そして沈没
海水浴場のシャワールームで誰かが故意に開けたような穴を発見したので鼻の下を伸ばして隣を覗いてみると、隣の奴も覗いてて目が合ってしまいとても気まずかった経験のある輪島政義です。(超萎えたぜ)
はぃ、皆さんコンニチワ!
この年の冬に限ってはギラギラと燃え滾って寒さなど微塵も感じなかった。
遂にオープンした屋台村は、その地域でもアッという間に話題になり、客が津波のように途切れることなく押し寄せた。
私は雇った元料理人の中年男性に調理を任せ、簡単なものだけをたまに手伝いながら自分の経験の無さをどうにか補っていた。
こんな素人が経営しているのが知れると店の信用に関わるので、客前ではその中年男性の事を『マスター』と呼び、私の事は『チーフ』と呼ばせた。
酸素が薄く感じられるほど人間が密集して熱気に溢れていた店内では、ビールなども飛ぶように売れてゆく。
元々人見知りの激しい私も客に勧められて御呼ばれすると、突然スイッチが入りマシンガントークを炸裂させて場を盛り上げた。
初めは『おでん』というジャンルが一年を通して成り立つのかという疑問も多少はあったが、全国には年中満席になるおでん屋が幾らでもある事を知り、それ程気にしなくなっていった。
慣れない環境で少し不安になる時もあるが、隆や武弘などの知った顔が来店してくれるとそれも吹っ飛んだ。
一つ一つの屋台は本当に小さくて8席程しか無かったが、それでも12月などは各店舗毎日十五万~二十万の売り上げを達成していた。
これだけあれば日掛けで支払っている保証金や家賃、仕入れ代・給料分やらを差し引いても充分な金が手元に残り、これで理恵にも楽をさせてやれると思うと嬉しかった。
年が明けて一月に入ってからも物珍しさに訪れる客こそ減ってきたが、それでも一日に十~十五万の売り上げはあった。
毎日ベロベロに飲みまくって金儲けが出来るのだから何と素晴らしい事だろうか。
すっかり浮かれていた私は仲良くなった女性客と、しばしば事故を起こしてしまうようになる。
そうなると、横の鉄板焼き屋から今となっては当然妻の存在も承知している姉さんが時折鋭い眼光で私を睨み付けていたのも薄々勘づいてはいた。
なんとか充分な金を渡せるようにはなったものの、午前三時までの営業が終わって片づけをして帰ると、すやすやと寝息をたてる赤ん坊についつい話しかけたり触ったりしてしまい、いつも理恵に叱られた。
「もう!夜鳴きしててさっきやっと眠ったトコやのに起こさんといてよっ!」
寂しすぎる(ぐぅ)。
新聞配達のおじさんもそろそろ店に戻ろうかという時間帯に、ムラムラして盛っていっても当然毎回拒絶された。
真っ暗な部屋で音を立てないように息を殺して、こそこそと床に就く事しか、もはや私には許されないのだ。
なんか予定と違うぞ?(グスン)
経営の方は順調に進んでいたが、二月に入ったある日。とうとう誰もが恐れていた心配が現実のものになった。
屋台村内の一件の店が食中毒を出したのだ(なにぃ!)。
焼き物屋のサザエのつぼ焼きが原因だった。
焼き物屋を経営する初老の男は昔極道をしていて全部合わせても八本という両方の小指が無いような男だったが、その気性に現れる豪快な『男の料理』がある意味魅力でもあった。
その豪快さ故に少々危なそうな魚介類でも『火さえ通したらいけるいける!』的なノリを押し通した結果だったのだ。
悪い噂はとてつもない勢いで瞬く間に広がっていった。
すると屋台村に常連客を一気に取り込まれていた周辺の飲食店が、ここぞとばかりに反撃を仕掛けてきた。
共同体である全ての屋台を一括りに仕立て、素人の集合体である事に徹底的に言及をして誘導し、我々は多くの冷ややかな白い視線を浴びせられ始める(クッ)。
それでも、営業努力を重ねて一時は激減した集客数もなんとか持ち直し始めた矢先に、なんと再び8本ジジイの焼き物屋から食中毒が発生したのだ(しねー!)。
