5話
荘厳な《エテルナ・テンプル》の内部は、外観以上に圧倒的だった。 高い天井には無数の光の粒が星座のように瞬き、静寂の中に神聖な気配が満ちている。 祭壇の周囲では亜神たちが祈りを捧げ、白い衣をまとった人々が、まるで一つの生き物のように呼吸を合わせて祈りを続けていた。
だが、その中でただ一人、祈りに加わらず、床を磨いている姿が目に入った。 布を手に、石床を丁寧に拭いている女性――ルフィリアだった。 黒衣の彼女は、白衣の群れの中でひときわ目立っていた。まるで夜のしじまが、昼の光の中にぽつりと落ちているようだった。
「……ルフィリア?」
思わず声が漏れる。 彼女は掃除の手を止め、こちらに気づいて顔を上げた。
「あ……」
その瞳が一瞬だけ揺れ、すぐに視線を逸らす。
小さく声を漏らし、頬を染めながら、掃除布をぎゅっと握りしめた。
「結局ここで普通に見つかる。――こうなるなら、逃げる必要なんてなかったんじゃないか」
その言葉に、ロロアがぱっと振り返り、にやりと笑った。 ピンク色の髪がふわりと舞い、いたずらっぽい笑みが浮かぶ。
「本当に一緒だったんだー! るーちゃん、なんで逃げたの?」
ルフィリアはさらに顔を赤らめ、掃除布を胸に抱きしめるようにして小さく答えた。
「……別に、逃げたわけでは……」
「うそだ~!」
ロロアは勢いよく飛びつき、ルフィリアの脇腹に指を伸ばした。
「お仕置きだよ~!」
「ひゃっ……! や、やめてください……っ!」
ルフィリアは必死に身をよじり、黒衣の裾がふわりと舞う。 彼女の頬はさらに赤く染まり、耳まで真っ赤だった。
「昨日ぶりに会えたのに、隠れるなんてずるいよ~!」
ロロアは楽しそうに笑いながら、くすぐりを続ける。 その無邪気さは、神殿の厳かな空気すら軽やかに変えてしまいそうだった。
「ほんとに……やめてください……!」
ルフィリアは恥ずかしそうに声を震わせ、掃除布をぎゅっと握りしめる。 そして、視線をこちらに向け、静かだがどこか切迫した声で言った。
「……小林さん! あなたがロロアを連れてきたのですから、私を助ける責任があります! 出ないと、また昨日と同じことになりますよ!」
その言葉に、ロロアがくすっと笑いながら、わざとらしく首をかしげた。
「え〜? 昨日のことって、どのこと〜? るーちゃんのスカート、ひら〜ってなったやつ?」
「言わなくていいっ!!」
ルフィリアが顔を真っ赤にして叫ぶ。掃除布をぎゅっと握りしめ、今にも投げつけそうな勢いだ。 その目は潤んでいて、怒りと羞恥が入り混じっていた。
俺はというと、なんだか後頭部がじんわり痛くなってきた。 昨日、何があったかは……まあ、体が覚えてる。
「……あー……うん。責任、ね……」
ルフィリアはぷいっと顔を背けながら、ぽつりと呟いた。
「……あれは、完全に故意でした。ロロアの悪ふざけに巻き込まれた私は……被害者です」
「そんなこと言っちゃうんだ~」
そういうと、ロロアと目が合い、慣れた手つきでルフィリアのスカートに伸びていき、含みのある笑顔で
「昨日あんたも、ちゃんと見てたよね〜?もっかいみたくない?」
「ロロアっ!!」
神殿の静寂に、ルフィリアの怒声が響き渡った。 祈りの声が一瞬だけ止まり、周囲の視線がこちらに集まる。 ルフィリアははっとして口をつぐみ、そっと視線を落とした。
荘厳な《エテルナ・テンプル》の中で、祈りを拒み掃除を続けるルフィリア。 そして彼女に飛びつき、無邪気にくすぐるロロア。 二人の対照は、この神殿の光と影そのもののように見えた。
まださっきの余韻がまだ空気に残る中、くすぐるのをやめたロロアはけろっとした顔で椅子にどさっと腰を下ろした。
「ふぅ〜、やっと落ち着いた〜。くすぐりって、体力使うね〜」
「……誰のせいですか」
ルフィリアは掃除布を膝に置きながら、じとっとした目でロロアを睨んだ。 その表情には怒りというより、呆れと諦めが混ざっていた。
