21話
「小林さん。少し、座りましょう」
彼女に促され、俺は泥と返り血に汚れたままの体で、力なく椅子に腰を下ろした。二階ではリュミが付き添い、アゼルの妹を別の部屋で休ませている。嵐のあとのような静寂が、かえって俺の鼓動をうるさく響かせた。
向かいに座るルフィリアも、その端正な顔を絶望と疲労に染めている。
「小林さん。先ほど、あそこで起きたことについて……改めて確認させてください。」
彼女は、机の上に置かれた自分の指先をじっと見つめながら、まるで自分に言い聞かせるように問いかけてきた。彼女も現場にはいたが、俺がロロアを必死に引き起こしていた間、彼女は周囲の警戒に全神経を注いでいた。目の前で起きた「変容」の詳細を、彼女自身の理性はまだ受け入れられずにいるようだった。
俺は乾いた喉を鳴らし、絞り出すように答えた。
「見た通りだよ。アゼルは、化け物になって、捕まえた憲兵を、」
言葉にした瞬間、あの憲兵の顔に次々と開いていった暗黒の「穴」が、脳裏に鮮明に蘇る。ただ殺すのではない。口元へ強引に押し当てられた手から、どす黒い悪夢を吸い込ませ、その肉体を内側から別の何かへと作り替えていく。死すら救いにならない、おぞましい連鎖。
「やはり、あの化け物が徘徊し続ければ、被害は次々と連鎖していくでしょう。今、この瞬間も、外では犠牲者が増え、同じ姿へと変貌させられているはずです」
ルフィリアは蒼白な顔で唇を噛み締めた。俺は焦燥感に突き動かされ、窓の向こうの闇を睨みつけた。
「憲兵はまだいないのか? さっきよりも人数を集めるか、もっと強い人たちがいれば何とかならないか?」
だが、ルフィリアは力なく首を振った。
「現在、この街には憲兵は最低限の人数しかいません、上位の実力者たち、騎士団の皆は、領土拡大のための遠征に出てしまっています」
「遠征? 」
「ええ。この世界は、基本的に都市や人が暮らす場所は安全ですが、それ以外は悪夢によって発生した化け物が多くいます。そこから少しでも安全に暮らせる領地を増やすために、騎士団たちは遠征に出てしまっているのです」
その言葉に、俺は奥歯を噛みしめた。
本来、この街を守るべき「盾」となるべき強者たちは、安全な場所を広げるために、遥か遠い戦場で化け物と戦っている。皮肉にも、領土を増やそうと外へ向かっている間に、平和なはずの内側から溢れ出した悪夢に対して、この街は完全な空白地帯となってしまっていた。
「騎士団が不在の今、憲兵ではあの化け物を止めることは困難です。」
主力不在。作り替えられていく犠牲者たち。
絶望的な状況を整理し終えたルフィリアは、ふっと憑き物が落ちたような顔をして立ち上がった。
「小林さん。私はこれから、住民を避難させるために声をかけて回ってきます」
「……は?」
俺は耳を疑った。
「おい、正気か!? 外には化け物がいて……それに、もっと増えてるかもしれない。一人で行くなんて、死にに行くようなもんだろ」
思わず椅子を蹴って立ち上がる俺に対し、ルフィリアは静かに微笑んだ。
「大丈夫です。私はこれでも、この街を護る亜神の一人ですから、それに私の安全を守ってくだる方に覚えがあるので」
「でも……!」
半信半疑だった。確かに彼女は特別な存在だが、あの異形の不気味さを目の当たりにした後では、どんな力も無力に思える。だが、彼女の瞳には、義務感を超えた強い覚悟が宿っていた。
今は、誰かがやらなきゃならない。立ち止まっている時間は、一秒だってないんだ。
俺は突き上げた拳を震わせ、飲み下した。彼女を止めることは、街の最後の一線を捨てることと同義だった。
「わかった……。止めはしない。だけど、絶対に無茶はしないでくれ」
「ありがとうございます。……あと、お願いがあります、小林さん」
ルフィリアは玄関の扉に手をかけ、振り返った。
「私が戻るまで、リュミやアゼルの妹……そして、ロロアを。あの子をしっかり見ていてあげてください。今のあの子を守れるのは、あなたしかいないのです」
「ああ、分かってる」
ルフィリアは短く頷くと、夜の帳へと消えていった。
再び、静まり返った屋敷。
俺は二階の様子を伺い、それから、ロロアの篭もる部屋の扉をじっと見つめた。
ルフィリアが夜の帳へと消え、重い扉が閉まる音が屋敷に響いた。
