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蓮の檻  作者: echo
1章

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24/33

23話

語り終えたロロアは、ふっと短く息を吐いた。それは溜息というより、自分の中の汚泥を吐き出すような、乾いた音だった。


「……ね、最低でしょ。あんなに優しい妹を、たった一言で壊したんだ。それも、あの子が死ぬほどあたしのことを想ってくれてたのにさ」


 ロロアは窓枠に背を預け、ずるずるとその場に座り込んだ。

 自らの脚を、まるで得体の知れないゴミでも見るような冷めた目で見つめている。


「皮肉だよね。あたしがルルアを殺して、ルルアがあたしを歩けるようにした。あの子の愛に、あたしは最低な感情で返したんだ」


 彼女は膝を抱え込み、小さく肩を揺らした。


「中身はあの日から一歩も進めてない、腐ったままなのに、そんな奴がさ、どの面下げて亜神なんてやってるんだろうね。」


 ロロアは顔を上げ、俺を見て力なく笑った。その瞳には、もはや自分への期待なんて欠片も残っていなかった。


「小林がさっき怒ったのは正しいよ。本当に、吐き気がするくらい自分のことが嫌いだよ」


 彼女は投げ出すように、床に視線を落とした。

 夜の静寂が、彼女の吐き出した自己嫌悪を重く部屋に沈めていく。

 自分を下げ、蔑み、もはや立ち上がる気力さえ見せないロロア。

 そんな彼女を前にして、俺は立ち尽くしていた。


夜の静寂が、彼女の吐き出した自己嫌悪を重く部屋に沈めていく。

 自分を下げ、蔑み、もはや立ち上がる気力さえ見せないロロア。

 そんな彼女を前にして、俺は立ち尽くしていた。


 何かを言わなければならない。

 けれど、喉元まで出かかった言葉は、熱を失って消えていった。


 俺には、分からない。

 家族を、それも自分を想ってくれていた妹を、たった一言で絶望の淵へ追いやり、その死と引き換えに自由を手に入れる――そんな地獄のような経験を、俺はしていない。


 あの凄惨な庭で、俺は彼女に「生きろ」と叫んだ。

 それは、死にゆく者の尊厳さえ認めない、残酷なエゴだったのかもしれない。体験していない俺が何を言っても、それはただの無責任な綺麗事にしかならないのではないか。


 そんな俺の迷いを、彼女は見透かしていた。

 ロロアは膝を抱えたまま、自嘲気味に笑って言葉を繋いだ。


「……ねえ。さっき、小林はあたしに言ったよね。『泥を啜りながらでもいい。そのために、今、生きろ』って」


 ロロアはゆっくりと顔を上げ、俺をじっと見つめた。その瞳は、まだ濁ったままだ。


「あたしはあそこで、死んで、全部終わりにさせたかったんだと思う。それが、あたしが自分に与えられる唯一の救いだと思ってた」


 彼女は自分の脚を強く掴む。あの日、妹の命と引き換えに動き出した、呪わしい脚を。


「なのに……あんたはそれを許さなかった。」


 ロロアはふっと視線を窓の外へ戻した。


「でもね。……あんな風に、あたしの罪を真正面から突きつけて、それでもなお『生きろ』なんて言ってくれた奴……今まで一人もいなかった」


 彼女の声から、わずかに震えが消える。


「るーちゃんは優しいから、このことを知ってもあたしを慰めようとすると思う。両親は、あたしを責めることもできずに離れていった。……でも、小林だけは、あたしの最低な部分をそのままにして、死なせてくれなかった」


 ロロアは床からゆっくりと立ち上がった。まだ足取りは重いが、先ほどのように崩れ落ちる気配はない。

 彼女は俺の目の前で立ち止まり、その空虚な瞳の奥に、小さな、消え入りそうな光を灯した。


「……これから何をすればいいのか、あたしにはまだ全然分かんないよ。でも、自分なりに何かしてみるよ」


 彼女は一歩、踏み出した。

 その脚はまだ、罪の重さに震えている。

 けれど、彼女は窓から視線を外し、部屋の出口……暗い廊下の先を、自分の意志で見据えていた。


 その背中を見つめながら、俺は肺の奥に溜まっていた熱い空気を、ゆっくりと吐き出した。

 俺が彼女にかけた言葉は、やっぱり正解なんかじゃなかった。彼女自身が言った通り、救いですらない、呪いのような罰だ。

 

