序章
深く、深い、海の底へと沈んでいくような感覚。
古いガラスの破片を覗き込んでいるかのように、端々は白く曇り、その中心部分ですらよく見えない。それは物理的に見えないのか、はたまた意図的に見せないようにしているような、そんな少し触れるだけで崩れてしまいそうなで脆く、そして狭く、暗い世界。
そこに、四つの影があり。
左右に立つ二人は、中心で膝をつく女の腕を掴み押さえつけていた。
女性は、両手を後ろに組み合わされ、自由を奪われている。何も抵抗しようとする素振りはない。
ただゆっくりとこちらを見る、その顔には、落書きのような靄が張り付いており、表情は読み取れない。
その時、もう一つの影がゆっくりと、女に近づき。
剣が振り下ろされた。
世界そのものが割れたかれたかのような、鈍い衝撃。
鮮血が舞ったのではない。それは、どろりとした、熱い毒のような朱色が視界を塗り潰していく感覚だった。生温かく、鉄の錆びた匂いのする液体。
そして、男性の悲鳴が聞こえた。
聞き覚えがある。
昨日も、その前も、隣で笑っていたきがする声。
それは叫びというより、肺に残った最後の空気が、無惨に潰された笛のように漏れ出した絶望の余韻だった。
その悲鳴は、質量を持って胸を押し潰し、内臓の奥底を冷たく冷やしていく。
倒れ伏した肉塊からは、もう声は出ない。
絶望とともに木霊する反響は耳元を通り過ぎ、この脆い世界に罅を作り瓦解させていく。
「っ、はぁ、はぁ……っ!」
弾かれたように跳ね起きると、肌にまとわりつく寝汗の不快感が一気に現実へと引き戻した。
激しく脈打つ心臓の音が、耳の奥でまだあの悲鳴と混ざり合っている。
まただ。
時折、見るこの夢
手の届かない場所で繰り返される光景を思い出し、リュミは震える手で自分の首筋をなぞった。もちろん、そこには血も、匂も残っていない。
視線を上げれば、そこには見慣れた景色があった。
エレン先生の医院の一角。孤児院からここに連れてこられたあの日からずっと使い続けている、慣れ親しんだベッド。
窓から差し込む朝の光が、異様に眩しくい感じた。
「リュミー? 起きなさい、朝だよ」
別の部屋から、エレン先生の呼ぶ声が届いた。
その日常的な響きが、心臓にこびりついていた不吉な反響を霧散させていく。
「はーい……今行く」
まだ少し重い体を引きずりながら、短く返事をした。
冷めた寝汗を拭い、鏡の前で顔を洗う。
鏡に映る自分の顔には、夢の中の女のような靄はかかっていない。当たり前のことに少しだけ安堵して、手早く身支度を整えた。
部屋を出て、廊下を抜け、エレン先生のいる診察室へと足を向ける。
「おはよう、エレン先生」
努めて明るい声で朝の挨拶に答える。
診察室では、すでにエレン先生が今日使う薬の準備を始めていた。
横目でこちらを少し見ると瞳を少し細め、じっくり顔を覗き込んできた。
「おはよう、リュミ。……顔色が少し優れないようだけど、体調は大丈夫かい?」
その問いに、少しだけ驚く。
まだ耳の奥に残っている悲鳴と、頬に跳ねたあの熱い感覚が蘇りそうになる。けれど、それを飲み込み、いつもを装い答える。
「大丈夫だよ。ちょっと寝ぼけてるだけ。……本当に、どこも悪くないから」
平然と答えると、エレン先生はしばらく彼女を見つめていたが、やがてふっと肩の力を抜いた。
「そうかい。それならいいんだけど。無理は禁物だよ」
先生は心底安心したように、柔らかな微笑を浮かべて作業に戻った。その安堵した横顔を見て、リュミは小さな罪悪感を感じつつも、日常の平穏が守られたことに胸をなでおろす。
「復興が進んで、外の通りも活気が出てきた。今日も忙しくなるだろうけど、根を詰めすぎないようにね」
「うん、わかってる。エレン先生こそ、あまり無理しないでね」
外からは、街の人々の話し声や、瓦礫を運ぶ荷車の音が聞こえ始めていた。
あの凄惨な断頭の光景も、絶望の悲鳴も、今はまだ、胸の奥深くに閉じ込められたままだ。
そうして、新しい一日が始まった。




