7話
朝食を終えたあと、特に予定もなかった俺は、自室に戻って机に向かっていた。 昨夜ルパに教わった“基本文字”のノートを開き、何度もなぞるようにペンを走らせる。 「ぴょんって跳ねて」「お団子は潰さないように」――ルパの眠そうな声が、頭の中で繰り返される。
「……ぴょん、って言われてもな」
思わず苦笑しながら、文字をもう一度書き直したそのとき、 扉の向こうからノックの音が響いた。
「失礼します、小林様。ルフィリア様がお呼びです。執務室にてお待ちとのことです」
メイドの言葉に、俺はペンを置いて立ち上がる。 窓の外では、朝の光が庭の花々を照らし、風に揺れる草木が静かにさざめいていた。 けれど、胸の奥にほんの少しだけ、ざわつくような予感があった。
静かな廊下を歩き、執務室の扉をノックすると、すぐに「どうぞ」と返事があった。 中に入ると、ルフィリアは机の前に立ち、黒衣の裾を整えていた。 その表情はいつも通り落ち着いていたが、どこか目の奥に張り詰めたものが見えた。
「おはようございます、小林さん。突然ですが……少し、付き合っていただけますか?」
「付き合うって……どこへ?」
「……見ていただきたい場所があります。今朝、少し気になることが起きまして」
その言い方は、どこか含みがあって、けれど拒めない静かな圧を帯びていた。 俺は頷き、彼女の後に続く。
屋敷を出ると、朝の光が石畳を照らし、町の輪郭が鮮やかに広がっていた。 通りには露店が並び、人々の声が穏やかに響いている。 けれど、ルフィリアはその賑わいに目もくれず、まっすぐに歩き続けた。
やがて、視界の先に見覚えのある建物が現れる。 高い壁、重苦しい空気、門の前に立つ兵士たち――
「……ここ、昨日来た場所だ」
ぽつりと漏れた言葉に、ルフィリアがぴくりと反応した。
「……あなた、ここを知っているのですか?」
「うん。昨日、ロロアに案内されて……この施設のこと、少しだけ聞いた」
ルフィリアは驚いたように目を見開き、すぐに視線を伏せた。
「……そう、でしたか。ロロアが……」
その声には、驚きと戸惑い、そして少しの安堵が混ざっていた。 彼女は一瞬だけ目を伏せ、そして静かに言葉を続けた。
「じゃあ……昨日、患者を見たのですね?」
「いや、中には入ってない。外から見ただけだった。 でも、ロロアは確かに言ってた。ここには“夢に囚われた人たち”がいるって」
ルフィリアはしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
「……その患者のうち、一人が今朝、いなくなっていたのです」
「……一人?」
「はい。他の患者たちは今も眠っています。 けれど、その一人だけが、跡形もなく消えていたのです」
彼女の声は静かだったが、その奥にある緊張は隠しきれていなかった。
「……一緒に確認していただけますか?」
俺は頷いた。 ルフィリアが兵士に軽く合図を送ると、門が静かに開いた。 重厚な扉が軋む音が、やけに大きく響いた。
冷たい空気が流れ出し、俺たちは並んで施設の中へと足を踏み入れた。
中は驚くほど静かだった。 外の町に漂っていた夢の粒子はここにはなく、代わりに、乾いた空気と淡い薬品の匂いが漂っている。 石造りの廊下はひんやりとしていて、足音がやけに響いた。
「この施設では、夢に囚われた者たちの命を、現実の手で支えています」
ルフィリアの声が、静かに空間に溶けていく。
「夢で食料を作ることは、この世界では禁忌です。 だから、延命のための食事も、すべて現実の手で行われています。 一日二回、看護の者が患者の上半身を起こし、液状にしたお粥を口に流し込みます。 そのあと、水でゆっくりと流し込む。咀嚼も反応もありませんが、喉の反射は残っているため、わずかに飲み込むことができます」
廊下の両側には、等間隔に並ぶ扉。 そのほとんどが半開きになっていて、中にはベッドと簡素な家具が置かれていた。 毛布は整えられ、患者たちは静かに眠っている。 まるで、時間が止まっているかのようだった。
「排泄も同様に管理されています。 身体は眠り続けていますが、完全に機能を失っているわけではありません。 だからこそ、私たちは“生きている”と判断し、こうして支え続けているのです」
俺は無言で頷いた。 眠る患者たちは、まるで人形のように動かず、呼吸だけがかすかに命の証を示していた。 その静けさが、かえって不気味に思えるほどだった。
「……それで、消えたのが……」
「アゼル・カイン。二十七歳の男性」
ルフィリアはその部屋の前で立ち止まり、扉を押し開けた。 中は他と変わらない。整えられたベッド、畳まれた毛布、そして――誰もいない。
「鍵はかけていません。起き上がることがないからです。 けれど、警備の者は常に入口に立ち、見回りも定期的に行われています。 それなのに、誰も彼がいなくなる瞬間を見ていない。 扉も、窓も、壊されていない。 まるで……最初から存在しなかったかのように」
俺は無言で部屋を見渡した。 ベッドの上には、かすかに沈んだ枕の跡。 毛布の端が、ほんの少しだけ乱れている。 誰かがいた痕跡は、確かにそこにある。 けれど、“今はいない”という現実だけが、静かに残されていた。
隣に立つルフィリアは何も言わず、ただ、じっとベッドを見つめている。
けれど、沈黙の中に、わずかな違和感があった。 彼女の視線は、ただ“消えた”という事実を見ているだけじゃない。
この異常を、なぜ俺に見せたのか。 なぜ、わざわざここまで連れてきたのか。 説明はあったはずなのに、どこか釈然としない。