 けれど、その「罰」を杖にして、彼女は止まっていた時間から動き出そうとしている。

 

 ロロアは扉に手をかけ、ゆっくりと部屋を出ていこうとする。だが、敷居を跨ぐ直前で、彼女はふと足を止め、振り返らずに尋ねた。


「そういえばさ。るーちゃんは、どこ行ったの?」


 その声は、先ほどまでの絶望の底にいた時とは違い、どこか現実に意識が戻ってきたような響きだった。


「ルフィリアなら、街の人たちを避難させるために声をかけに回ってくるって言って、外に出ていったよ。……自分は亜神だからって言って。守ってくれる心当たりもあるから大丈夫だって」


 俺が答えると、ロロアはほんの少しだけ肩の力を抜いたように見えた。


「やっぱ、るーちゃんだね」


 それだけ言い残すと、ロロアは今度こそ、夜の静寂が満ちた廊下へと消えていった。


 再び一人になった部屋。

 開け放たれた窓から、冷気が容赦なく流れ込んでくる。

 街の火はまだ消えず、闇の向こうからは時折、現実を切り裂くような異形の叫びが届く。


 ロロアは動き出した。ルフィリアは外で戦っている。リュミたちは二階で身を寄せ合っている。

 

 俺はどうする。

 答えなんて持っていない。力だってない。

 だけど、この重苦しい夜を、ただ見ているだけで終わらせるわけにはいかなかった。


「……まずは、顔を洗うか」


 鏡に映る自分の情けない顔と、こびりついた泥。

 それを落としたら、俺もこの屋敷の中で、今の自分にできることを探さなきゃならない。



冷たい水で顔を洗うと、肌にこびりついていた泥と一緒に、少しだけ頭の熱が引いていくのが分かった。鏡の中の自分は、相変わらずひどい顔をしていた


 タオルで顔を拭い、俺は廊下に出た。

 リュミたちのいる部屋へ戻る前に、今の状況をもう少し詳しく把握しておきたかった。

 階段を降りようとしたところで、慌ただしく階下から上がってきたメイドと鉢合わせた。彼女の顔も、恐怖と疲労で限界に近いように見える。


「あ……小林様」


「あ、すいません。……ちょっといいですか? 今、外ってどうなってるんですか。他の憲兵たちは……」


 俺の問いに、メイドは力なく首を振った。その手は、持っている盆がカタカタと鳴るほど震えている。


「……ひどい有様です。先ほど避難してきた方の話では、街の南側は完全に沈黙したと。憲兵の方々も防戦一方ですが、ルフィリア様は住民の避難誘導に当たっておられますが、あの方は戦えるわけではありませんから……」


「……状況は最悪、ってことか」


 俺は奥歯を噛み締めてから、気になっていたことを聞いた。


「あの、こういう時って、遠くにいる騎士団の人たちに連絡を取る手段とかって、何かあるんですか?」


「はい。魔王国で開発された伝心鳥という仕掛け手紙を飛ばしましたと聞いています。魔力を使わずに宛先まで届くもので、一方通行ではありますが、今の状況は伝わっているはずです」


