6話
屋敷に戻ると、廊下には静けさが満ちていた。 昼間の光景が嘘のように落ち着いていて、どこか張りつめた空気すら感じる。
使用人に尋ねると、ルフィリアは執務室にいるとのことだった。 ノックをして扉を開けると、彼女は机に向かい、書類に目を通していた。
「……おかえりなさい、小林さん」
顔を上げたルフィリアは、昼間よりも少し落ち着いた表情をしていた。 黒衣の袖を整えながら、椅子から立ち上がる。
「ロロアは……?」
「途中で別れたよ」
「そうですか……」
ルフィリアは小さくうなずき、視線を机の上に戻しかけたが、 俺が差し出した紙袋に気づいて、動きを止めた。
「これ、ロロアから。君へのお土産だって」
「……え?」
紙袋を受け取ったルフィリアは、目を瞬かせた。 中を覗き込むと、焼き菓子が丁寧に包まれている。
「……どうして、こんな……」
「渡し忘れたら“またるーちゃんをくすぐるからね〜”って釘を刺されたよ」
「……っ」
ルフィリアの肩がぴくりと揺れた。 そして、ほんの一瞬だけ、口元が緩む。
「……ロロアは、ほんとに……」
紙袋を胸に抱えながら、ルフィリアはそっとつぶやいた。
「……困った子です」
その声は、どこか優しくて、あたたかかった。
「でも、嬉しそうだったよ。君のこと、すごく大事にしてるんだなって思った」
俺がそう言うと、ルフィリアは驚いたようにこちらを見た。 そして、少しだけ頬を染めて、視線を逸らす。ルフィリアは何も言わず。 ただ、紙袋を見つめたまま、そっと指先でリボンをなぞっていた。
その仕草が、何よりも雄弁に、彼女の気持ちを語っているように思えた。
しばらくの沈黙が流れた。 ルフィリアは紙袋を抱えたまま、再び机の上の書類に視線を落とす。 けれど、ページをめくる手は止まったままだった。
「……そういえば、小林さん」
「ん?」
「読み書きの件ですが……今夜から、指導を受けていただきます」
「え、今夜から?」
「はい。教えるのは私ではありませんが、信頼できる者に任せてあります。 その方が、より丁寧に教えられるかと」
「まだ少し時間がありますので、それまでに食事と入浴を済ませてきてください。 準備が整い次第、お呼びします」
ルフィリアはそう言って、再び書類に目を落とした。 けれど、その声はどこか柔らかく、昼間の彼女とは違う温度を帯びていた。
「……了解。じゃあ、ひとまず行ってくるよ」
「はい。ごゆっくり」
短いやりとりのあと、俺は執務室を後にした。 扉を閉める直前、ちらりと見えたルフィリアの横顔は、 どこか穏やかで、ほんの少しだけ微笑んでいるように見え
食事を終え、湯に浸かって体をほぐしたあと、俺は自室に戻ってきた。 窓の外はすっかり夜の帳が下りていて、虫の声がかすかに響いている。 湯上がりの体に夜風が心地よく、少しだけまどろみそうになる。
部屋のランプに火を灯し、椅子に腰を下ろして待っていると、 やがて、ノックの音が静かに響いた。
「失礼します……」
扉が開き、ルフィリアが姿を現す。 その後ろから、ふわふわした足取りで、見覚えのある猫耳がぴくぴくと揺れながらついてくる。 長い尻尾はだらんと垂れ、眠たげな空気をまとったその姿に、思わず目を細めた。
「お待たせしました、小林さん。こちらが、今夜から読み書きを教える者です。 朝、お会いしていましたね。覚えていらっしゃいますか?」
「ああ、覚えてますよ。あのときは……寝てたよな?」
「……はい……今も、できれば寝ていたいです……」
猫耳の少女――ルパはぼそっと答えながら、部屋の隅の椅子にどさっと腰を下ろした。 そのまま机に肘をついて、頬杖をつく。尻尾が椅子の下でゆらりと揺れ、 その動きすらも眠気に引きずられているようだった。
「……ほんとは、寝てるはずの時間なんですけどね……」
「そんなことを言わずに、ちゃんとお願いしますね。あなたが適任だと判断したのですから」
ルフィリアは穏やかに、けれど逃がさないような口調で言う。 その一言に、ルパの猫耳がぴくりと揺れた。 眠そうな目を細め、ルパは小さくため息をつく。
「そ、そっか……ごめん」
「……謝られると、余計眠くなります……」
ルパは目をこすりながら、ゆる〜く尻尾を揺らしつつ、紙とペンを取り出した。 その動きはどこか緩慢で、まるで夢の中で作業しているようだった。 ペンを持つ手も、どこかふにゃりとしていて、今にも落としそうだ。
「それでは、私はこれで。ルパ、よろしくお願いしますね」
ルフィリアは静かに一礼し、部屋を出ていった。 扉が閉まると、ルパは椅子に深くもたれかかり、 机に突っ伏すような姿勢で、ぼそりとつぶやいた。
