宿痾
ロロアの話です
冷たい水で顔を洗う。掌に溜めた水に顔を沈める瞬間だけ、耳元で鳴り続けるあの日の叫びが遠のく気がした。
けれど、濡れた顔を上げて鏡を直視した瞬間、逃れようのない現実が突きつけられる。
鏡の中にいるのは、肌艶も良く、どこまでも健康そうで整えられた、美しくも忌々しい女の顔だった。
布で顔を拭う。真っ白な布に顔を埋めながら、私は心の中で何度も自分を罵倒する。
これから私は、この顔に笑顔を貼り付け、街へ出て、誰からも愛されるロロアを演じるのだ。その滑稽で醜悪な儀式を想像するだけで、胃の奥から酸っぱいものが込み上げてくる。
重い腰を上げ、部屋を出る。
石畳を叩く自分の靴音が、ひどく耳障りだった。
軽やかに、どこまでも自由に進めるこの脚。一歩踏み出すたびに、大地から罪の感触が伝わってくるような気がしてならない。地面を蹴るたびに、胸の奥には泥のような澱が、逃げ場を失ってじりじりと溜まっていく。
「ロロア様! 先日はありがとうございました。おかげで助かりました!」
ふいに声をかけられ、脳が思考するよりも先に、私の顔面が「亜神ロロア」の形に整う。神経の隅々まで行き届いた、完璧な慈しみの表情。
「いいよ、気にしないで。困ったことがあったら、いつでも言ってね!」
淀みなく、音楽のように溢れ出た自分の声。その清らかさに、強烈な吐き気がした。
(気持ち悪い)
この平和な街で、人々の困りごとを解決し、慈しみ、期待される役割を完璧に全うする「善き亜神」。
こうして誰かの役に立ち、尊い存在として振る舞い続けることで、あの子の心を完膚なきまでに叩き潰した過去を覆い隠そうとしている。善意を塗り重ねれば塗り重ねるほど、その下にある腐った本性が、ますます醜く、黒く際立っていくのがわかる。
「ロロア様! お花、持っていってください! 似合うと思って!」
幼い少女が差し出した、まだ露の残る色鮮やかな花。
「ありがとう、大切にするね!」
子供の純粋で真っ直ぐな好意に、汚れひとつない、嘘に塗れた笑顔で応える。そんな自分を上空から客観的に見下ろしているもう一人の自分が、冷たく、執拗に嘲笑っている。
(気持ち悪い)
誰も知らない。この聖母のような微笑みの裏側で、私がどれほど冷酷な言葉を妹に投げつけたか。
病床で震えるあの子に呪いを吐き、彼女の心が粉々に壊れていくのを、あろうことか「これでようやく自由になれる」という歪んだ安堵と共に眺めていた、最低な女だということを。
(気持ち悪い。気持ち悪い)
一人になると、貼り付けていた笑みが、ひび割れた仮面のように剥がれ落ちる。
亜神としての仕事を完璧にこなせばこなすほど、私の心は削り取られ、ただの空っぽの器になっていく。仕事に没頭し、他人の幸福に尽くしている間だけは、脳髄にこびりついたあの日の叫びから逃げられる。
そうやって「他人のための善行」という免罪符を必死に集めて、自分の罪を塗りつぶそうとする姑息な自分が、たまらなく惨めで、滑稽で、吐き気がした。
(気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い)
呪詛のようにその言葉を頭の中で繰り返し、私はまた街を歩き出す。手を貸すべき誰かを、守るべき平和を探し続ける。
感謝の言葉を全身に浴びるたび、私は心の中で自分を鋭利な刃で罵倒し、切り刻み、血を流す。
(あたしは、あの子を愛してなんてなかった。ずっと、疎ましく思っていたんだ。邪魔だと思ってた。死ねばいいとさえ、あの日、一瞬でも願ったんだ)
そう自分に言い聞かせ、かつてあったはずの愛を、冷たい憎しみの形に歪めて心の奥底に閉じ込める。
そうしていなければ、あの子を見捨てたまま、この残酷なまでに穏やかな世界で、平然を演じている自分の正体に耐えられなかった。