「そんなものが。じゃあ、誰かすぐに戻ってこれそうですか?」


「それが……皆様遠征の真っ最中でして。街に帰り着くには、早くても数日はかかるそうです」


「数日……」


 そんなにかかるのか。それじゃあ、この街が持たない。

 絶望的な数字に言葉を失いかけた俺だったが、メイドが思い出したように顔を上げた。


「ただ……お一人だけ、もうすぐ戻られるはずの方がいらっしゃいます。伝心鳥を受け取って、すぐに向かうと騎士団様側で持っていた伝心鳥が送られてきています。」


「え、一人だけ? その人はどれくらいで帰ってこれるんですか?」


「おそらく、あと数時間もあれば……」


「数時間!?」


 他の面々が数日かかる距離を、たった数時間。

 思わず身を乗り出した。その「一人」が戻ってくれば、この絶望的な戦況を変えられるのかもしれない。


「そんな、とんでもなく強い人がいるんですか?」


「ええ、確かにすごい方ではあるのですが……それ以上に、その方が乗っていらっしゃる馬が特別なのです。魔王国に生息する生物らしく、風のように速いと伺っております」


数時間。その短い間に、この屋敷と街が耐えきれるかどうか。

 不安そうなメイドの顔を見て、俺は自分のことばかり聞いていたことに気づいて、少し申し訳なくなった。


「わざわざありがとうございます。急に引き止めちゃってすいませんでした」


「いえ、そんな……」


「これ、避難してきた人たちにですよね? 俺が運びますよ。少しでも休めそうな時に休んでくださいね」


 俺が手を差し出すと、メイドは少し驚いたように目を丸くしたが、やがて安心したように小さく微笑んだ。


「お気遣い、ありがとうございます。では……お言葉に甘えてもよろしいでしょうか」


「ええ、任せてください」


 彼女から盆を受け取ると、そこには温かいスープが人数分乗っていた。

 受け取った盆の重みは、そのままこの屋敷で預かっている命の重さのように感じられた。

 一階の広間には、着の身着のままで逃げてきた街の人たちが肩を寄せ合っていた。

 豪華な絨毯の上には、煤と泥に汚れた人々が座り込み、どんよりとした絶望が霧のように立ち込めている。


「……あ、あの。すいません、少しだけお話いいですか?」


 俺は、比較的近くで壁に背を預けていた初老の男性に声をかけた。彼は虚ろな目で宙を見つめていたが、俺の姿に気づくと、重い口をゆっくりと開いた。


「外は……外はもう、終わりだよ」


 俺が身を低くして尋ねると、隣にいた若い女性が、震える声で会話に加わってきた。


「見たんです……。広場へ逃げようとしたとき、背後から襲われた隣の家の旦那様が……。あの化け物の粘液を浴びた途端、悲鳴を上げる暇もなく、顔から……。あんなの、もう人間じゃない。」


 老人が吐き捨てるように言った。


「戦おうとした勇気ある若者から先に、あの化け物の一員にされていく……。あんな地獄、見たことがねえ」

 老人の手は、膝の上で激しく震えていた。

 恐怖の連鎖。戦えば戦うほど、敵の数が増えていく。かつての隣人が、数分後には自分を食い破る異形へと作り替えられる。その心理的圧迫は、どれほどのものだろう。


「……騎士団がいれば、あんな奴ら一掃できたはずなのに。なんで今夜なんだ……」


 誰かのすすり泣く声が、広間に響く。

 俺は何も言えず、ただ持っていた盆を強く握りしめることしかできなかった。

 数時間。「あの人」が来るまで、この人たちの心は保つのだろうか。


「……ありがとうございます。話してくれて」


 俺は短く頭を下げ、逃げるようにその場を後にした。

 背後から聞こえてくるのは、祈りの言葉と、子供の泣き声。


 ルフィリアさんが守ろうとしているのは、この絶望そのものなんだ。

 そして、ロロアが「自分なりに何かしてみる」と言ったその意味も、少しだけ重さを増した気がした。


 リュミたちの部屋の前に着く。

「……よし」

自分に気合を入れるように小さく呟いてから、俺は一呼吸置いて、リュミたちの眠る部屋の扉を静かに開けた。


「……よかった、まだ寝てる」


安堵して、スープの乗った盆を机に置こうとした時だった。

月明かりに照らされた机の上に、見覚えのない一枚の紙切れが置かれているのが目に留まった。


月明かりに照らされたその紙切れには、震える筆跡でこう記されていた。


『街に行ってくる。

 リュミたちのこと、よろしくね。

 ロロア』


それだけだった。

 言い訳も、詳しい理由も、何一つ書かれていない。


 けれど、さっきまでこの部屋で、過去の罪に震えていた彼女の姿を思い返せば、この短い言葉に込められた意味は明白だった。


「……バカか、あいつは」


 これは助けに行くなんて前向きなものじゃない。

 自分なんてどうなってもいいという自暴自棄な感情を、責任感という言葉ですり替えて、死に場所を探しに行っただけだ。

 自分の命を、ゴミ箱にでも放り込むような……そんな投げやりな決意が、行間から溢れ出しているように見えた。

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