新たなる船出
小学6年生の頃に親戚に不幸があったと嘘をついて学校をサボって東京まで『おニャン子クラブ』の『さよならFinalコンサート』を見に行ったら、それがテレビに偶然にも映ってしまい先生に1往復半ビンタを食らわされた事がある輪島政義です。(ありえねぇー!)
はぃ、皆さんコンバンワ!
理由もなくなんだか寂しくて人恋しくなる秋も深まった十一月頃。
この日も彼女とのデートの待ち合わせに二時間ほど遅れてしまった。
彼女の名は理恵といった。
とても辛抱強く何があっても文句一つ言わずによく尽くしてくれて、同い年にしてはとても感心な女の子だ(うむ)。
しかし、この時はいつもの様に悪びれる事もなく呑気に話し出す私に、理恵が今までに見せたことの無い思い詰めた表情を浮かべた。
「なんやぁ?珍しくすねとんかいっ!」
私が笑いながら尋ねると、恐る恐る重たそうな口を開いた。
「あのさ・・、出来たみたいやねん。」
すぐに子供の事だと分かった。
「マジかっ!よっしゃぁぁ よぉやったっ!!」
完全に中絶しろと腹でも殴られるものだと思い込んでいた理恵は驚いた様子ですぐに聞き返す。
「えっ ほな産んでもええのん?」
「クラッカーやっ!あたり前田のクラッカーやっ!」
突然の吉報に喜び勇んだ気持ちを二昔前のギャグで伝えたが、どうやらネタが少し古過ぎたようで理恵はリアクションに困っていたようだった(うっ)。
私は自分自身が兄弟たちとは歳の離れた末っ子で、幼い頃から若い父親や母親に対する憧れが強かった。
それで自分だけは絶対に若い父親になってやろうと決めていたのだ。
「ほな、ワシが十八歳になる誕生日に結婚すんぞ!」
予想だにしていなかった反応に一気に力が抜けて理恵の真っ赤に染まった瞳からは、止め処ない感情がいつまでも溢れ出ていた。
婚約者のお腹の膨らみが大分目立つようになってきた春頃、私も負けじと股間を膨らませて夜遊びに勤しんでいた(最低ですヵ)。
そんなある日、すっかり常連になったラウンジ『ハピネス』に隆と2人で遊びに行くと、とても柄の悪い二十代半ばの三人組と隣り合わせのテーブルになった。
初めこそ横目でチラチラと警戒しながら店のお姉ちゃんを口説いていたが、ふと気がつくと五人で一緒になって馬鹿話しながら大はしゃぎしていた(わしょーぃ)。
やがて閉店の時間になって店を出ると、三人組の一番ガタイの良い男が追いかけて来て思い掛けない誘いを受ける。
「俺、龍政会いうとこの若頭しとんねんけど良かったらウチの組来ぇへんか?」
俗に言うヤクザの『スカウト』だ。
そういえば以前にこの店に彼女が勤める武広から、ここのママさんは極道の愛人で、所謂『姉さん』であると聞いていたのを思い出す。
どうやらこの三人組もそこの組員のようだった。
「いやぁ、ワシは昔から極道とシャブと彫り物はせえへんと決めとるよってに、せっかくやけど遠慮さしてもらいますわ。」
即座に断りを入れる私に食い下がってくる。
「兄ちゃんらみたいに根性あったら直ぐに上にいけるで!」
もう直ぐ子供が産まれようかという時期に、極道になどなれるはずが無い。
しかし、それを隠して店のお姉ちゃんを口説いていた為にママと深い繋がりのある連中にそんな情報は漏らせない(自業自得ですけど)。
幾つかのやり取りが続いたが、なんとかその場は誤魔化して私の横で困った様子だった隆を連れて振り切る事に成功した。
その辺りからちょくちょく一人でハピネスに通う事も増えてきだした。
そうすると、稀にママの意外な一面を見掛けるようになる。
親分が本妻の家へ帰るだけなら良いのだが、他の女数人の家を梯子したりと女癖の悪さが尋常で無かった。
普段は気丈に振舞ってはいたが、寂しさに耐え切れず客が私だけの時などは気を抜いて涙を見せることがあったのだ(みゅぅ)。
それでもあらゆる面で親分になんとか必死に尽くそうと努める姿は、まさに極道の女としての生き様であった(おぉぉ!)。
ある時、そんなママから一つの頼み事をされる。
「なぁ、龍政会に入ってウチのおっさん支えてやってくれへん?」
これから金が必要になる事情があるので、続けてきた仕事を辞める訳にはいかないと告げると
「昼の仕事は今まで通り続けてくれて構めへんから、何かあった時だけ助けてくれたらええねん。」(んぉ?)