私は料理には殆どノータッチだったが、持ち前のアルコールスイッチを最大限に活用して、客が『あそこのおでん屋にごっつい面白い兄ちゃんがおるらしい』という噂を聞きつけて来るほど有名になりつつあっただけに腸が煮えくり返った。
しかも、その八本ジジイは龍政会の親分が兄貴と慕う男だった為にあまり強く責め立てる訳にもいかなかった私は、歯痒さに襲われながら自分の無力さが悔しくて仕方なかった(クーッ)。
その後は当然客足も段々と遠のき始め、あれほど華やかだった屋台村の店内は空席が目立つようになっていった。
少しでも売り上げを伸ばそうと、他の屋台が閉まってからでもおでん屋だけは勝手に時間を延長して接客したりもした。
それでも、日々の支払いを済ませると家に充分な金額を入れてやれるまでには到底及ばない。
私の心は徐々に荒み始めた。
次第に家に帰る回数も減っていき、仕事が終わると店の近所に住む女性の家に寝泊りすることが多くなる(んもぉ)。
ある時、二週間ぶりぐらいに妻と子供の顔でも見ようかと思い、店の仕込み前に自宅に車を走らせた。
玄関を開けても昼間の割りに妙に静まり返ったままの部屋に入ると、テーブルの上に一枚のメモ用紙が置いてあった。
【あなたにはもう着いて行けません。実家に帰らせて頂きます。】
出た。昭和のテレビドラマでよく見たアレだ。
いつからここに置いてあったのかも分からないが、文言に工夫の欠片もない私に対する『脅し』に思わず苦笑を零した。
とりあえず理恵の実家に電話を掛けて迎えに行く。
「長い事、家空けて悪かったから機嫌直して戻って来いや。」
気が納まるように素直に詫びる事で一応シナリオに付き合ってやるが、意外と頑固に演じ続ける理恵は直ぐには戻って来ようとしない。
その日は諦めて翌日出直すが、まだ戻って来ようとしない。
そんなやり取りが四日程続いた辺りで私は少し焦り始める。
え・・まさかマジなん?(タラー)
店で営業をしている最中もそれが気になって手につかないし、幾ら酒を飲んでも酔えない。
しかし、ここで無理強いをして余計に拒絶反応を起こされても困るので、暫らくは連絡も入れずに待ってみる事にした。
もはや然程忙しくもなくなった仕事を終えると、一人になって寂しさに耐え切れなくなるのが怖かった私は、結局どこかの女性の家に転がり込んでしまう虚しくて愚かな日々を繰り返していた。
ある日、そろそろ良い頃合いかと思って理恵の家に電話を掛けてみると、とうとう居留守を使われてしまった。
次の日も、また次の日も何度掛けてもずっと居留守のままだった。
終わった・・・
もう、これから家族三人で何かを夢見たり築いて行くことは永遠に無いのだと、ようやく私にもハッキリと理解できた。
今までの事を謝罪するために、最後にもう一度だけと電話をした。
すると、これまでに私から受けた暴力や浮気、付き合っていた頃にバイト代の8割を没収されていた事などを全部ぶち撒けられて激怒する理恵の父親からトドメを刺される事になる。
「もう養育費も慰謝料もなんも要らんから 二度と娘と孫に近づくなっ!」
あまりにもこれまでに辛抱を積み重ね過ぎた理恵が、勇気をもってやっと自分らしさを取り戻せたのだから祝福してやるべきだと私は自分自身に強く言い聞かせた。
そして、そうする事で不甲斐ない自分自身を慰めていただけだった。
その後は店の方も相変わらず忙しくなる程の集客は無かった。
金を渡す相手も居なくなった私は、仕事が終わると気を紛らわせるために朝まで開いているラウンジやニューハーフパブなどで遊び呆けた。
次第に収入に見合わない程の浪費が重なってゆき、支払いも滞る事が出てきだした。
それを穴埋めする為に金を借りようにも、十八歳で未成年者の私には低金利の国民金融公庫などからの借入が出来なかった。
そこで仕方なく親分の知り合いの車屋に頼んで、中古車を買ったように装った空のオートローンを組むことで纏まった金を段取りした。
続けていた昼の仕事も辞め、妻と子供の為にと始めた商売だった。
しかし、客足が途絶え始めた四月末。
既に気力も失った私は屋台村からの撤退を決断し、全てを失った。