プロローグ的なもの
見切り発車の鈍行列車です。
よろしければどうぞご覧ください。
見える世界は夢か現か。
香る匂いは幻か。
触れる心地は揺蕩い消える泡沫か。
視界に写る見覚えのない天井。
鼻腔をくすぐる仄かに甘い女性特有の匂い。
暖かくも粗い安物のシーツの肌触り。
夢のような目覚めは五感にこれが現実であると訴えかけてくるが、その全てに覚えがない。
俺の記憶は赤色と錆の匂い、そして冷たいアスファルトの感触で途絶えている。
そうか、病院に搬送されたんだな。
死というものはよく視えているつもりだったが、あんなに哀しいものだとは思わなかった。
痛み、寒さ、恐怖、混乱、痛み、絶望、失意、喪失、痛み、困惑、渇望、痛み、後悔、寂寥、痛み、悲嘆、悔恨、痛み、怨恨、痛み、孤独、痛み、痛み、痛み、痛み、痛み、痛、痛、痛、痛、痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛えぇぇぇぇぇぇェェ!?
超痛えぇェェェ!
なんだこれ、なにこれ!?
いや当たり前だ、痛え!
腹刺されたんだから痛いに決まっ痛え!
あれか、麻酔が切れたんか。
先生、ケチらずもっと投与して下さい、畜生め!
あー、くっそ!
痛みで頭がはっきりしてきたぞ。
アイツ次見つけたらコロス!
いや、俺の仕事柄コロスとか言ったら駄目だな。
死ぬまでぶちこんでやる、か。
なんにしても生きてて良かった。
取り合えずナースコール……って無いんかーい。
いつの病院ですか、ここは。
倒置法使っちゃったよ、倒置法。
救急病院だろ、ここ。
今日日町医者の病室でもナースコールぐらいある、と思う。
無いのかな、無かったらごめんなさい。
それにしても体が動かしにくい。
血が足りてないのか。
そういえば今気付いたけど点滴も刺さってないぞ。
本当に大丈夫か、この病院。
患者みたいなお爺ちゃん先生が竹筒を聴診器代わりに診察したりしないよな。
それに腹以外に手も足も胸も全身痛い。
多分肋はバッキバキだし、手足の骨もヤバイんじゃないかな。
刺された覚えはあっても轢かれた覚えはねーぞ。
何にしてもヤバイところに担ぎ込まれたかなぁ。
なんか部屋の内装は全部木造だし病室っていうか個人の部屋っぽい感じだし。
保険適用外とかは、流石に無いよな。
全額負担とか払えるかも知れんが、とんでもないことになる。
具体的に言うと月々3万の俺の小遣いがゼロになる。
兎に角、看護師さん呼ばないとな。
「●☆◇¥※ーーー♯!」
……んん?
俺今「看護師さーーーん!」って叫んだよな?
なんか意味不明な記号の羅列に自動変換されたような気がする。
言葉になってる筈なのに、言葉になってないのが理解った。
何を言っているのか分からねーと思うが、俺も意味が分からない。
まあ、なんにせよ叫んだ意味はあったらしく、慌ただしく走る足音が聞こえてきた。
取り合えず聞きたいことが色々……ってすげえ!
何なの、あのすげえ自己主張の塊は?!
すげえ上下左右に縦横無尽じゃねーか?!
すげえよ、何がすげえって俺の語彙が「すげえ!」以外無くなるくらいすげえ!
っと、んん、今のなし!
ノーカンね、ノーカン。
ここからテイクツー。
俺のshoutが届いたのか、パツキンのチャンネーが走ってきた。
古いって?
気にすんな、こちとらもう四十路半ばのおっさんなんだよ。
ってかさっきから誰に何を説明してんだ。
ただの脳内独り言だ、気にしないでくれ。
ところでこのオネーチャン、染めてる訳じゃない。
ナチュラルボーン金髪、つまりどー見ても外人さんだ。
年は20歳代後半くらいか、長い金髪に青い瞳の「ザ・外国人」って感じ、顔立ちは人形みたいに整っている。
身長は高くも低くもなく、身体は凄い。
何がって?
さっきので分かれよ、乙とπがだよ。
正直言って好みです。
しかしそれよりも、いや、胸の危険物より凄くはないんだけど、なんとこのオネーチャン、ナース服じゃなくて尼さんの格好してるんですよ。
じぇ×3じゃないよ、それは海女さん。
尼さんね、尼さん。
シスターって言った方が分かりやすいかな。
まあ、俺の尼さんに関する知識なんて「天使にデスメタルを」くらいしか知らないからあてにならんがね。
ところで、シスターって言うと修道女が思い浮かぶけど、ブラザーって言うとアフロが思い浮かぶのはなんでだろうね。
今は関係ないですね。
だが残念、俺は修道服派じゃなく巫女服派なんだ。
ちょっとリサーチ不足だったようだな、シスター。
修道服、とてもいいと思います。
しかし、これは危険が危ない。
ゆったりした修道服が、そこだけはち切れそうですよ?
