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蓮の檻  作者: echo
1章

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26/33

25話

銀色に輝くナイフの重みが、震えるあたしの右手にのしかかる。

 視線の先では、化け物が低い唸り声を上げながら、獲物の変化を値踏みするようにゆっくりと間合いを詰めてきていた。

 今のあたしは背中を深く裂かれ、立っているのが不思議なほどの重傷。勝てない。勝てるわけがない。そんなことは、自分自身が一番よく分かっている。


「……逃げて。早く」


 背後の子供たちに、掠れた声で告げた。


「でも、お姉ちゃんが……!」


 少年の震える声が背中に届く。

 ――お姉ちゃん。

 その響きが、心臓の奥を優しく、けれど残酷に突き刺した。あの日、ルルアに突き刺した言葉は、これよりもずっと、ひどいものだったのだろう。

 血に汚れた無様な姿を見せたくなかったし、なにより、一度でも振り返れば、決意が瓦解して泣き出してしまいそうだった。


「いいから、行きなさい……! ここは大丈夫。あたしが、絶対に止めるから。……振り返らずに、走りなさい!」


 その言葉を背に受けて、少年は妹の手を引き、再び夜の闇へと駆け出していった。遠ざかっていく小さな足音。あの子たちは、きっと生き延びる。あたしが間違えた道を、あの子たちは正しく進んでいく。

 

(お姉ちゃん、か……。懐かしいな……。)


 自嘲気味に微笑んだ瞬間、化け物が地を蹴った。

 子供たちが逃げた方向とは真逆の路地へ向かって、残った力を振り絞り走り出した。一歩踏み出すたびに背中の傷が裂け、灼熱の激痛が全身を走る。血が地面に滴り、赤い道標を作っていく。


「こっちよ……! こっちに来なさいよ……っ!」


 咆哮する化け物を挑発し、引きつける。あきらめたわけじゃない。でも、一人では勝てないことも知っている。

 誰か、誰か来て――。心の叫びを必死に押し殺し、迷路のような路地裏を、転びながら、泥を這いずりながら進んだ。五体満足ですらない身体。感覚が麻痺し始めた足。背後から迫る化け物のムチのような腕を、紙一重でよけながら、必死にナイフを握り直した。


 気が付くと暗い路地の行き止まりに追い詰められ、目の前には、勝ち誇ったように喉を鳴らす化け物の姿。行き止まりの壁が、冷たく、そして無慈悲に背中を拒んだ。前方では、化け物が獲物を追い詰めたことを確信したように、じりじりと距離を詰めてくる。


(……まだ。まだ、止まるわけにはいかない……!)


 背中の裂傷からは、熱い血が絶え間なく溢れ出している。失血のせいか、視界の端が黒く染まり始めていたが、必死に首を振り、意識を繋ぎ止めた。今できることは、ただ死を待つことではない。一秒でも長くあの子たちから化け物を引き離し、あわよくば、生き延びることだ。


「……やってやるわよ、見てなさい」


 化け物が間合いに入った瞬間、飛びかかってくる。

 ――今。

 地面に這いつくばるようにして、正面から突き出された爪を間一髪で潜り抜けた。石畳の上を転がり、背中の傷が爆発的な激痛を訴える。


「が、ぁっ……!」


 痛みで心臓が止まりそうになるが、止まらなかった。転がりながら、化け物の足首をナイフで切り裂く。だが、立ち上がろうとした足に力が入らず、無様に膝をついてしまう。

 化け物が体勢を立て直すわずかな隙を突き、再び這い出るようにして駆け出した。背中を焼く痛み、足首の脱力感。肺は冷たい空気を拒絶するように喘いでいる。それでも、明かりの漏れる広い通りを目指した。


(あそこまで……広い通りに出れば、誰か……!)


 出口が見えた。闇を抜け、月明かりの下へと飛び出す。しかし、そこもまた安息の地ではなかった。


「はぁ、はぁ……っ、あ……」


 広い通りに躍り出た瞬間、足が限界を迎え、無様に地面へと叩きつけられた。逃げなければ。だが、背後の闇から迫っていた影は、その失速を逃さなかった。


 ――ズ、ン。


 重苦しい衝撃と共に、巨大な圧力が脚を地面に縫い付けた。


「……っ、ぁ、ああああ!!」


 鋭い鉤爪が脚を貫き、肩を掴み、逃走を許さない重石となってのしかかる。冷たい石畳に顔を押し付けられたまま、必死に地面を掻いた。


 未練や後悔、様々な感情が一気に押し寄せてくる。少し前の自分ならそんなこと思いもしなかっただろう。

 やっと、自分が何者として生きるべきか、その欠片を見つけられた気がした。生きてみようと思えたのだ。なのに、その決意が形になる前に、腐臭に満ちた息が首筋を撫で、着実に実感させてくる。死が未来を刈り取ろうとしているのだと。

 

(……せっかく……せっかく、やっと変われそうだったのに。)


 もはや助けを呼ぶことも、足掻くこともできない。


(しっかり……謝りたかったな)


 こんな状態になっても涙すら出ない。代わりのように手に握っていたナイフは粒子に帰り、血とともに流れ落ちていった。


 

 これでお終い――。




そう思ったとき、背後の闇を突き破り、心臓を震わせるような怒鳴り声が響き渡った。


「ロロアァァァァッ!!」


  瓦礫の山を蹴立てて、小林が猛然と突っ込んでくる。その両手には、先端が鋭利に尖った巨大な木片が握られていた。


「離せえええええ!!」


 小林は速度を殺さず、体重のすべてを乗せて化け物の腕に木片を叩き込んだ。

 ――グシャッ!!