意味がよく理解出来なかったが既にママの境遇に感情移入し始めていた私は、仕事が続けられるのならば妻や産まれて来る子供に苦労を掛ける事もなかろうと安易に判断してしまう。
理恵にも話してみたが、その条件ならと一応の承諾を得た。
後日、ハピネスで親分と兄貴分になるあの三人組と会って雑談交じりに盃事の日時を決定した。
十七歳も残り一ヶ月程になった某日、組の内外から集まった多くに見守られて親分から盃を貰った私は、この瞬間に極道になった。
昼の仕事は順調だったが、夜は組事務所に遊びに覗いてみたりもしていた。
十八歳になって入籍も果たし、息子も産まれて無事一児の父になるも、妻は産後三ヶ月間は赤ん坊共々実家で生活する事になっていたので、新婚早々私はフリーで遊べてしまう環境になっていた。
ある日、隆とU君という知り合いの三人で居酒屋に行った帰りの事。
ほろ酔いで気分が良かった私のお茶目心が悪さを働く。
「車 鬼ごーーっこ!!」
これは、U君の運転する車に鬼である私の車を見事コツンと追突させればゲームクリアという簡単なルールだった。
私は隆と急いで乗り込み、冗談だと思って油断していたU君の車に目掛けてアクセルを踏み込んだ。
それを見て慌てて急発進した彼を追い掛け回す。
お互いライトも点灯せずに繰り広げる本気モードの鬼ごっこに徐々に興奮が増していったその時だった。
その日は小雨がパラついて路面が滑りやすくなっていた為に、私のオンボロの磨り減ったタイヤが対応出来るはずも無い。
猛スピードで交差点を左折しようとした時に、いくらハンドルを左に切っても全く効かない。
シュルーシュルーと滑っていく車の中で、隆と焦りながら対面に衝突する覚悟を決めた時に ”キュッ” とタイヤが地面に噛んだ感触がした。
すると次の瞬間に【グォーン!】と凄い勢いで左に車が突っ込んで行き、ブレーキでなんとか減速するが間に合わない。
ッドーーーーッッン!!
慌てて車を降りるとエンジンに支障は無い様だったが左前がグシャリと無くなっていた。
そこへ、見事に鬼ごっこで勝利したU君が事故った我々に気付いて走ってきた。
仕事用の車は別に用意してもらっていたし、この車自体はプライベート用に9万円という安価で購入したものだったが『おもちゃ』が無くなっては寂しいので、私は咄嗟に思いついたある計画を実行すべくU君に声を掛ける。
「おぃ、今から山行くからちょっとだけ付き合えや。」
とりあえず自販機で缶ビールを1本だけ購入して、予定の場所までキュルキュルと悲鳴を上げて走る車の後をU君に着いて来させる。
目的地は片側二車線で大きな右カーブの急な下り坂になっている住宅街だ。
現地に到着すると、U君に任務の内容を説明して早速実行に移した。
まず、私と隆の乗るポンコツがカーブの途中で左に寄せて停車しておく。
次に、U君はその200M程後方に待機して、ターゲットになる他の車が下って来るのが見えたらパチパチとハイビームを焚いてこちらに知らせる。
それを確認したポンコツ班はゆっくりと発車させてタイミングを合わせる。
ここからが重要だ。
ターゲットがU君の前を通過したら直後に追い掛けて同じスピードで並走して右斜線を封鎖する。
そうすると、ポンコツが時速40Kmに到達した辺りでU君とターゲットは丁度後ろに追いつく。
そして、こちらの中途半端なスピードに苛立つターゲットは更にベタベタに車間距離を縮めて挑発するように煽ってきた。
ここまでくれば、もう殆ど成功したようなものだ。
私はブレーキランプが点灯しないようにギアをNに入れて、力一杯サイドブレーキを引いた。
キキキキーーーッツ ドーーッン!!