俺も近くの椅子に腰を下ろし、ようやく一息つく。 神殿の奥からは、まだ祈りの声が静かに響いていた。 その音が、さっきまでの騒がしさを包み込むように、ゆっくりと空間を満たしていく。
「……ルフィリアさんは祈らないんですか?」
そう尋ねると、ルフィリアは少しだけ視線を逸らした。 だが、答えようとする前に、ロロアが口を開いた。
「るーちゃん、前はあそこにいたんだよ。白い服着て、ちゃんと祈ってたの。 今みたいに黒い服着て、床ばっかり磨いてるの、ほんと最近になってから」
「ロロア……」
ルフィリアが小さくため息をつく。けれど、それ以上は否定しなかった。
「……そうだったのか」
俺がつぶやくと、ルフィリアはゆっくりと口を開いた。
「昨日も言いましたが、私はそこまで熱狂的に神ロイを信仰しているわけではありません。 だから、祈りの輪に加わることに、今はあまり意味を感じていないんです」
彼女の声は淡々としていたが、その奥に、何かを押し隠すような気配があった。
「それに――」
一瞬、言葉が途切れる。 ルフィリアは何かを言いかけて、そっと目を伏せた。
「……何でもありません。 とにかく、私は祈るよりも、掃除をしている方が性に合っているのです。 誰かの役に立てるなら、その方がずっと……いいんです」
ロロアが、珍しく真面目な声で言った。
「るーちゃん、そういうとこ、ほんと真面目だよね。 でも、そういうとこ、好きだよ」
ルフィリアは驚いたようにロロアを見つめ、そして小さくうなずいた。 その頬には、ほんのわずかに赤みが差していた。
俺はその言葉を聞きながら、彼女の黒衣が白衣の中でどれほど浮いていたかを思い出していた。 それでも彼女がそこに居続けている理由が、少しだけわかった気がした。
ルフィリアは ロロアの言葉を反芻するように、視線を落としたまま、掃除布の端を指先でいじっている。 やがて、ほんの少しだけ息を吐いて、静かに立ち上がった。
「……そろそろ、戻ります。掃除の続きをしないと」
「え〜、もう? せっかく座ったのに〜」
ロロアが椅子の背にもたれながら、だらんと手を広げる。 その姿はまるで、神殿の中にいることを忘れてしまったかのように自由だった。
「……ロロアが騒いだせいで、床に埃が舞いましたから」
ルフィリアは淡々とした口調で言いながらも、どこか口元が緩んでいた。 完全に怒っているわけではない。けれど、やはりどこか一線を引いている。
「手伝おうか?」 俺がそう言うと、ルフィリアは一瞬だけ驚いたように目を見開き――そして、すぐに目を伏せた。
「……お気持ちだけで十分です。小林さんは、ロロアの監視をお願いします」
「えっ、なんで〜!? あたし何もしてないよ〜!」
「昨日の件を含めて、信用がありません」
ぴしゃりと返されて、ロロアが「ひど〜い!」と笑いながら椅子の上で転がった。
ルフィリアはそんな二人を横目に見ながら、再び掃除戻っていった。
俺とロロアはしばらくその背中を見つめていたが、やがてロロアがぽんっと膝を叩いた。
「よしっ! じゃあ、そろそろ行こっか!」
「え?」
「次の町案内だよ〜! せっかく来たんだから、神殿だけじゃもったいないでしょ? あたしがとっておきの場所、いっぱい教えてあげる!」
ロロアは椅子からぴょんと飛び降り、俺の腕をぐいっと引っ張った。 その勢いに押されて立ち上がると、ルフィリアがちらりとこちらを見た。
「……また、騒ぎを起こさないように気をつけてくださいね」
「わかってるって〜! るーちゃんも、ちゃんと休むんだよ〜?」
「わかっています。」
「だよね〜。じゃ、またあとで!」
ロロアは手をひらひらと振りながら、俺を引っ張って神殿の出口へと向かう。
神殿を出たあと、ロロアの町案内は、まるで風に乗るように軽やかに始まった。
