24話
屋敷の重い扉をそっと閉めた瞬間、世界の色が変わった。
結界に守られた静寂は消え、代わりに夜の冷気と共に流れ込んできたのは、耐えがたいほどの死の臭気だった。鼻腔を突き、脳の奥を直接かき回すような、鉄錆に似た血の匂い。そして、何かが焼けたような、あるいは腐り落ちたような、名状しがたい腐肉の臭い。
一歩、街へ踏み出すごとに、その凄惨さが嫌というほど身に沁みていく。つい数時間前、あたしが絶望の淵に沈んでいた時でさえ、この通りにはまだ人々の営みの残り香があったはずだ。しかし今、目の前に広がるのは、異形の呻きと、現実が剥がれ落ちたような絶望に支配された死の街だった。
「……ひどいね、これ」
独り言が白く濁り、闇の中に消えていく。
視界に入るのは、車輪がへし折れた馬車や、無残に引きちぎられた商店の旗。石畳の至る所には、月明かりを反射して鈍く光る赤黒い染みが、まるで巨大な痣のようにこびりついている。
目を背けようとしても、最悪な思考が泥のように頭をもたげてくる。
もし、あの時、憲兵を止めていなければ。
もし。あの時、醜い欲望を抱かなければ。
今、この闇の向こうで震えている誰かは、絶望せずに済んだのではないか。
冷たい地面に横たわっている誰かは、まだ温かな食事を囲んでいたのではないか。
考えれば考えるほど、毒のような後悔が全身を巡る。あたしという存在そのものが、この街に蔓延する致死性の病そのものであるような、そんな悍ましい錯覚に陥る。あたしが生きていること自体が、誰かの死を積み上げた結果なのだと。
「生きろって言われてもな」
胸の奥で、小林の怒鳴り声が何度もリフレインする。
あんなにも真っ直ぐに、罪に汚れきったあたしを真っ向から見据えて、傲慢に生きろなんて言い放った馬鹿は、あいつが初めてだった。
だから、こうして外に出てきたのだ。
るーちゃんが、戦う力もないのに、人を助けて回っているなら、あたしだって何かしなきゃいけない。……そう、あたしに言い聞かせて、この安全な場所を捨てたはずだった。
だが、現実は甘くない。
目の前の暗がりで、ゆらりと異形の影が揺れた。
かつては慈悲深い街の住人だったはずのモノ。それが今は、人の理を失い、喉を不快に鳴らしながらこちらを凝視している。
足が激しく震えた。けれど、それは純粋な恐怖からではなかった。
(ああ……ここで、あいつに噛み殺されたら。この鋭い牙で喉を切り裂かれて、全部終わりにできたら)
ふっと思い起こされるのは、あの庭で感じた、甘美なまでの死への誘惑。
抗うのをやめ、この呪われた命を差し出してしまえば、これまでの罪も、これから背負うはずの罰も、すべてから解放されてどれほど楽になれるだろうか。
――だが。
化け物がその不浄な足を一歩踏み出した瞬間、体は思考を置き去りにして跳ねた。
息を止め、音を殺し、素早く近くの荷車の影に身を隠す。荒くなる呼吸を必死に押し殺し、肋骨を突き破らんばかりに暴れる心臓を、自らの手で強く押さえつけた。
死を望んでいるはずなのに。消えてしまいたいと願っているはずなのに。指先は、冷たく湿った石壁を、生き延びるために白くなるほど強く掴んでいる。
「……っ」
小林の声が、刺さった棘のように抜けない。
生きろというあの呪いが、彼女の脳髄にまで浸透し、反射的に死を拒絶させてしまう。
楽になりたいという精神的な希求とは裏腹に、泥臭く、無様に、生存本能がここで終わることを許さないのだ。
化け物が興味を失い、ずるずると去っていくのを待ち、再び這い出した。
何をするべきかなんて、いくら考えても答えは出ない。
震える手で、あたしの細い喉元に触れた。脈打つ鼓動が、生きていることを証明するたびに嫌悪感が募る。
生きていたいあたしと、消えてしまいたいあたしが、泥の中でぐちゃぐちゃに混ざり合い、一歩進むごとに心を削っていく。
「……あたし、何やってんだろ」
自嘲気味に呟きながら、彼女は暗い路地の奥、さらに深い地獄の中へと足を進めた。
どれくらい歩いただろうか。
化け物の目を盗み、壁に背を擦り付けながら進むうちに、辺りの空気はさらに重く、肌にまとわりつくような不快な粘り気を帯びていった。
角を曲がった、その時だった。
石畳の上に無造作に投げ出されたそれを、無慈悲な月明かりが照らし出した。
「……っ、あ、あぁ……」
声にならない悲鳴が、凍りついた喉の奥でつかえる。
それは、もはや人間という形を保っていない「何か」だった。
むごい、という言葉がこれほどまでに無力に感じたことはない。
身体は物理法則を無視した方向に折れ曲がり、内側から爆ぜたように損傷している。石畳の隙間を埋めるように広がった、どす黒い血の海。そこからはまだ、生温かい死の湯気が立ち上っていた。
激しい吐き気に襲われ、咄嗟に口を塞いだ。
込み上げてくる胃液を飲み下し、視線を逸らそうとするが、視界の端に映る、千切れた指先や、虚空を仰いだまま濁りきった瞳が、網膜に強烈に焼き付く。
凝視することなど、到底できなかった。
あたしだって、さっきまで死を望んでいたはずなのに。全部を投げ出したいと願っていたはずなのに。
目の前にある現実は、夢想していたような清廉な救いなどではなかった。それはただただ無惨で、救いようがなく、尊厳さえも奪い尽くされた、ただの肉の終焉でしかなかった。
(あたし、あんな風になりたいの……? これが、あたしが求めた最後だって言うの……?)
