4話
屋敷を出ると、朝の光が石畳を照らし、町の輪郭が鮮やかに広がっていた。通りには露店が並び、果物や布を売る声が響き、夢の粒子が淡く漂っている。人々はそれぞれの生活を営みながらも、どこか穏やかな空気を共有していた。
ルフィリアは歩みを進めながら、俺に説明を始めた。
「ここはエルディナ王国。そしてこの町はラシェルと呼ばれています。王国の中心に位置し、交易と文化の拠点でもあるのです」
俺は周囲を見渡した。獣人の商人が笑顔で客を迎え、エルフの子供が花を咲かせて遊んでいる。人間もドワーフも肩を並べ、互いを拒む様子はない。
「本当に争いがないんだな」
「ええ。夢がある限り、人は互いを傷つける理由を失います。そう信じられています」
彼女は少し間を置き、続けた。
「亜神は、民の声を神に届ける役割を担っています。祈りを捧げ、願いを聞き、時には人々の手助けをする。特別な力を振るうよりも、日々の暮らしを支えることが多いのです」
その言葉に、俺は意外な印象を受けた。亜神と聞けば、もっと神秘的で遠い存在を想像していたが、彼らは人々の隣に立ち、支える役割を果たしているらしい。
通りを歩いていると、ふと看板に目を留めた。木板に刻まれた文字が並んでいるが、俺にはまったく読めなかった。
「……これ、何て書いてあるんだ?」
ルフィリアは立ち止まり、看板を見上げる。
「エリンと書いています。匂いや看板描かれている絵でおそらくパン屋だと思われますが。……やはり、あなたにはこの世界の文字は読めないのですね」
「どうやらそうみたいだ。全部記号にしか見えない」
ルフィリアは少し考え、やがて頷いた。
「屋敷のメイドに文字を教えられる者がいます。後ほど手配しましょう。あなたがこの世界で暮らすなら、読み書きは大切ですから」
その言葉に、胸の奥が少し温かくなった。見知らぬ世界に放り込まれた俺を、彼女は当然のように受け入れ、支えようとしている。
ルフィリアは歩みを緩め、俺の方へ振り返った。
「あなたには、これから――」
言葉が途切れた。まるで喉に何かが詰まったように、彼女は急に黙り込み、足を止める。表情が固まり、視線が一点に釘付けになっていた。
俺もつられてその方向を見やる。そこには――見覚えのある姿があった。 鮮やかなピンク色の髪が風に揺れ、白いローブに金糸の縁取りをまといながらも、どこか緩い雰囲気を漂わせている。屋敷で騒ぎを起こした亜神、ロロアだった。
彼女は老人の肩に手を置き、柔らかな調子で言葉を投げかけていた。
「困ってることとかある? 言ってくれれば、アタシが神さまに届けてあげるよ」
老人は戸惑いながらも祈りを続け、ロロアは両手を合わせて空へ向かい、ゆったりとした声で言葉を紡ぐ。
「神カゴ~~~」
その余韻が噴水の水音に溶け、夢の光がふわりと揺らめいた。子供たちの笑い声が一瞬止まり、広場全体が静けさに包まれる。
やがてロロアはゆっくりと顔を上げ、俺と目が合った。にやりと笑みを浮かべると、軽やかな足取りでこちらへ歩み寄ってくる。白いローブの裾が風に揺れ、金糸の縁取りが光を反射してきらめいた。
「おー昨日ぶりだね~。ひとりで町見てるの?」
肩をすくめるような仕草で、緩い調子の声を投げかけてくる。
「いや、ルフィリアと――」
そう答えた瞬間、ロロアが首を傾げて笑った。
「何言ってるの? 一人じゃん」
俺は反射的に隣へ視線を向けた。そこにいるはずのルフィリアの姿は、どこにもなかった。
ついさっきまで確かに隣に立ち、町の説明をしていたはずなのに。人混みの中に紛れた様子もなく、まるで最初から存在しなかったかのように消えている。
