8話
翌朝。
朝食を終えると、またしてもルフィリアから呼び出しがかかった。 昨夜の出来事がまだ胸の奥に沈殿している。 アゼルの病室、エルネスの言葉、そしてあの静けさの中にあった違和感。 それらが、まるで夢の残り香のように、頭の片隅にまとわりついて離れなかった。
俺は静かに執務室の扉をノックした。
「どうぞ」
すぐに返ってきたルフィリアの声は、いつも通り落ち着いていたが、どこか張り詰めた響きがあった。 扉を開けて中に入ると、彼女は机の前に立ち、黒衣の袖を整えているところだった。 朝の光が窓から差し込み、彼女の銀髪を淡く照らしている。 その姿は、まるで静謐な絵画の一部のように見えた。
「おはようございます、小林さん」
「おはよう」
軽く会釈を交わすと、ルフィリアはすぐに本題へと入った。 その動きに、無駄はなかった。
「昨日の件についてです。……何か進展はありましたか?」
その声は静かだったが、わずかに緊張を帯びていた。 言葉の端に、焦りを押し殺すような硬さがある。 俺は首を横に振りながら答えた。
「いや……特には。ルパと少し話したけど、やっぱり決定的な手がかりはなかった」
「そうですか……」
ルフィリアは小さく息をつき、机の上の書類に目を落とした。 そのまつげの影が、頬に長く落ちている。 彼女の指先が書類の端をなぞるように動き、紙のわずかな音が部屋に静かに響いた。
「アゼル・カインがこの施設に収容されたのは、前期のルストラエル法の時期です。 ……ここ数日、食事が喉を通らず、排泄物には血が混じっていたようです。 体温の低下や脈拍の乱れも確認されていました」
一拍置いて、ルフィリアは言葉を継いだ。 その声は、どこか遠くを見つめるような響きを帯びていた。
「この施設では、各期に一度、医師が時間をかけて全患者の診察を行っています。 ですが今回は、アゼルの状態を見た看護担当者の判断で、個別に診察を依頼する手配が進められていました」
彼女は静かに視線を上げる。 その瞳は揺れていなかったが、奥底に沈んだ何かが、わずかに光を帯びていた。
「また、記録によれば、彼のご家族は収容後ほぼ毎日お見舞いに訪れていたようです。 面会時間のたびに、欠かさず。彼の手を握って、何かを話しかけていたと記されています」
「……以上が、記録から確認できた内容です」
ルフィリアの説明がひと段落したところで、俺は気になっていた言葉を口にした。
「その……内容はわかったけど、“ルストラエル法”って、何なんだ?」
ルフィリアは小さく頷いた。
「ええ。私たちの世界では、“一律”を四つの“法”に分けて管理しています。 それぞれの“法”は、気候の変化だけでなく、文化や行事、行政の運営方針までを含んだ、時の区切りです」
「なるほど……だから“法”ってつくのか」
「そうです。“時の律”とでも言えばいいでしょうか。 自然の流れと人の営みを調和させるための、古くからの仕組みです」
ルフィリアは机の上の書類を整えながら、淡々と続けた。
「今はフローラヴェル法です。 この他に、ソルヴァーン法、オーレリア法、ルストラエル法があります。 この四つで一律が構成されています」
彼女の指先が紙を揃える音が、静かな部屋に小さく響いた。
ルフィリアに軽く頭を下げて執務室を後にすると、俺は屋敷の外に出た。 朝の空気はやわらかく、肌を撫でるような心地よい暖かさがあった。 空は穏やかに晴れ、風も優しく吹いている。 ――前の世界なら、春と呼ばれる季節だろうか。
門を出たところで、ルフィリアが俺の隣に並ぶ。 彼女も外套を羽織り、手には小さな書類の束を抱えていた。 その姿はいつも通り整っていたが、どこか表情に影が差しているように見えた。
「収容院へ、もう一度ご同行いただけますか?」
「もちろん。俺も、もう一度見ておきたいと思ってたところです」
「よかった。実は、アゼル・カインが姿を消す前日、彼の看護を担当していた職員がいます。 その人物から直接話を聞いてみるべきだと考えました」
「……なるほど。記録には残らないことも、あるかもしれない」