まず連れていかれたのは、路地裏にひっそりと佇む焼き菓子屋。 店先には甘い香りが漂い、ロロアは迷いなく
「これと、これと、あとこれも!」
と指差していく。 気づけば紙袋が三つ。ロロアはそのうちの一つをルフィリアの分だと言って、大事そうに抱えていた。
次に向かったのは、町の外れにある小さな丘。 そこからは町全体が見渡せて、遠くには夕陽に染まる海がきらめいていた。 ロロアは風に髪をなびかせながら、
「ここ、あたしのお気に入りなんだ〜」と笑った。
その途中、ロロアがふとこちらを見て、首をかしげる。
「そういえばさ、小林って……名前、合ってる? 呼び方、間違ってない?」
「ああ、合ってるよ。小林で大丈夫」
「ふーん、小林……なんか、ちょっと変わってるよね。こっちの名前じゃない感じ」
「まあ……こことは違う世界からきたからね」
「えっ、なにそれ⁉」
ロロアが目をぱちぱちさせながら、まるで初めて聞く言葉みたいに繰り返す。
「別の世界。俺がいた場所は、こことはまったく違う世界だったんだ。気づいたら、こっちに来てて……気づいたら、君たちと出会ってた」
「へぇ〜……なんか、すごいね。 でも、そう言われると納得かも。小林って、なんか空気がちょっと違うもん」
「空気?」
「うん。言葉は通じてるけど、考え方とか、反応とか……ちょっとだけ、こっちの人と違う感じ。 でも、それが面白いんだよね〜!」
ロロアはそう言って、ぱっと顔を上げた。
「ねぇ、小林。せっかくだし、そっちの世界のもの出してみようよ! 夢で作れるでしょ? 見てみたい!」
ロロアは身を乗り出して、目をきらきらさせている。 まるで宝探しの途中で地図を見つけた子どもみたいな顔だった。
「……できるかどうかはわからないけど、やってみるよ」
「じゃあ、やり方教えるね!」
ロロアはにんまりと笑って、指をぴんと立てた。
「呼び出したいものを、ちゃんとはっきり思い浮かべるの。 形とか重さとか、手触りとか……そういうの、ぼやっとじゃなくて、ちゃんと!」
俺は静かに目を閉じた。
思い浮かべたのは、昔使っていたポラロイドカメラ。 手に持ったときのずっしりとした重さ。 シャッターを押すときの、カチッという感触。 撮った直後に白いフィルムがスッと出てきて、 じわじわと絵が浮かび上がってくる、あの瞬間のわくわく。
そのイメージを、できるだけ正確に、細部まで思い描く。
指先に意識を集中させると、空気の中に光の粒が舞い始めた。 それはまるで水面に差し込む朝の光のように、やわらかく、でも確かに集まっていく。
やがて手の中に、ずしりとした感触が生まれた。
目を開けると、そこには黒くて四角いポラロイドカメラがあった。
「……できた」
「おおっ、なにそれ!? 箱? 道具? なんか出てきた〜!」
ロロアが目を輝かせながら、ぐいっと顔を近づけてくる。 その瞳は、まるで星を映した湖のようにきらきらしていた。
「カメラ。俺の世界の道具で、写真を撮るためのものだよ」
「しゃしん……って?」
「まあ、見てて」
俺はカメラを構え、ロロアに向けた。
「はい、こっち向いて笑って」
「えっ、あ、うん!」
ロロアがちょっと照れたように笑って、両手で頬を押さえながらポーズをとる。 その笑顔は、どこか無防備で、でも心から楽しそうだった。
「――はい、チーズ」
カシャッ。
シャッター音とともに、カメラの口から白いフィルムがスッと押し出される。
「うわっ、なにこれ!? 紙!? 出てきた!?」
「驚くのはまだ早いよ」
ロロアが両手で持っていた写真を、そっと裏返す。 そこに、さっきの笑顔が浮かび上がった。
「……ほんとに、写ってる。あたしが……ここにいる」
その声は、ほんの少しだけ震えていた。 ロロアは写真を見つめたまま、まばたきを忘れたようにじっとしていた。
「すごい……これ、すごいよ小林……! ねぇ、これ、もらっていい?」
ロロアは写真を大事そうに抱えながら、ぱっと顔を上げた。
