終わる日常
健全なる精神は健全なる肉体に宿るという。
健全かどうかはさておき、これは「魂は肉体に引かれる」という意味なのかもしれないと実感する。
7ヶ月が経った現在、俺の口から「日本語」が飛び出すことはほぼ無くなっていた。
何が言いたいのかというと、どうやら俺はすっかり「この世界」に馴染んでしまっているらしいということだ。
生前の事を忘れたわけではない。
きっと一生、忘れることはないだろう。
だが、目まぐるしく過ぎる日々の中で、生前の事を思い出す時間は確実に短くなっている。
成長が修得と忘却の連続だというのなら、それはこの世界で俺が成長している証なのだろう。
それがいいことなのか悪いことなのか、俺には分からないが。
そんな俺の生活は、教会で世話になり始めた日から然程変わらないが、周囲の環境は変わりつつある。
クレアに続いてジョシュも養子にもらわれていき、教会の男性は神父、俺、ヨハンの3人だけになってしまった。
俺とヨハンの仕事量は単純に1.5倍……では済まず、いつも手伝ってくれていたクレアが居なくなったことで、俺の仕事については倍近くなっている。
しかし、教会にこれ以上下働きを雇う余裕はない。
労働力のために孤児を引き取ってくるっていうのは本末転倒だしな。
そもそも、成人しているであろう俺が教会に居ることができるのは、エリザの力に依るところが大きい。
死体に取り憑いたのか、死にかけの身体を乗っ取ったのかは分からないが、何れにしてもエリザが拾ってきてくれなければ、そのまま死んでいただろう。
その後も、下働きの男手が居なかったからといって、行き倒れの孤児をホイホイ雇うほど神父もお人好しではあるまいし、彼女が話をつけてくれたからだ。
安いながら給料も貰っている。
家賃食費を差し引かれて、1ヶ月あたり50ロンズだ。
うん、意味わかんないよね。
この国、っていうか人族の国家で通用する通貨の単位で、銅貨がロンズ、銀貨がシール、金貨がゴールドだ。
それぞれ100枚ずつで、銅貨は銀貨に、銀貨は金貨として扱われる。
1ロンズで謎の林檎っぽい果物が1個買えるので、日本円に換算すると100円くらいかな?
つまり、俺の1ヶ月の給料は家賃食費その他諸々を差っ引かれて5000円ってことだ。
ブラック……。
ともあれ、お陰で俺は、住居不定身元不明天涯孤独無一文の状態から、三食屋根付きの住込仕事を手に入れることができたわけだ。
その点は感謝している。
「感謝してるならちょっとくらい触らせなさいよ!」
ただしセクハラ、てめーは駄目だ。
「それとこれとは話が別だ! ってか人の心を読むんじゃねーよ!」
とうとう屋根裏からやって来やがった。
俺の生活は然程変わらない、良くも悪くも。
クレアが養子として引き取られてから1ヶ月が経ったが、約束の手紙はまだ届かない。
ラウム王国の通信網は過去の「勇者」の提唱により、比較的整備されている。
流石に白猫さんや麒麟のマークってわけにはいかないが、広大な国土のほぼ中央に位置する聖王都を中心として通信網は国内の隅々にまで張り巡らされている。
国内の各都市には配達ギルドが置かれ、主要道には衛兵隊が配置された中継駅が置かれているのだという。
これなら辺境で異変や侵略があっても、中継駅ごとに早馬を乗り継ぎ、2日とかからず王宮に報告が届くだろう。
これを敷設した勇者は、情報の重要性ってものを十分すぎるほど理解していたのだろう。
最後の勇者だって授業で聞いたから、確か「キンタロー」とか言う名前だったかな?
熊と相撲とるだけの奴じゃなかったんだな。
話が逸れたが、クレアの新しい家族が居るコリントへは片道馬車で5日程の距離である。
半月前に養子に行ったジョシュからは昨日たどたどしい文字で書かれた手紙が、教会宛とは別に俺宛に届いた。
新しい家には胸元の涼しいご婦人方しかいない、隊長──俺の事な、と絶景を眺めた畑仕事の日々が懐かしい、と。
HAHAHA、こやつめ。
またまた話が逸れたが、ジョシュの新しい家はコリントと距離的に変わらない。
コリントに何かがあったというような話は聞かない。
クレアの新しい家族は優しそうな人達だったし、もし彼女の身に何かあったなら連絡くらいはしてくれそうな気がする。
結果、導き出される結論は一つ。
……俺、嫌われたかな?
教会内ではエリザか俺かってくらいにはなつかれていた自信があったが……。
身の回りの整理が忙しくて出せていないだけなんだと思いたい。
ってかそうとでも思わないと泣きそうになる。
反抗期を迎えた娘を持つ父親はこんな気持ちになるのかな。
うちか?
うちは反抗期なんてなかった、なかったんだよ……。
ダメだな。
悪い方に考えすぎて鬱に入るのは俺の悪い癖だ。
物事は都合のいいように考えるか、いっそ考えるのを止めた方がいいな。
先ずは目先のいいことを考えよう。
今日の朝御飯もマープルさんに大盛りにしてもらうk……、あれ?
見覚えのある赤色のショートカット、ちょっと物足りない130㎝くらいの後ろ姿、ぼんやり佇む少女の頭上でゆらゆら揺れるアホ毛。
あれ、何で?
もしかして向こうで何かあったのか?
虫一匹殺せない性格で誰かと喧嘩するような子じゃなかったから、新しい家族と不和になって追い出されたなんて事はない筈だ。
となると、何かの事件に巻き込まれて?
いやいや、決めつけるのは早計だ。
これでもし本当に音楽性の不一致とかで出戻ってきたんだったら、重い雰囲気で切り出したら答えにくいかもしれない。
ここはフランクに、軽い感じで。
俺は特に何も考えず、偶然見かけたから何の気なしに声を掛けただけですよ~、って感じを装っていこう。
「おーい、何で帰ってきてるんだ?」
ザ・無視。
辛い、これは本気で辛い。
え、何で?
俺本気で嫌われた?
ヤバい、泣きそう。
俺心弱すぎだろ。
いや、きっと聞こえなかっただけだ。
落ち着け、こういうときは素数を数えて落ち着くんだってどこかの神父が言ってた。
素数は自分か1でしか割りきれない孤独な数字だから、自分一人が孤独な訳じゃないって安らかな気分になれるって。
0、1、2、3、5、7、11、13、えーっと次は……?
わからん、ってか0とか1って素数だっけ?
まあ何か分からんが取り敢えず、落ち着いた。
きっと自分に声を掛けられたって分からなかったんだな。
今度はもっとしっかり呼び掛けよう。
「クーレーア? 手紙くれないなんてひどいじゃないか。ずっと待っ……」
クレアの肩に手を掛けて、顔を覗き込んで──全身から血の気が引いていくのを感じた。
膝が笑っている。
蒟蒻みたいに頼りない。
立っていられない、立っていられるわけがない。
「クレ、ア、……なんで? なんで!!」
抱き締めた肩は身の毛がよだつ程に冷たい。
血色のよかった愛らしい顔は生気が失せ、蒼白と化している。
希望に溢れ、輝いていたブラウンの大きな瞳は、その両方ともがぽっかり空いた眼窩の中に深く昏い闇だけを湛えて虚空を見つめている。
それは、クレアの亡霊だった。
素数には0も1も含まれません。