22話
「あたしは、この病気が嫌い」
始まりは、幼い頃のあの日。
律はソルヴァーン法、むせ返るような陽光の中。買い物帰りの道端で、古びた店の大きな看板が、不吉な軋みを上げて乳母車の中にいた妹……ルルアの頭上へ倒れ込んできた。
「危ない、ルルア……っ!」
身体が勝手に動いた。まだ生後八ヶ月で、何も分からず笑っていたルルアを乳母車ごと突き飛ばし、代わりにあたしの背中を、鉄と木材の塊が容赦なく叩き潰した。ゴキリ、という嫌な音がして、視界が真っ白に染まる。
目を覚ました病院のベッドで、あたしは自分の足が「無機質な棒」になったことを知った。
両親は泣きながら、あたしに縋った。そして、こう決めたんだ。あたしがルルアを助けたせいで歩けなくなったことは、あの子には一生隠し通そう、と。
「お姉ちゃん、遊ぼう!」
成長したルルアが、車椅子のあたしの膝に無邪気に飛び込んでくる。
「いいよ、ルルア。何して遊ぼうか」
最初は、あの子を守れた自分を誇らしく思っていた。乳母車で眠っていた、あんなに小さかったあの子の命を、この背中で守り抜いたんだ。その痛みさえ、姉としての愛の証明だと思えた。
けれど、何年も経ち、友人たちと楽しそうに庭を駆け回るルルアの姿を、あたしはいつも影の中から眺めることしかできなかった。
少しずつ、誇りは黒い澱に変わっていった。
あたしがあの日、看板の下へ飛び込まなければ、今あそこで走っていたのは、あたしだったはずなのに。
そして、あの最悪の夜が来た。
夕食の片付けをしていたルルアが、些細なことであたしに口答えをしたんだ。本当に、どこにでもあるような姉妹の口喧嘩だった。けれど、あたしの内で煮えくり返っていた毒が、限界を超えて溢れ出した。
「お前さえいなければ……っ!」
あたしは車椅子の肘掛けを叩き、叫んだ。
「お前さえいなければ、あたしは一人で歩けた! 好きなこともできた! ずっと、ずっと……お前のせいで、あたしの人生はめちゃくちゃなんだよ!」
ルルアの顔から、一瞬で血の気が引いた。大きく見開かれた瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
「……ごめんなさい。ごめんなさい、お姉ちゃん……っ」
妹は絞り出すような悲鳴を上げて、そのまま寝室へと逃げ込んでいった。
あたしを激しく叱る両親にさえ、あたしは逆上した。
「あんたたちが、あの時守ればよかっただろ! なんであたしが犠牲にならなきゃいけなかったんだよ!」
返せる言葉を失った両親を背に、あたしは一人、自室で荒い息をついていた。
ひどいことを言った自覚はあった。でも、心のどこかで「これくらい言われて当然だ」とも思っていたんだ。
明日、あの子が泣き止んだら謝ればいい。そう思って、あたしは眠りについた。
けれど、朝は二度と来なかった。
翌朝、ルルアは目を覚まさなかった。現実に耐えきれなくなった心が、自分自身の世界を破壊する――現実崩壊症。
ベッドに横たわるルルアは、ただの抜け殻だった。あたしが昨夜放った言葉が、あの子を深い深い奈落へ突き落としたんだ。
それを見たあたしが、真っ先に思いついた言葉。
脳裏に閃いたのは、吐き気がするほど醜い、勝利の味だった。
(……ざまぁみろ)
――その瞬間だった。
どこからか、地鳴りのような声が頭の中に直接響き渡った。
『ロロア・ロイ・ローレッタを名乗れ』
神の託宣。あたしはその瞬間に「亜神」となった。
死んでいたはずのあたしの足に、嘘のように力が戻った。車椅子を蹴り飛ばし、自分の足で床を踏み締める。一人で歩ける。走れる。
あたしがずっと欲しかった自由は、妹の「死」と引き換えに与えられたんだ。
それから、あたしは逃げるように家族と疎遠になり、亜神として屋敷で暮らした。
何年も何年も、偽りの明るさを振りまいて、過去を忘れたふりをして。
そんなある日、一通の手紙が届いた。
『ルルアが亡くなりました。葬儀を執り行うから、できれば来てほしい』
葬儀の日、母さんから渡されたのは、妹が書いた一冊の本だった。
タイトルは――『お姉ちゃんが歩けるようになったら』。
震える手でページをめくると、そこには、乳母車に乗っていた赤ん坊だった頃の真実が綴られていた。あの子は、どこかで聞いていたのか、それとも感じていたのか。自分が助けられたことを。お姉ちゃんの自由を奪ったのが自分だということを、あの子は知っていたんだ。
『私がお姉ちゃんを助ける。お姉ちゃんを、絶対に歩けるようにする』
『歩けるようになったら、一緒にお散歩に行きたい。お買い物に行きたい』
あの子は、あたしを恨むどころか、自分の命を削ってでも、あたしを救おうと神様に祈り続けていたんだ。
あたしは、あの子を殺した。誰よりもあたしの幸せを願っていた妹を、奈落へ蹴落としたんだ。
猛烈な後悔が込み上げてきた。胸が張り裂けそうだった。
なのに、なぜだろう……涙が出ないんだ。
あの日抱いた『ざまぁみろ』っていう醜い感情と、自分自身へのあまりの嫌悪が、あたしの心を冷たく麻痺させてしまったみたいに。
あたしはその本を無言で母さんに返し、逃げるようにその場を去った。
だから、あたしは、この病気が嫌い。
それと同じくらい……自分のことが嫌い。