「……って言いたいけど、たぶん無理なんだよね〜。 夢で作ったものって、作った人が意識しなくなると消えちゃうの。 だから、誰かにあげるのって無理でさ」
「……そうなんだ」
「うん。だから、ちょっと試してみよ?」
ロロアは写真をそっと手に持ったまま、俺の顔をのぞき込んだ。 その目は、さっきまでのきらきらとは違って、少しだけ真剣だった。
「ね、小林。いま、この写真のこと、考えないでみて。 意識から外して。見ないで、思い出さないで。 難しいなら、ルフィリアのパンツでも思い出してみて!」
「はっ⁉」
ロロアはいたずらっぽく笑いながら、肩をすくめた。
「そしたら写真のことなんて吹っ飛ぶでしょ?」
俺は顔をそらし、頭の中をぐるぐるかき回す。 写真のことを考えないように――いや、ルフィリアのパンツってなんだよ。 変なことを考えないようにしたが、思考のすき間から、 スカートをめくられたルフィリアの姿がちらついてきた。
……ダメだ、余計に意識が混乱する。
でも、気づけば写真のことはすでに思考の外にいた。
数秒の沈黙。
「……あれ?」
ロロアの声が小さく漏れる。
「消えない……まだ、ある」
俺が振り返ると、ロロアの手の中に、写真はちゃんと残っていた。
「ほんとに、消えてない……なんで? 小林、今ほんとに意識してなかった?」
「ああ。言われた通りにした」
ロロアは写真をじっと見つめていたけど、 ふいに口元をゆるめて、にやっと笑った。
「……ってことはさ、言われた通りにやったってことは―― ほんとにパンツ思い浮かべたんだ?」
「ち、違う!そんなこと考えてない!」
「え〜? でも“言われた通りにした”って言ったよね〜?」
「いや、それは……!」
「うわ〜小林、最低〜! ルフィリアに言っちゃおっかな〜!」
「やめろッ!」
ロロアはケラケラ笑いながら、写真を胸にぎゅっと抱きしめた。 その笑い声は、風に乗って草原の向こうまで届きそうなほど明るかった。
「冗談だよ、冗談」
そう言って、ふっと笑みをゆるめる。
「でも、小林はやっぱり特別なんだね。 こんなこと、初めてだよ。夢で作ったものがちゃんと残るなんて」
ロロアは写真を見つめながら、そっと言った。
「これ、大事にするね」
その声は、さっきまでの冗談混じりの調子とは違って、 どこか大切なものを扱うような、やわらかい響きだった。
ロロアはくすっと笑って、また歩き出した。 その背中を見ながら、俺もふっと笑う。
しばらく風の音だけが流れていたけど、 ロロアがふいに、前を向いたままぽつりとつぶやいた。
「ねぇ、小林。今度さ……小林のいた世界のこと、教えてよ」
「今度、ちゃんと話すよ。俺がいた世界のこと」
「ほんと⁉ やった〜! 絶対聞かせてね!」
ロロアは嬉しそうに振り返って、ぱっと笑顔を咲かせた。
「うん、約束する」
ロロアはくすっと笑って、また歩き出した。
広場では子どもたちと一緒に遊び、 市場では果物屋の店主におまけをねだったり、 古びた噴水の縁に座って、買ったお菓子を分け合ったり――
ロロアの案内は、まるで止まることを知らない小川のように、次から次へと流れていった。
気づけば、空はすっかり茜色に染まり、町の灯りがぽつぽつと灯り始めていた。
「ふぅ〜、さすがにちょっと疲れたかも〜」
ロロアが伸びをしながら笑う。 その顔には、満足そうな笑みが浮かんでいた。
「結構あるいたからね」
確かに休みなしで歩いていたせいかそれなりに疲れていた
「でも、楽しかったでしょ?」
「ああ。すごく」
俺がそう答えると、ロロアは満足そうにうなずいた。
「よしっ、じゃあ最後に、あそこ寄って帰ろっか。」
そう言って、ロロアはまた歩き出す。まるで風に乗るように、迷いなく進んでいく。
その背中は、いつも通り軽やかで、無邪気に、自由に、そして誰よりもまっすぐで、どこか頼もしかった。