取り残された俺の前には、にこやかに笑うロロアだけが立っていた。
「まあまあ、そんな顔しないで。せっかくだし、アタシが案内してあげるよ~」
ロロアは軽く手を振り、すぐに自己紹介を添えた。
「アタシの名前は――ロロア・ロイ・ローレッタ。よろしくね」
その声は緩やかで、どこか肩の力が抜けた調子だったが、不思議と耳に残る響きを持っていた。
しばらく一方的なロロアの会話を聞きながら歩いていると、前方で小さな子供がつまずき、石畳に倒れ込んだ。周囲の人々が驚いて足を止める。
「おっと、大丈夫?」
ロロアはすぐに駆け寄り、子供を抱き起こした。膝に擦り傷ができていたが、彼女は優しく手を添え、柔らかな声で慰める。
「痛いの痛いの、飛んでけ~神カゴ~~~」
彼女がそう言うと、不思議な温もりが広がり、子供の顔に安心した笑みが戻った。周囲の人々もほっとしたように息をつく。
ロロアの行動に関心しつつ、一つだけ抱いた疑問をロロアへ問いかけた。
「……さっきの『神カゴ~』って何だ?」
ロロアは振り返り、にこっと笑う。
「『神のご加護がありますように』って意味の略だよ。でもさ、こっちのほうがかわいいでしょ!」
彼女の軽い調子に、思わず苦笑が漏れる。だがその言葉には、確かに人を安心させる力が宿っていた。
さらに歩いていると、町の外れに大きな施設が見えてきた。高い壁に囲まれ、門の前には兵士が立っている。周囲の賑わいとは違い、その場所だけが重苦しい空気をまとっていた。
ロロアは足を止め、真剣な眼差しでその建物を見上げた。
「ここは収容院。現実崩壊症の人たちを保護してる場所だよ」
「現実崩壊症……?」
ロロアは珍しく緩さを消し、真面目な声で続けた。
「夢に魅入られすぎて、現実を捨てちゃう病。放っておいたら死んじゃうんだ。誰にも看取られずに消えていく人もいる……だから、この施設があるの」
彼女の視線は門の奥へと向けられていた。
「でもね、もっと厄介なのは――現実崩壊症で亡くなった人から悪夢が漏れ出すこと。その悪夢が原因で、どこかで化け物が生まれるの。せめて街中で生まれないように、私たち亜神が結界を張ってるんだ」
ロロアの声には憎しみが混じっていた。普段の緩い調子とは違い、言葉の一つひとつが重く響く。
「アタシ、この病気が嫌い。」
ロロアは少し間を置き、指を折りながら簡単に説明を続けた。
「現実崩壊症ってね、最初はまだ夢と現実の境目が分かるんだけど、だんだん曖昧になっていくの。感覚や感情が夢に支配されて、現実を見失っちゃう。そして――」
彼女は真剣な眼差しで俺を見た。
「最後にはもう目を覚まさなくなる。夢の中に取り込まれて、現実の身体はただ眠り続けるだけになるんだ」
ロロアは深く息を吐き、視線を落とした。
「だから、この施設があるんだ。誰にも看取られずに消える人を少しでも見守るために。そして、悪夢が街に溢れないようにするために」
門の前に立つ兵士たちは無言で周囲を見張っていた。施設の中からはかすかな呻き声や祈りのような声が漏れ聞こえ、空気は重く張り詰めている。俺はその説明を聞きながら、胸の奥に冷たいものが広がるのを感じた。夢が人を救う世界だと思っていたのに、夢が人を壊す病まで存在するとは――。
「それから……禁忌もあるんだ」
俺は思わず眉をひそめる。
「禁忌?」
ロロアは真剣な眼差しで俺を見返した。
「食べ物を夢でつくるのは絶対ダメ。夢と一体化して、戻れなくなる危険があるから。便利そうに見えるけど、夢に依存しすぎると境界が壊れて、現実に戻れなくなるんだよ」