まるで、俺の反応を見ているような。 あるいは、俺にしか見えない“何か”を期待しているような。
ルフィリアは何も語らない。 けれど、その沈黙が、言葉よりも多くを物語っている気がした。
俺とルフィリアは、施設の中を隅々まで調べて回った。 アゼル・カインが使っていた部屋はもちろん、廊下、備品庫、看護記録、食事の管理表、 さらには他の患者の部屋まで――
けれど、どこにも“異常”はなかった。
扉は壊されていない。 窓も開けられた形跡はない。 床に足跡も、引きずった跡も、血痕も、何ひとつ残っていない。
「……記録にも異常はありません。 昨夜の見回りでも、アゼルの状態は変わりなかったと報告されています」
静まり返った廊下に、二人の足音だけが響く。 他の患者たちは、今も変わらず眠り続けていた。 その姿はまるで、時間に取り残された人形のようだった。
ルフィリアと俺は、再びアゼルの部屋の前に立ち止まった。 その視線は、空のベッドの上に釘付けになっていた。
「何かが起きた。けれど、それが“何か”を、まだ私たちは知らない」
その言葉が、静かに空気を震わせた。
施設を出たあと、ルフィリアは記録の束を抱えたまま、しばらく無言だった。 その横顔は、昼の光を受けて淡く輝いていたけれど、どこか遠くを見ているようだった。
「……この記録、持ち帰って調べます。 何か、見落としているかもしれませんから」
「……ああ。俺も、考えてみるよ」
そう答えたものの、胸の奥には、言葉にできないざわつきが残っていた。 “何もなかった”という事実が、逆に何かを隠しているような気がしてならなかった。
屋敷に戻ったあとも、その感覚は消えなかった。 夕食を終え、湯に浸かっても、頭の中にはあの空っぽのベッドが浮かんでいた。
夜の空気はひんやりとしていて、屋敷の中もどこか静まり返っていた。 昼間の出来事が頭から離れず、胸の奥にずっとざわつきが残っている。 あの空っぽのベッド。 整えられた毛布と、かすかに沈んだ枕の跡。 そこにいたはずの誰かが、まるで最初から存在しなかったかのように消えていた。
そんな気持ちを引きずったまま、俺は机に向かっていた。紙とペンを広げてはみたものの、文字をなぞる手に力が入らない。 ペン先が紙の上を滑るたび、線が微妙に歪んでいく。
「……今日、なんだか様子が変ですね」
ルパの声が、ぽつりと静かに落ちた。 いつものように机に肘をつき、頬杖をついたまま、眠たげな目で俺を見ている。
「……ああ。ちょっと、気になることがあってな」
「気になること、ですか?」
ルパは尻尾をふわりと揺らしながら、姿勢を少しだけ正した。 その仕草は、いつものふわっとした雰囲気のまま、でもどこか真剣だった。
少し迷ったあと、俺は昼間の出来事を話し始めた。 ルフィリアに呼ばれて向かった施設のこと。 夢に囚われた人々が眠る部屋のこと。 そして――その中の一人、アゼル・カインが、今朝忽然と姿を消していたこと。
ルパは話を遮らず、じっと聞いていた。 尻尾の動きがゆっくりと止まり、目が少しだけ細められる。
「……それは、確かにおかしいですね。 夢に囚われた方が意識を取り戻した例は、今まで一度もありません」
「やっぱり、そうか」
「はい。ですから、“自分で起きて出ていった”という可能性は、まず考えにくいです」
「俺もそう思った。扉も窓も無傷で、記録にも異常はなかった」
ルパは唇をきゅっと結び、しばらく考え込んだ。 その姿は、ふわふわとした雰囲気の奥にある、知性の輪郭を感じさせた。
「……では、“誰かが連れていった”という線はどうでしょう。 けれど、警備の目をかいくぐって誰にも気づかれずに動くのは難しいはずですが」
「まぁ~それ以外考えずらいよな~」
ルパは軽く眉をひそめた。 その目は、眠たげなままなのに、どこか鋭さを帯びていた。 机の上に置かれたランプの光が、ルパの横顔を淡く照らしている。 その光の中で、ルパのまつげがふるりと揺れた。
しばらく沈黙が続いた。 時計の針が静かに時を刻む音だけが、部屋の中に響いていた。
やがて、ルパがふっと息を吐いて、ぽつりとこぼす。
「……全然わかりません。さみしくて、家にでも帰ったんじゃないですか」
「……は?」
思わず聞き返すと、ルパはくすっと笑って、肩をすくめた。
「私だったら、そんなに長く眠ってたら、きっとお家が恋しくなります。 だから、夢の中でもちゃんと帰りますよ。……この屋敷か、お家に」
「……それなら、警備の人に見つかるだろ」
俺がそう返すと、ルパは目を細めて、ちょっとだけ口元をゆがめた。
「そんなの、わかってますよ。冗談です」
言いながらも、どこか楽しそうだった。 まるで、わざとつっこまれるのを待っていたかのように。 ルパの尻尾が、椅子の背もたれに沿ってふわりと揺れる。
俺はその横顔を見つめながら、ほんの少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。 けれど、胸の奥に広がる不安は、まだ消えない。
何か、見落としてる気がする。 でも今は――
とりあえず、ルパとの勉強に集中しよう。 考えるのは、明日また調べてからでも遅くない。
そう思い直して、俺は手元のノートにペンを走らせた。 「ルパ・トトエル」と、丁寧に書き込む。
その瞬間、隣からすかさず声が飛んできた。
「……不合格です」
「は?」
「なんとなく、です」
ルパは眠たげな目のまま、どこか満足そうに少し笑って頷いた。