「ええ。すでに施設の管理者には連絡を入れてあります。 面会の手筈も整えてありますので、到着次第、案内してもらえるはずです」
「ありがとう」
ルフィリアは小さく首を振った。
「私たちの目的は同じですから。できる限りのことはします」
そうして俺たちは並んで歩き出した。 石畳の道は朝露に濡れて、ところどころ光を反射していた。 足音が静かに響くたび、街路樹の葉が風に揺れて、かすかな音を立てる。
街はすでに目を覚まし始めていた。 パン屋の店先からは焼きたての香りが漂い、遠くでは子どもたちの笑い声が聞こえる。 それでも、俺たちの歩みは静かで、どこか別の時間を歩いているような感覚があった。
昨日と同じ道を歩いているはずなのに、風景が違って見える。 石造りの建物、苔むした塀、遠くに見える尖塔の影―― すべてが、どこかよそよそしく、そして意味ありげに感じられた。
収容院に到着すると、管理者の案内で応接室へと通された。 昨日と同じ建物なのに、どこか空気が違って感じられる。 壁の色も、床の軋みも、窓から差し込む光の角度さえ、微妙に異なって見えた。 それは、俺の中に残る違和感のせいなのかもしれない。
ルフィリアは静かに書類を確認しながら、時折、窓の外に目をやっていた。 その視線は遠く、何かを探しているようでもあり、何かを見つめているようでもあった。
ほどなくして、ノックの音とともに扉が開き、一人の男性が姿を現した。 白衣を着た、四十代半ばほどの看護師。 落ち着いた雰囲気をまといながらも、どこか疲れの色が見える。 目の下には薄く影が差し、長い夜勤の名残を物語っていた。
「失礼します。看護課のエルネスと申します」
扉の向こうから現れたその男は、背筋をまっすぐに伸ばし、静かな足取りで部屋に入ってきた。 言葉遣いは丁寧で、動きにも無駄がない。長年の勤めを思わせる、節度ある所作だった。
「お時間をいただき、ありがとうございます」 ルフィリアが立ち上がり、静かに頭を下げる。俺もそれに倣った。
エルネスは軽く会釈を返すと、部屋の中央に置かれた椅子へと歩み寄り、腰を下ろした。 椅子の脚が床を擦る音が、妙に大きく響いた。
「アゼル・カインの件ですね。……彼がいなくなる前日、たしかに私が夜勤を担当していました」
「そのとき、何か変わった様子はありませんでしたか?」
俺が問いかけると、エルネスは少しだけ視線を落とし、記憶を探るように言葉を選んだ。
「……あの晩は、いつもより容体が不安定でした。 呼吸が浅く、脈も弱く、皮膚の色も青白くなっていて……体温も下がっていました。 手足は氷のように冷たく、まるで命の灯が消えかけているようでした」
「急変の兆候だったと?」
「はい。正直、朝までもたないかもしれないと覚悟していました。 だからこそ、翌朝、彼の姿が消えていたと聞いたときは……最初は亡くなったのだと思いました。 ですが、遺体は見つからず、扉にも異常はなく、誰も出入りした形跡がない。 まるで、霧のように消えてしまったかのようでした」
ルフィリアが静かに頷く。 その表情は変わらないが、指先がわずかに強く書類を握っているのが見えた。
「その夜、最後に彼の様子を確認したのは?」
「四更の刻です。深夜を少し過ぎた頃。 そのときはまだ、呼吸もありましたし、状態は悪いながらも変化はありませんでした。 確かに、そこにいたんです。私は、彼の顔を見ました」
「それ以降は?」
「私は仮眠を取っておりました。明け方、交代の者が来て、彼の不在に気づいたようです。 私が戻ったときには、すでに騒ぎになっていました」
エルネスの声には、悔しさと戸惑いが混じっていた。 彼の責任ではないとわかっていても、あの夜に何かが起きたのは確かだった。
「……ありがとうございます。貴重なお話でした」 俺がそう言うと、エルネスは静かに頭を下げた。
「お力になれず、申し訳ありません。ですが、何か思い出したことがあれば、すぐにお伝えします」
「助かります。よろしくお願いします」
エルネスが部屋を後にすると、再び静寂が戻った。 窓の外では、風が若葉を揺らし、陽の光がやわらかく差し込んでいた。 その光景が、どこか遠いもののように感じられた。