ランプも着かずに突然とてつもない減速をされたターゲットは下り坂のせいでブレーキも間に合わず、横にU君の車がいたせいで避ける事も出来ない。
そうなると、もうポンコツに元気よく追突するしかなかったのだ。
見事に自分の任務を果たしたU君はそのまま走り去って自宅へ帰って行った(ご苦労!)。
衝撃を確認すると、すぐさま私と隆は逆上した『振り』をして、早速ターゲットに怒鳴り込む。
「コルァッ!!オドレ誰の車におかま掘っとんどいっ!!」
中には何が起こったか分からずに唖然としている小生意気そうな痩せ男がいた。私は更に追い討ちを掛ける。
「さっさと降りて来んかい!コルァッ!!」
パニックになっている痩せ男から免許証を奪い、逃げられないようにする。
しかし、私はここで重大なミスを犯してしまっている事に気付く。
あっ!自爆した左前全然関係ないやんっ!(あぅ・・)
追突された拍子にハンドルを左に切って思い切りガードレールに突っ込む予定だったのを、それまでがあまりに上手くいき過ぎていたので、嬉しくなってついつい忘れてしまったのだ。
慌てて私は痩せ男に公衆電話で警察に通報をして来るように指示を出す。
まだ、携帯電話が高級品だった為にそれほど普及していない時代だったので非常に助かった。
なんとかそこから200M程離れた公衆電話まで追いやると、急いで任務を続行する。
ポンコツに乗り込んで腰にぶら下げていた携帯電話をダッシュボードに隠し、一度大きくバックしてから改めてアクセル全快でガードレールに突っ込ませた。
その際に凄い音が響き渡ったはずだが、警察への通報から戻ってきた痩せ男に空かさず暗示を掛ける。
「見てみぃこれっ!おかま掘られた時にハンドル取られて前までこんなんなってもたやろがいっ!!」
「すっ すいませんでした!」
これで任務完了だ。
余程の理由が無い限り、真後ろからの追突は過失割合『10対0』である。
私は遂に完全勝利を納めた。
30分程して警官がようやく到着すると、事情を説明しながら
「ほんま、やっとれんぞ!」
やり切れない様子で徐に事前に購入しておいた缶ビールを取り出して一気に飲み干す。
飲んでいたんじゃなくて、今飲んだのだという一種の飲酒運転対策だ。
これも、この時代だったからこそ通用した手口の一つであった。
時刻がもう深夜になっていたので、簡単な事情聴取を済ませると翌日改めて現場検証となった。
昨日とは違ってブレーキ痕やら事故の起こった状況など、事細かく調べが続く。
痩せ男は何とか自分の罪を軽くしようと走行速度を低めに証言するが、ブレーキ痕で直ぐに嘘だとバレた。
すると今度は冷静になってきたのか今更ながらに何か怪しいと疑い始め、警官に不自然な隣に並んだ車の事などを話し出した。
しかし、自己弁護のために偽証をしてしまう男の話などに既に信憑性は無い。
「おいっ!お前、自分がおかま掘っといて被害者に対して訳の分からん言い掛かりをつける気かっ!」
私の隣に停められたパトカーの窓から丸聞こえになってくる内容に、思わず噴出しそうだったのを堪えるのが大変だった。
後日、査定も無いような車に対して保険屋は同等の車を代わりに用意すると申し出てきたが、愛着があるからどうしてもこれを修理して貰わないと困ると言い張った。
すると1週間後に9万円で買った車は50万円に化けていた。
夏が終わって、ようやく待ちに待った妻と赤ん坊と一緒に暮らせる日がやって来た。
しかし蓋を開けてみると、たまに実家に会いに行ったりはしていたが、いざ生活を共にするとなるとルールがよく分からない(うぅ)。
息子とキャッチボールしたり、反面教師として時には躾けたり、もっと大きくなったら一緒に酒を飲んだりと、そんな夢ばかり見ていた私は、この赤ん坊を目の前にして何をどうして良いのやら全く想像もつかなかったのだ(がぉー!)。
妻は妻で、精神的に以前よりも数倍たくましく大きくなって帰って来たものだから逆らうのが恐ろしい(びくっ)。
口には出さないが、きっとそれまでの私の度重なる暴力や浮気などに耐え抜いてきた反動で、自分にはもうこの子さえ居ればそれで良いぐらいの勢いなのだ。
家に居ても肩身が狭かった私は、仕事が終わっても早い時間に帰ることが少なかった。
そこに輪を掛けて、昔からの遊び癖と浪費癖が染み付いていたので家庭に入れる金が最低金額しか絞り出せない。