胸元の十字架っぽい刺繍がワイド画面になってますよ?
このままじゃ戦争だ、男の夢と希望が全面戦争だ!
……ちょっと露骨に見過ぎたかな、若干引いてる。
いや、結構がっつり嫌な顔していらっしゃる。
すみませんでした、ごめんなさい、訴訟だけは勘弁してください。
4年前に妻が亡くなってからニートの娘を一人で養っているんです。
どうか今回だけは許してください、なんでもしまs、って、ちょっと待て。
激しく今さらだが、なんで病院に尼さんがいるんだよ。
俺に必要なのは治療であって祈祷じゃないよ。
まだ、生きてるよ。
俺は、まだ生きてるよ!
そんな俺の混乱をよそに、オネーチャンは口を開く。
待って、言わないで。
「セクハラで訴えます」とか「あなたはもう死んでいます」とかマジで勘弁して下さい、お願いします。
「意識が戻ったの? 大丈夫、坊や?」
「はい、大丈夫です」
へいへい、オネーチャン。
レディに年を聞くなんて野暮なことしたくはないが、俺より年上ってことはないだろう?
君のような麗若い女性に坊や呼ばわりされる覚えはね、ええぇぇぇェェ!?
声若っ!
声高っ!
今の俺の声?!
なに条件反射で応え返してんの、俺?
全然大丈夫じゃねーよ、寧ろ全身痛ぇーよ。
ってかなんだこれ?
オネーチャンの言葉は聞いたことない筈なのに意味が理解る。
自分の口から出た言葉も、聞いたことも知ってる筈もない言葉なのに意味が理解っている。
知らない外国語が脳内で自動翻訳されて、日本語でしゃべったら勝手に外国語が口から出ていたような、うん、意味が分からないよ。
頭を抱えようとして、両手が目の前で止まる。
仕事中も外したことのない結婚指輪がない。
ヤバい、これ失くしたらあの世で嫁に殺される。
いや、その前になんだよこれ?
皸てぼろぼろだが、皺ひとつない小さい手。
若いどころじゃない、まるで子供の手だ。
更に両手をあげて伸び伸びと背伸びの運動、をする手前で自分の顔を触る。
45年の苦労が刻み付けた皺は綺麗さっぱり消え失せ、剃ってもすぐ伸びてくる無精髭は1本もない。
剃ったって感じじゃなく、元々生えてないって感じだ。
俺いつ頃から髭生えるようになったっけ?
ペタペタと自分の顔を触る俺が不思議なのか、オネーチャンが俺の顔を覗き込んでくる。
「坊や、突然奇声をあげたと思ったら今度は黙り込んじゃって、頭がおかしいの? それとも顔がどうかしたの?」
おい、もうちょっと言葉包め。
いや、でも確かにこのままじゃ、いい歳してあり得ないことを考えちまってるヤバイ奴だ。
「あの、鏡、鏡を貸してくれませんか?」
先に言っとくが、俺は断じてナルシストじゃないぞ。
これは必要なことなんだ。
だってこれじゃあ、まるで……。
「鏡なんて高価なものあるわけないでしょ。これで我慢しなさい」
「ちょま! おま、何て物を! 銃刀法違反の現行犯!」
「顔、見たいんでしょ! 自分の顔くらい見慣れてるでしょうに。おかしな子ね」
オネーチャンは腰から抜いた長剣の腹をこちらに向けて差し出してきた。
幅広の刀身は曇りなく磨かれており、ちらと見ただけでも相当な業物であろうことが推測できる。
殺されるかと思うだろ!
そもそもなんで尼さんが剣なんか持ってるんだよ!
しかも腰に差してるとか武士か!
それとも病気をこじらせちゃった系か!
その格好で絶対外出歩くなよ、通報されるぞ!
絶対だぞ!
フリじゃないぞ!
剣を鏡の代わりに使うくらいなら、最初から鏡を貸してくれよ!
てか、俺のツッコミも多過ぎだろ、って誰かツッコんでくれよ!
いや、後だ後、先ずはこの疑問を解消しないと。
まあ、薄々勘付いてはいるが、自分の目で直接見てみないと、とても納得なんてできそうにない。
尤も、見たところで納得できる自信なんてあるわけもないんだが。
目を瞑り大きく深呼吸をして心を落ち着け、落ち着く訳もないので仕方なく、薄目を開けて恐る恐る刀身を覗き見る。
案の定、と言っていいのかどうか分からないが、45年の時と経験が造り上げた気難しい男の顔はそこには無く……。
盗んだチャリンコで暗い夜の帷へ走り出しそうな年齢に若返った自分の顔を両手で押さえたまま、俺は意識を手放した。
誤字脱字等ご指摘いただければ幸いです。