(本当に、死ぬほど気持ち悪い)
私は今日も、偽りを演じ、腹の底で渦巻く真っ黒な自己嫌悪を飲み込んで、街の安寧を守り続ける。
自分という名の牢獄の中で、いつかこの化けの皮が剥がれる瞬間を、恐怖と、どこか深い渇望を抱きながら待ち続けている。
その日も、いつもの日常を繰り返す
そんな中、るーちゃんたちがきた。この街に来てから、なんでも「現実崩壊症」に関わることらしい。
私は反射的に拒絶した。あの病気は、綺麗事で塗りつぶした私の世界を、最も無残な形で暴き出す。
けれど、るーちゃんのあの真っ直ぐな瞳には勝てない。私はまた、いつものように亜神の仮面を貼り付けて、顔を引きつらせながらも、おどけて見せた。
「分かったよ。渋々、本当に渋々だからね!」
本当は、少しだってかかわりたくなかった
アゼルの自宅へと続く道は、不気味なほど静まり返っていた 。私の隣を歩く小林や、後ろにいるるーちゃん。彼らを危険に晒したくないという思いとは裏腹に、私の脚は恐怖で小刻みに震えている。
招き入れられた室内は、逃れようのない死の気配が立ち込めていた。充満するお香の煙、虚空を見つめる父親、そして、絶望に疲れ果てた母親 。
るーちゃんが冷静に、父親の魔族への接触を指摘する 。反論する父親の言葉など、私の耳には届かない。
小林の促しで、リュミが魔法の粒子を放つ。そこには、魔族の協力の証である歪な紋様がどろりと浮かび上がった 。
「アゼルはもういないのよ!!」
母親の悲鳴が、私の心臓を素手で掴むように響いた。
るーちゃんの指示で、小林が窓を開け、私が魔法で香炉の火を消していく 。新鮮な風が流れ込むのと引き換えに、隠されていた「現実」――鼻を突く腐敗臭が、一気に牙を剥いた 。
小林が床板を剥がした瞬間、そこに横たわっていたのは、土色に痩せこけ、見る影もなくなったアゼルの遺体だった 。
凄まじい光景を前に、私は石像のように固まることしかできなかった 。
その時、追い打ちをかけるように、アゼルの妹の弾んだ声が聞こえた。
「ただいまー! お母さん、お父さん!」
幼い少女が、無残な死骸となった兄の腕に縋り付いて泣き叫ぶ。その光景は、私にとって毒そのものだった 。
そして、悪夢は物理的な形を持って産み落とされた。アゼルの遺体から黒い残滓が溢れ出し、骨が軋む嫌な音を立てて、巨大な穴が開いた異形へと変貌していく 。
怪物の鋭い爪が、泣きじゃくる少女の首筋へ伸びる 。私は動けない。かつての無力感に読み込まれ、ただ絶望を見届けることしかできない 。
それなのに。
「――っ!」
特別な力もない、ただの凡人である小林が、泥を這うようにして怪物に突っ込んでいった 。無様に、けれど無謀なその一歩が、凍りついていた私の時間を無理やり剥ぎ取った 。
家を飛び出し、夕闇の庭へ。背後で家が内側から弾け飛び、壁の穴から異形が姿を現した 。
怪物の背後に立つ両親。父親が
「アゼル……お前なんだろう?」
震える声でその名を呼んだ 。
怪物が苦悶するように頭を抱えるのを見て、私は、甘い、あまりにも愚かな希望を抱いてしまった 。
「待って! ……もしかしたら、アゼルの心がまだ、少しだけでも残ってるのかも。大丈夫、大丈夫かもしれない……!」
憲兵を制止した私の言葉。それが、最後の猶予を奪った。
怪物の腕がしなり、目前の父親と、その後ろにいた母親を同時に薙ぎ払った 。
言葉も、悲鳴すらなかった。大丈夫という願いが、彼らを殺したのだ 。
「あ、あ……」
足元から力が抜けていく。夕日が。血のような赤い光が、私の犯した罪を照らし出している 。
憲兵たちが怪物に立ち向かう中、私は膝をつき、壊れた人形のように同じ言葉を繰り返した。
「また、だ。……また、アタシが……殺したんだ」