ルフィリアはしばらく黙っていたが、やがて小さく息をついた。
「……やはり、何かが起きていたのは間違いなさそうですね」
俺は頷いた。 だが、それが何なのかは、まだ霧の中だった。
エルネスが部屋を後にしてから、俺たちはしばらく無言のまま座っていた。 ルフィリアは書類を閉じ、静かに立ち上がる。
「次は、当夜の警戒にあたっていた衛兵から話を聞きます。 彼は北棟の見張りを担当していました。アゼルの病室に最も近い持ち場です」
「北棟……あの部屋の窓がある側か」
「ええ。彼の名はカラム。十年以上この施設で勤めている、信頼できる人物です」
俺たちは再び廊下を歩き、別棟の詰所へと向かった。 廊下の空気は静かで、足音だけが石の床に淡く響いていた。 途中、すれ違う職員たちがルフィリアに軽く頭を下げる。 彼女はそれに静かに頷き返しながら、足を止めることなく進んだ。
詰所の扉をノックすると、中から低い声が返ってきた。
「どうぞ」
ルフィリアが扉を開けると、そこには一人の男が腰掛けていた。 年の頃は五十手前、がっしりとした体格に、灰色の髪を短く刈り込んでいる。 鎧の代わりに厚手の制服を着ていたが、その姿勢には兵士としての矜持がにじんでいた。
「失礼します。警備担当のカラムさんですね?」
「はい。お会いするのは久しぶりですな。……それに、そちらの方は?」
「調査に協力していただいている方です。アゼル・カインの件で、少しお話を伺いたくて」
カラムは頷き、椅子を勧めてくれた。俺たちは向かいに腰を下ろす。 椅子の脚が床を擦る音が、妙に耳に残った。
「アゼルが姿を消した夜、あなたは北棟の見張りをされていたと聞きました」
「ええ。外回りの見回りを終えて、ちょうど持ち場に戻ったところでした。 異常は……なかった。少なくとも、目に見える限りは」
「誰かが出入りした形跡は?」
「ありません。廊下も静かで、巡回の時間も記録通りです。 あの部屋の前も何度か通りましたが、特に変わった様子はなかった」
「では、何か気になることは?」
カラムは腕を組み、しばらく考え込んだ。 やがて、低く唸るように口を開いた。
「……はっきりしたことではありませんが、あの夜、北棟の廊下で何か音がしました。 何の音かはわかりません。ただ、一度だけ、“コツン”と何かが当たるような音が……。 風のせいかとも思いましたが、あの廊下は静かで、音が響きやすい場所です。妙に耳に残っていて」
「その音は、どこから?」
「アゼルの部屋の方角です。気になって、すぐに様子を見に行きました。 扉をそっと開けて中を覗いたんです。 部屋の中は暗く、静まり返っていましたが……彼は、ちゃんとベッドに横たわっていました。 身じろぎもせず、顔色は悪かったですが、確かにそこにいたのは間違いありません」
カラムの声は淡々としていたが、その奥には、言葉にしきれない違和感が滲んでいた。 彼の視線はどこか遠く、あの夜の記憶を手繰り寄せるように、わずかに揺れていた。
「そのこと、記録には?」
「いえ……音も一度きりでしたし、部屋にも異常はなかったので。 報告するほどではないと思ってしまいました。申し訳ありません」
「いいえ、今聞けてよかったです。ありがとうございます」
カラムはうなずき、少しだけ表情を引き締めた。 その顔には、長年の職務に裏打ちされた責任感と、わずかな悔いが浮かんでいた。
「もし、あの夜に何かがあったのだとしたら……私の見落としです。 それが事実なら、責任は私にあります」
「責任を問うために来たわけじゃありません」
ルフィリアの声は静かだったが、芯のある強さがあった。
「私たちは、真実を知りたいだけです」
カラムはしばらく黙っていたが、やがて深く頷いた。
「……わかりました。何か思い出したら、すぐに報告します」
「お願いします」
ルフィリアが軽く頭を下げると、カラムもそれに応じて静かに礼を返した。 そのやり取りは、言葉以上に重みを持っていた。
詰所を後にし、俺たちは再び廊下を歩き出した。 扉が背後で閉まる音が、ひときわ静かな空間に吸い込まれていく。 その音が、やけに重たく感じられた。