「……じゃあ……始めましょうか…… まずは……基本文字から……」
「基本文字?」
「……この国には、三種類の文字があって……」
ルパはペン先で紙の端をとんとんと叩きながら、眠そうに続ける。 猫耳がぴくぴくと揺れ、尻尾が椅子の脚に巻きついている。
「ひとつが、今言った“基本文字”。音をそのまま書き表すやつで…… 名前とか、簡単な会話文とか、だいたいこれで書けます……」
「ふむふむ」
「で、次が“古語文字”……これは、昔の文献とか、儀式のときに使うやつで…… 形が複雑で、意味も一文字ずつ違ってて……正直、めんどくさいです……」
ルパは目をこすりながら、紙にくにゃっとした文字をいくつか書きつける。 それは確かに、基本文字よりもずっと複雑で、模様のようにも見えた。
「最後が“神紋文字”……これは、亜神様たちが使う、ちょっと気取ったやつです…… 文法もややこしいし、筆記体とかもあるし……私はあんまり好きじゃないです……」
「つまり、最初は基本文字だけでいいってことか」
「……はい……それだけでも、日常会話はできますし…… あと……魔族とかエルフとか、他の種族に伝わる文字もあるにはあるんですけど…… 覚える必要は……ないですね……」
「そんなにバッサリ……」
「……使う機会、ほとんどないですし……眠いので、余計なことは省きたいです……」
ルパはあくびを噛み殺しながら、紙をこちらにくるりと向けた。 そこには、丸っこくて素朴な“基本文字”が並んでいた。
「……この文字は、“あ”の音です……」
ルパはゆっくりと説明を続けるが、まばたきの間隔がどんどん長くなっていく。 ペンを持つ手がふらつき、文字の線が少しだけ波打つ。
「……次は、“い”……」
その声がだんだん小さくなり――
こくん。
ルパの頭が前に傾き、机にぶつかりそうになったところで、 俺はあわてて声をかけた。
「大丈夫か?」
「……はっ……起きてます……起きてます……」
ルパは目をこすりながら、猫耳をぴくぴくさせて姿勢を戻す。 その耳の動きが妙に可愛くて、つい目がいってしまった。
「……そういえば、ルパっの猫耳と尻尾……やっぱり本物なんだよな。飾りとかじゃなくて」
「……本物ですけど……」ルパはぼそっと答えると、 椅子に座ったまま、尻尾をくるりと一回転させてみせた。 ふにゃりとした毛並みが、椅子の脚をなぞるように滑らかに動く。
「……ほら、動きます……耳も……」
そう言って、ぴくぴくっと猫耳を上下に揺らす。 左右交互にぴょこぴょこと動くその様子は、 まるで眠気まじりの猫そのものだった。
「……触ったら怒りますけど……」
「いや、見てるだけだよ」
「……なら、いいです……」
ルパはまた頬杖をついて、尻尾をふにゃりと巻き直した。 その仕草はどこか安心したようで、 さっきまでの眠気がほんの少しだけ遠のいたように見えた。
「ルパって……本当に獣人なんだな~」
ぽつりと漏らした俺の言葉に、ルパはぴくりと耳を動かした。 その顔には、あきれているのか、理解できていないのか――まるで頭の上に「?」が浮かんでいるような表情が浮かんでいた。
「……何の確認だったんです?それに正確には、天使と獣人のハーフです……」
“天使”という言葉に、思わず脳裏に浮かんだのは、俺の元いた世界でのイメージだった。 ――白銀の翼を広げ、神々しい光に包まれながら、祝福と癒しをもたらす存在。 教会の天井画や、子どもの頃に読んだ絵本に出てきたような、まさに“聖なる守護者”。
「俺の知っている世界の天使は、なんか、もっとこう……羽があって、光に包まれてて、祝福とか癒しとか……そういう神々しい存在ってイメージだったんだけど」
そう言いながら、ちらりとルパを見る。 ふわふわの猫耳をぴくぴくさせながら、眠そうに頬杖をついている彼女は―― 少なくとも、俺の知っている“天使”とは、だいぶ違っていた。
「……なんですかそれ。聞いたことないです……」
ルパはあくびを噛み殺しながら、そっけなくそう返した。
「天使は……神の世界のなんでも屋で、基本的に力仕事をやってた種族です。なので、力が強いんですよ……」
「へえ……天使って、力強いのか?」
「……強いですよ。めちゃくちゃ」
それだけ言うと、ルパはまたノートに視線を落とし、 何事もなかったかのように“う”の文字を書き始めた。
ひと通り、基本文字の書き方を教わったあと、 俺はノートに何度か習った基本文字と書いてみた。 ルパは隣で頬杖をついたまま、ちらちらと視線だけ動かしてチェックしている。