 尖った木片が化け物の肥大化した腕を貫通する。


「ギ、ガァァァァァァッ!!?」


 激痛に化け物が悲鳴を上げ、拘束していた腕が跳ね上がる。自由になったあたしの元へ、聞きなれた声が近づき、すぐさま膝をついた。


「おい、しっかりしろ! ロロア!」


 血にまみれたあたしを、壊れ物を扱うように優しく、そして必死に抱きかかえてくれた。


「……こ、ばや……し……?」


 焦点の合わない瞳で、ぼんやりと小林を見つめる。化け物は腕に刺さった木片を引き抜き、苦痛を怒りに変えて振り向いた。


「ガァァァッ!!」


 剛腕が横薙ぎに振り払われる。このままでは小林に直撃してしまう。


「しまっ――」


 咄嗟に、小林は腕の中のあたしを庇うように背を丸めた。次の瞬間、凄まじい衝撃が小林の脇腹を襲う。


「ぐ、あぁぁぁぁっ!!」


 二人の体は石畳の上を激しく転がり、崩れかけた露店の壁に叩きつけられてようやく止まった。


「……っ、がは……っ、げほっ……!」


 小林は鮮血を吐き出し、全身の骨が悲鳴を上げる中、それでも腕の中のあたしのことだけは決して離さなかった。

 そのおかげで、あたしへの衝撃は最小限に抑えられた。あたしがまだ生きているのは、そういうことなのだろう。


「はぁ、はぁ……ロロア、無事か……?」


 その声は、ひどく遠くから聞こえる気がした。

 視界は明滅を繰り返し、石畳を叩く雨のような音――化け物の巨大な足音が、心臓を直接握り潰すように響く。


 あたしを抱える腕もまた、あたしと同じように限界を超えてガクガクと震えていた。それなのに、彼は軋む体に鞭を打って立ち上がる。あたしを抱えたまま、この絶望から逃れるために。


「ロロア、しっかりしろ! 目を開けろ!」


 怒鳴るような声。揺れる視界。

 一歩、彼が足を踏み出すたびに、小林の胸板から荒い鼓動が伝わってくる。脇腹を抑える彼の手が、時折苦痛に強張るのが分かった。あたしを庇って払い飛ばされた時の衝撃で、ボロボロのはずなのに。


 背後から迫る地響きは止まらない。

 小林の呼吸は、次第に酸素を求めて喉がヒューヒューと悲鳴を上げるような、苦しげなものに変わっていく。肺が焼けるように熱いだろう。抱えられているあたしの体温が、血の生温かさが、彼の服を汚していく。それでも、彼はあたしを一度も離そうとしなかった。


「……ねえ……こばやし……」


 掠れた、自分でも驚くほど小さな声が漏れた。意識が遠のく中、ただ、この男に伝えたかった。


「しっかりしろ! 今は生きることだけ考えろ!」


 突き放すような言い草。でも、その声は必死だった。

 あたしは震える指先で、彼の泥と血に汚れたシャツを弱々しく掴んだ。


「……ごめん……なさい……。あたしの……せいで……」


 あたしの弱さが。あたしの逃げた心が。

 あの日、ルルアを死に追いやったの醜さが、今、この目の前の男をも死へと引きずり込もうとしている。

 かつてのあたしなら、「どうせあたしなんて」と運命を呪って終わっていただろう。でも今は、この背中の温もりが、消えゆく意識を現実に繋ぎ止める。

 この不器用で真っ直ぐな男を、あたしのせいで終わらせたくない。

 血の気の引いた唇からこぼれた謝罪は、彼の胸元に染み込んでいった。


「……謝罪なら、後だ! 全部終わってから、嫌というほど聞いてやる」


 小林は奥歯を噛み締め、さらに強くあたしを抱き直した。

 路地を曲がり、角を抜け、光を求めて。

 けれど、前に現れたのは、無情な絶壁だった。


 ――行き止まり。


 逃げ込んだ先は、崩落した建物が積み上がった瓦礫の山が未来を塞いでいた。

 冷たい月明かりの下、ゆっくりとこちらへ歩み寄る巨大な影。化け物は路地の入口をその巨体で完全に塞ぎ、逃げ場のないあたしたちを見て、醜悪な顔を歪めて喉を不快に鳴らした。


(終わる……。ここで、終わっちゃうんだ……)


 謝罪さえ、ルルアへの償いさえ、何一つ届かないまま。

 

 小林は、もう一歩も歩けないはずの足で、ゆっくりとあたしを瓦礫の隙間に預けた。冷たい石の感触が背中の傷に響くけれど、それ以上に、彼の手が離れていくことが怖かった。

 小林は震える膝を叩き、あたしを隠すようにして化け物の前に立ちはだかった。

 武器なんてない。拳を強く握りしめているけれど、その体はもう、一撃を受ければ砕けてしまうだろう。


「謝罪を聞くのは、もう少し先になりそうだ」


 振り返らずに放たれたその言葉。

 あたしの視界に映る彼の背中は、傷だらけで、泥にまみれていて、けれど世界中の誰よりも大きく、そして悲しいほどに優しかった。

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