三人で暮らすようになって一ヶ月程が過ぎた頃。
龍政会の上部団体である本家の事務所当番の日に仕事の休みがたまたま重なったので行ってみる事にした。
当番と言っても何か特別な作業をする訳でもなく、たまに掛かってくる電話に兄貴分の一人が対応している横でテレビを見ながら談笑しているだけだった。
すると、親分からこんな話を持ちかけられる。
「おっ そうや政義。今度、食いモン商売やってみぃへんか?」
畑違いの商売をいきなり勧められたので、とりあえず笑顔で流すと
「今、テレビや雑誌で大騒ぎしとる屋台村いうやっちゃ。」
屋台村なら私も何度も耳にした事がある今まさに大ブームの事業だ。
その大家を龍政会の新たな『シノギ』の一つとして始めるらしいのだが、今ならまだ店子で『おでん屋』が一件だけ空いているらしい。
少し興味の沸いてきた私はもっと詳しく内容を聞いてみると、一つの巨大な店舗・箱の中にそれぞれが独立した幾つもの屋台サイズの小さな店舗が入り、他店の客からでもお互いが『出前』という形で自分のとこの商品を提供出来るというシステムだった。
しかも、殆どの屋台店舗経営者が飲食業を初めてする所謂『素人』で構成されていると言うのだ。
飲食業がこれほどの一大ムーブメントを巻き起こすのは20年に一度と言われているだけに、これは私にとって大きなチャンスになるのではと考え始めた。
その為には、まず昼の仕事を二~三ヶ月休業させてもらい、その後はオープニングスタッフに任せるのがベストだ。
屋台村からの副収入を小遣い銭に充てれば、職人として稼いだ金をもっと家庭に入れてやれる。
付き合った当初から辛い思いをさせて来た妻に、やっと良い目を見させてやる事が出来ると思うと、もう自分を抑え切れなくなって参加の決意を固めるに至った。
オープンに向けて店舗の内装工事も完了し、いよいよ店子である屋台経営者達も準備を少しずつ開始し出した。
私にとって最も心強かったのは、私のおでん屋の横がハピネスのママである姉さんが経営する鉄板焼き屋だった事だ(あひゃ)。
そもそも親分の愛人を『姉さん』と呼ぶ前に、本妻である『姉さん』と私はどんな関係だったのかといえば、本妻の方は『義理事』にも一切顔を出さないので正直『会った事も無い知らない人』という存在でしか無かった。。
実質親分の裏方として手足となって支えていたのはハピネスの『姉さん』だったので、我々が姉さんとして慕うのはこの人しか居なかったのだ。
ハピネスの切り盛りはチーママに任せてこちらに専念するようだ(ほぉ)。
向かいの寿司屋には昔寿司職人をしていたU治という兄貴分が気合を漲らせていた(うっす)。
数日後、姉さんから呆れた様子で声をかけられる。
「ほら、あんた保健所行く時全然顔出さへんから、あんたの分の営業許可証も貰っといたったで。」(感謝!!)
ついでに人の分も貰っちゃえるような営業許可証の不思議さも目の当たりにした。
まずは支度金として三十万円程用意して食器や備品などを買い揃えたり、短い期間でバタバタと準備に追われていたお陰で、何も言わずにいた昼の仕事の親方にまだ休職願いも出せていなかった。
オープンまであと十日という所で、ようやく休職のお願いに伺う事が出来た。
しかし、これが親方の逆鱗に触れる事になる。
「突然なにを勝手な事抜かしとんじゃいっ!急に言うてそないに休ませれる訳ないやろ!職人舐めとったらアカンどっ!!」
当然の結果だった。
しかし、私も既に投資をして備品の購入も殆ど終えている状態で今更後へは引けない旨を伝えた。
それでも全く承諾してくれる余地が無かった為に、中学卒業からずっとコツコツ続けてきた仕事を辞める事になってしまう(うわぁぁん)。
自営業の靴屋から、より儲けるために『てんぷら屋』になった夫婦。
自宅で宗教活動ばかりしていたが一発当る為に『お好み焼き屋』になったおばちゃん。
本妻を放置して、愛人と一緒に生計を立てるために『焼肉屋』になったカップル。
などなど。
私にしたって収入源が屋台村一本になった以上、家族の為にガッツリとこれで稼いでいかねばならない。
そして裏切ってしまった親方に理解して貰える様になる為にも絶対に稼がねばならない。
平成五年十二月十五日。
様々な想いと夢を乗せて、我々の屋台村は今日オープンの日を迎えた。