さっきまであたしを誘っていた死の甘い香りが、一瞬で凍りつくような恐怖へと変貌する。
遺体の主が感じたであろう絶望、叫びたかったであろう助け、そして散っていった無念の残滓が、路地裏の冷気に混じって肌を切り裂くように刺す。
震える足で、一歩、また一歩と後ずさる。
その時、死体の影から、ずるりと。
血に濡れた「何か」が、湿った音を立てて這い出してくる気配がした。
――ずるり。じり、じり。
血の溜まりから響いたその音に、思考は真っ白に破裂した。
それが何であるかを確認する余裕も、立ち向かう勇気も、今の彼女には残されていない。
「……っ、いやぁぁぁっ!」
喉の奥で押し殺したはずの悲鳴が、恐怖と共に漏れ出した。
あたしは脱兎のごとく、その場から逃げ出した。
無我夢中で路地を駆け抜け、背後を振り返ることもできず、ただ死そのものから遠ざかろうと足を動かす。
ルルアが命を賭して、呪いと共に与えてくれたこの足は、今やかつての妹の願いなど忘れたかのように、無様に、醜く、ただあたしという卑小な存在を生き永らえさせるためだけに地面を激しく蹴っていた。
「はぁ、はぁ……っ、う、あぁ……っ!」
安全な場所、あるいは死が届かない場所まで逃げ延び、壁に手をついて荒い呼吸を吐き出しながら、
激しい自己嫌悪の波に飲み込まれた。
(やっぱり、あたしは……どこまで行っても、最低なクズだ……!)
誰かの身代わりになる、なんてカッコいい台詞を脳内で並べて。
あたしを犠牲にすれば、少しは罪が軽くなるんじゃないか、なんて都合のいい救済を夢想して。
なのに、いざ本物の、逃げ場のない死を突きつけられれば、誰かを助けるどころか、遺体を弔う一瞬の猶予さえ持てず、あたし一人だけを必死に守ろうと逃げ出した。
死にたいと口にしながら、誰よりも死を恐れている。
償いたいと願いながら、あたしが傷つくことから全力で逃げている。
小林の言葉を、あたしなりの「身代わりの死」として定義したつもりだった。けれど、今のあたしがやっていることは、薄汚い命を抱えて逃げ回っているだけだ。
「弱いなぁ……あたし……。」
暗い影にうずくまり、拳を強く噛んだ。
物理的な痛みで意識を繋ぎ止めようとしても、溢れ出す涙は止まらず、情けなさに震える足は重く石畳に根を張ったように動かない。
あたしが蒔いた種で、この街が壊れていく。
それなのに、その連鎖を断ち切る力もなければ、その果実として訪れる死を受け入れる覚悟さえない。
ただ、暗闇の中で震えることしかできない亜神という名のガラクタ。
存在理由そのものが、冷たい夜の闇に溶けて消えていくような感覚に陥っていた。
どれくらい、その暗い角にうずくまっていただろうか。
荒い呼吸が少しずつ冷えていく中、ふと、表の大通りの喧騒とは違う、小さな、けれど切実な足音が耳に届いた。
脇道の陰から、慎重に広い通りを伺う。
そこで目にしたのは、夜の闇を必死に切り裂きながら走る、二人の子供の姿だった。
十歳にも満たないであろう少年が、さらに小さな少女の手を、壊れ物を扱うような、けれど決して離さないという強い意志を込めて握りしめている。
兄と思われる少年は、肩を震わせながらも、周囲への警戒を片時も怠らない。妹が転びそうになれば、すぐさまその小さな体を支え、また前へと進み出す。
(ああ……そうか。兄弟って、本当は、あああるべきなんだよね)
その光景は、どんな化け物よりも残酷な正解を突きつけていた。
強い方が弱い方を守り、支え、共に明日を目指す。そんな当たり前の、あまりにも眩しい光景。
(あたしは……どこで間違えたんだろう。)
あの日、ルルアがあたしに向けた愛を、あたしは劣等感という毒で汚した。
最後にはあの子の命を、あたしの自由のための踏み台にしたのだ。
(……そんなの分かりきってる。)
目の前を通り過ぎていく兄弟の背中が、今のあたしとはあまりにもかけ離れていて、吐き気がする。
もし、あの日あんなことを言わなければ、今頃あたしは、あの子と一緒に、笑いながらこの街を歩いていたのかな。
「……っ、ハハ……本当に、救えないよ」
乾いた笑いがこぼれる。
その時だった。少年の足が、不自然に止まった。