「……ここの丸が、ちょっと潰れてます…… もう少し、ふわっと……お団子をつぶさないように……」
「お団子……なるほど、イメージしやすいな」
「……まあまあです……でも、跳ねが弱いです…… もっと、ぴょんって……」
「ぴょんって言われてもな……」
「……ぴょんは、ぴょんです……」
眠そうな声でそう言いながらも、ルパの指摘は的確だった。 その耳がぴくぴくと動くたびに、なんだか集中力が削がれそうになる。
「なるほど……じゃあ次は名前でも書いてみようかな。 ルパの名前、書いてみてもいい?」
「……私の?」
「うん。練習になるし、せっかくだから」
ルパは少しだけ考えるようにまばたきして、 それから、ゆっくりと口を開いた。
「……ルパ・トトエルです……」
「ルパ・トトエル……なんか、響きが綺麗でいい名前だね」
「……そうですか……? 私は、長くて書くの面倒なので……あんまり好きじゃないです……」
ルパはそういうが、俺がこの世界で出会った中では断トツで短い名前だった
「でも、練習にはちょうどいいかも。書いてみるよ」
「……どうぞ……でも、間違えたら減点です……」
「減点あるのかよ……」
「……あります……」
ルパはまた頬杖をついて、尻尾をふにゃりと巻き直した。 その目は眠そうなのに、どこか楽しげでもあった。
「……よし、できた」
俺はペンを置き、書き上げた“ルパ・トトエル”の文字を見つめた。 線の太さ、丸み、跳ね――さっきまでの指摘を思い出しながら、 何度も書き直して、ようやく納得のいく形になった。
「ルパ、見てくれよ。今度は……」
そう言いかけて、ふと隣を見る。
ルパは机に突っ伏したまま、すぅすぅと寝息を立てていた。 猫耳がぴくりとも動かず、 尻尾は完全に脱力し床まで伸びていた。
「……寝たのかよ」
苦笑しながら、そっと肩を揺すってみる。
「ルパ? 起きてるか?」
反応はない。 ぴくりとも動かず、ただ静かに呼吸を繰り返している。
「……まあ、あれだけ眠そうだったしな」
このままじゃ、机に突っ伏したままで寝づらいだろう。 俺はそっとルパの体を抱え上げ、すぐ近くのベッドへと運んだ。
思っていたよりも軽くて、小さな体だった。 けれど、その中に眠っている“天使の力”を思い出して、 ほんの少しだけ、慎重になる。
ベッドに寝かせ、布団をそっとかける。 ルパは目を覚ますことなく、静かに寝息を続けていた。
「……おやすみ、先生」
そうつぶやいて、もう少しだけ、復習しておこうと思い俺は机に戻る。
ランプの灯りが、静かに揺れている。 夜はまだ、少しだけ続きそうだった。
まぶたの裏に、やわらかな光が差し込んでくる。 どこか遠くで鳥のさえずりが聞こえ、 それがだんだんと現実の音として輪郭を持ち始めた。
「……小林さん、朝ですよ」
静かな声が耳元に届く。 まどろみの中で、俺はゆっくりと目を開けた。
視界に入ったのは、黒衣の袖と、整った金の髪。 ルフィリアが、俺のすぐそばにしゃがみ込んでいた。
「……ルフィリア?」
「はい。おはようございます。昨夜は……ソファで寝ていたんですね」
「……ああ、そうだった。ルパが寝ちゃってさ。 起こしても起きそうになかったから、ベッドに寝かせて……」
「ええ、見ました。すやすやと気持ちよさそうに眠っていました」
ルフィリアはふっと微笑む。 その表情は、どこか昨夜の続きのように、やわらかかった。
「……あなたが気を遣ってくださったんですね。ありがとうございます」
「いや、別に……あのままだと首とか痛めそうだったし」
「ふふ、そうですね。」
ルフィリアは立ち上がり、カーテンを少し開けて朝の光を部屋に招き入れた。 柔らかな陽射しが差し込み、部屋の空気が一気に目覚める。
「朝食の準備ができています。よろしければ、食堂へどうぞ」
「うん、ありがとう。すぐ行くよ」
「では、ルパにも伝えてきますね。……彼女、きっとまた寝てますから」
「だろうな……」
ルフィリアはくすっと笑い、部屋を後にした。 その背中を見送りながら、俺はソファから体を起こす。
少しだけ重たいまぶたをこすりながら、 昨夜の本をちらりと見た。
“ルパ・トトエル”
自分の書いた文字が、朝の光に照らされていた。
そのすぐ横に――書いた覚えはないが見覚えのある小さな文字が添えられている。
「……ん?」
目を凝らして見ると、そこには、 丸っこい字で、こう書かれていた。
『ごうかく』
「……マジかよ……」
思わず、口元が緩む。 あのあと、寝たふりでもしてたのか。 それとも、ほんの一瞬だけ起きて、そっと書いたのか。
どちらにせよ―― ルパらしい、静かで、優しい“評価”だった。