彼女の声は低く、重みを帯びていた。普段の緩い調子とは違い、その言葉には亜神としての責任と警告が込められていた。
俺はその説明を聞きながら、胸の奥に冷たいものが広がるのを感じた。夢が人を救う世界だと思っていたのに、夢が人を壊す病まで存在するとは――。
ロロアはふっと顔を上げ、いつもの調子を取り戻すように笑った。
「ま、そんな感じ!。せっかくだし、もうちょっと町を案内してあげるよ~」
その笑みは軽やかだったが、さっきまでの真剣な表情の余韻が残っていて、どこか影を帯びて見えた。
ロロアは軽やかに歩き出し、俺もその後を追った。町の外れから再び賑わいのある通りへ戻ると、夢の粒子が風に乗って舞い、露店の上で淡く光っていた。
「結界ってね、目に見えるものじゃないんだよ」
ロロアは両手を広げ、空を仰ぐように言った。
「亜神が祈りを込めて張ると、人からあふれ出た夢の流れが整えられて、化け物も街に入り込めなくなる。ほら、こうして歩いてても、粒子が穏やかに揺れてるでしょ? これが結界の効果なんだ」
俺は周囲を見渡した。確かに、町の中心では夢の粒子が柔らかく漂い、人々の笑顔を照らしている。先ほどの収容院の前で感じた重苦しさとはまるで違う。
「でもね、結界を維持するのは簡単じゃない。夢は人の心から生まれるものだから、誰かが強い絶望を抱いたりすると、すぐに歪んじゃうんだ」
ロロアは肩をすくめ、少し苦笑した。
「だから私たち亜神は、ただ祈るだけじゃなくて、人々の暮らしを見守る必要があるの。夢を扱う人たちが禁忌を破らないようにね」
ロロアはふいに立ち止まり、振り返ってにこっと笑った。
「夢ってさ、甘いお菓子みたいなもんなんだよ。食べすぎると体に悪い。でもちょっとなら幸せになれる。だから私たち亜神は、みんなが“ちょうどいい夢”を食べられるように見張ってるの」
その比喩に思わず笑ってしまった。だが同時に、彼女の言葉の裏に潜む真剣さを感じ取る。
ロロアは再び歩き出し、町の奥へと俺を導いた。
「さ、次はもっと面白い場所を見せてあげる。ここからがラシェルの本当の顔だよ~」
ロロアは軽やかに歩き出し、俺もその後を追った。
町の中心部へ進むにつれ、通りの雰囲気が変わっていく。露店の喧騒が次第に遠ざかり、代わりに静謐な空気が漂い始めた。夢の粒子が濃くなり、まるで光の川が道を導いているようだ。
視界に現れたのは、巨大な神殿だった。白亜の石で築かれた壁は陽光を反射し、まるで空そのものを抱き込んでいるかのように輝いている。高く伸びる柱には夢を象徴する紋様が刻まれ、淡い光が脈打つように流れていた。
階段を上る人々は皆、静かに祈りを捧げている。夢の粒子が彼らの頭上に集まり、やがて神殿の天蓋へと吸い込まれていく。その光景は荘厳でありながら、どこか温かい。
「ここが《エテルナ・テンプル》。ラシェルの心臓みたいな場所だよ」
ロロアは振り返り、少し誇らしげに言った。
「人々の祈りや願いはここに集まって、亜神が神へ届けるの。結界を張るときもここでやるんだよ!」
神殿の奥からは讃美歌が流れているのではないかと思わせるほどの壮観さ、夢の粒子が共鳴するように揺れている。
まるで現実と夢の境界が、この場所でひとつに溶け合っているようだった。
ロロアは階段の下で立ち止まり、俺に笑みを向けた。
「ね、すごいでしょ? ラシェルの人たちはここで祈りを捧げて、夢を守ってるんだ。だからこの町は平和でいられるの」
陽光に照らされたロロアの笑顔は《エテルナ・テンプル》の輝きに負けないほど眩しく。
俺はただ、その光に目を細めるしかなかった。




