、柔らかな音が辺りを包んでいた。自然と腰が下り、同年代のクラリネット奏者の隣に座り込む。

 最後の一音が土手に響き渡ると、同級生は黒いそれから口を離し、大きく息をついた。

 小さな演奏家に向かってした拍手が、名前も知らないクラスメイトに届く。

 彼は一つびくんと肩を震わすと、恐る恐る私の方を見た。

 どうやら今まで気がついていなかったらしい。左右に目がせわしなく動き、先程まで堂々とクラリネットを持っていた手は小さく震えていた。

 上唇を何度かかみしめては離すという仕草を繰り返した後、演奏していたクラリネットの音色のような、優しい低音を発した。

「……聞いてた?」

 恥ずかしがるような、苦笑いを浮かべるようなその黒い瞳と目が合った瞬間、私の心臓がは大きく音を立てた。さっきから指をちくちく刺していた草の刺激が消えた。土手の菜の花の黄色が消え、川の流れる音が消えた。クラリネットの低音だけが頭の中で繰り返される。胸の奥底から何かがあふれ出すような、そんな感覚を覚えた。

 えっと、練習するのにちょうどいい場所を探していて、電車に適当に乗ったらこの土手が見えたから……そんな言い訳が、春風の様な声とともに私の頬をなでていく。

 真っ赤になった顔を背け、言い訳を繰り返す同級生に小さく声を発する。

「もう一回」

……え、と目を丸くした彼に、もう一度

「もう一回」

と繰り返した。

 じゃ、じゃあ。小さなクラリネット奏者が、ぎこちなくクラリネットを構える。近くで見たそれは思ったよりも黒く、柔らかな春の日差しを反射させていた。

 綿をちぎったようなふわふわとした雲が浮かぶ空の下で、優しい低音が響く。

 私は目を閉じて、新しい季節の訪れを感じていた。


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