彼らが見つめる先の暗闇から、そして歪な影がゆっくりと這い出してきたのだ。
変わり果てた姿。その化け物の目は、震えながら立ちすくむ小さな二人組を、逃しようのない獲物として捉えていた。
逃げろ。心の中で叫ぶ。
けれど、少年の震える足はもう限界だった。彼は妹を背中に隠し、震える手で、石ころ一つ握りしめて化け物を睨みつけた。
死ぬ。あのままじゃ、あの二人は死ぬ。
それは、震える二人組に狙いを定め、獲物をなぶり殺すための間合いを詰める。少年は必死に妹を背負い、小さな身体で盾になろうとしていた。
動けと命じる余裕すらなく、思考が介在するよりも早く、身体は石畳を蹴っていた。
死を恐れて逃げ出したはずの足が、今はその死の真っ只中へと、彼女を突き動かす。
「逃げて――っ!!」
叫び声と同時だった。
化け物が、二人をなぎ払おうとムチのようにしなる腕を振り下ろす。
少年の背中に覆い被さるようにして、その一撃を背中で受け止めた。
「が、あ…………っ!?」
鋭い衝撃。
背中の皮膚が、肉が、容赦なく引き裂かれる感覚。
焼けるような熱さが一瞬で全身を駆け抜け、衝撃で肺の空気がすべて叩き出された。視界が火花を散らしたように白く染まり、石畳の冷たさが顔に触れる。
「あ……が、は…………」
背中から伝わる、どろりとした熱い感触。それがあたしの血であることを、脳が理解するのに数秒かかった。
痛みなんてものじゃない。背中を真っ赤に熱した鉄で撫で回されたような、そんな凄まじい激痛に意識が遠のきかける。
けれど、あたしの腕の中には、まだ小さな、温かい体温が残っていた。
守れたのか、それとも、ただあたしも一緒に壊されるだけなのか。
背中を焼くような激痛に、視界がチカチカと白く明滅する。
石畳に伏した指先が、あたしのものとは思えないほど冷たくなっていくのが分かった。意識の糸が、ぷつりと切れそうになる。
(ああ……楽になれる……。やっと、終わるんだ……)
そんな甘い誘惑が脳をよぎった瞬間、腕の中で「ヒッ、……う、ぅ……」と喉を鳴らして震える、小さな肩の感触が、強烈な拒絶となってあたしを現実へ引き戻した。
恐怖に顔を歪ませ、涙を流しながら、あたしの服をぎゅっと掴む少年と妹。
(ダメだ。ここで、あたしが倒れたら……この子たちも死ぬ)
あたしだけなら、それでいい。
この呪われた命が消えるだけなら、それはあたしがずっと望んでいた結末だ。
でも、この子たちまで巻き込んだら。あたしの「弱さ」のせいで、また誰かの命を使い潰すことになったら。
(そんなの……また、あの日と同じじゃないか……っ!)
脳裏に、小林の怒鳴り声が蘇る。
『償うために、今生きろ!』
死を望むことすら、あたしの「逃げ」に過ぎなかったのだ。
その時だった。
混濁する意識の奥底、遠い過去の記憶から、鈴の音のように澄んだ声が響いた。
『――お姉ちゃん!』
あの日、あたしを信じて疑わなかったルルアの笑顔。
裏切り、壊し、奪ってしまった、あの純粋な呼び声。
その言葉が、凍りついた心臓を激しく叩き、血管の隅々にまで熱い憤りを送り込む。
「……ぁ……あ、ぁぁぁあ!!」
肺に溜まった血混じりの空気を吐き出し、顔を上げた。
どうせ死ぬんだ。なら、最後くらい亜神らしいところを見せてやる。あたしを許すためじゃない、ただ、この子たちの明日を繋ぐために。
かつてその手に触れたことのある、あの冷たい鉄の感触を思い浮かべた。
――夢を、形に。
彼女が強く念じた瞬間、虚空から銀色の粒子が集まり、震える右手に一振りのただのナイフが握らされた。
ガクガクと震える膝に力を込め、ボロボロの身体を引きずりながら立ち上がる。背中の傷口から血が溢れ、足元に赤い水たまりを作ったが、彼女はもう、化け物から目を逸らさなかった。
「……来んな。……この子たちには、指一本触れさせない」
化け物と子供たちの間に、壁のように立ちはだかる。
切っ先は小刻みに震えているが、その瞳に宿る光は、先ほどまでの絶望に濁ったものではなかった。
背後にいる兄妹を庇うようにナイフを構えるその姿は、あまりにも無様で、けれど、この街の誰よりも気高い守護者のものだった。