外にはあのアゼルだった化け物がいて、さらに増えているかもしれない。そんな状況で「大丈夫だ」と言い切った彼女の背中を、俺はただ見送るしかなかった。
静まり返った広間で一人、俺は深く息を吐き出した。
俺の腕の中や、すぐそばで怯えていた者たちの感触がまだ肌に残っている。
俺は重い足取りで二階へと向かった。
アゼルの妹を寝かせた部屋の扉をそっと開けると、そこには、ようやく泣き疲れて深い眠りに落ちた少女の姿があった。
その傍らで、椅子に腰を下ろして付き添っていたリュミが、俺の足音に気づいて顔を上げた。その表情は、今にも崩れそうなほどに強張っている。
「……お兄ちゃん」
リュミの声は、かすれて震えていた。
アゼルの妹が落ち着いたのを見て、ようやく自分自身の不安が溢れ出してきたのだろう。彼女の瞳には、アゼルが化け物に変容したあの光景への恐怖だけではなく、別の切実な不安が混じっていた。
「ねえ……エレン先生、大丈夫かな?」
リュミは自分の膝を抱え込むようにして、小さく呟いた。
この混乱の中、まだ行方の分からないエレン先生のこと。街に化け物が現れ、騎士団も遠征で不在という絶望的な状況。先生が一人でどうなっているのか、その想像が彼女を追い詰めている。
「先生……大丈夫だよね? どこかに隠れてるよね? あんな、化け物になったり、してないよね?」
リュミの言葉には、答えのない問いと、やり場のない不安が入り混じっていた。エレン先生を慕っている彼女にとって、今の状況はあまりにも残酷だ。
俺はリュミの隣に座り、その震える肩をそっと引き寄せた。
「先生なら、きっと大丈夫だ。あんなにしっかりした人なんだから、無茶はしてないはずだよ」
根拠なんてどこにもなかった。だけど、今はそう言ってやるしかなかった。
リュミは俺の腕に顔を埋め、声を押し殺して震えていた。アゼルの妹のこと、エレン先生のこと、そして、いつ自分たちの身に同じことが起きるか分からない恐怖。
俺はリュミの頭を撫でながら、彼女の不安が少しでも和らぐように寄り添い続けた。
リュミは俺の服をぎゅっと握りしめた、外から聞こえてくる不気味な物音に耳を塞ぐように、俺たちはしばらくの間、寄り添い合ってその不安に耐えていた。
どれくらいの時間が過ぎただろうか。
俺の服を握りしめていたリュミの指先から、少しずつ力が抜けていった。張り詰めていた緊張が限界を超えたのか、彼女もアゼルの妹の後を追うように、浅い眠りへと落ちていった。
幼い二人の寝息だけが響く静かな部屋。俺は彼女たちが目を覚まさないよう、細心の注意を払ってゆっくりと立ち上がった。
そっと部屋を抜け出し、廊下に出る。
一階へ戻る前に、俺は一度、自分の部屋として使わせてもらっている一角へ向かった。今の街がどうなっているのか、この目で確かめておきたかった。
部屋に入り、重い窓枠を静かに押し開ける。
流れ込んできたのは、夜の冷気と、どこか生臭い、焦げたような風の匂いだった。
「ひでぇな」
窓から見下ろす街の景色は、昼間の活気が嘘のように死に絶えていた。
遠くで何かが燃えているのか、時折、赤黒い光が空を不気味に照らし出す。騎士団が遠征に出てしまい、守り手を欠いた街。その暗闇のあちこちに、異形へと化け物が潜んでいるかもしれない。そう思うだけで、背筋に冷たいものが走る。
俺は窓枠に手をかけ、暗い街並みをじっと見つめながら自問した。
今の俺に、一体何ができる?
さっき、庭でロロアの胸ぐらを掴んで、偉そうにあんなことを言った。
『償うために生きろ』『泥を啜ってでも生きろ』。
まるで正義の味方にでもなったかのような、威勢のいい言葉。だが、今の俺はどうだ。
ルフィリアは一人で街へ出て、住民を救おうとしている。
ロロアは、自分のしたことの重さに押し潰されて動けないでいる。
そして俺は……ただ、屋敷の窓から怯えながら外を眺めているだけだ。
「無力だな、本当に」
特別な力があるわけでもない。
化け物が屋敷に押し寄せてきたら、俺はリュミやアゼルの妹を、そしてロロアを守り切れるのか。
ただの人間である俺が、あのおぞましい悪夢を前にして、口先だけの言葉に責任を持てるのか。
夜風が俺の頬を冷たく叩く。
無力感に胸を締め付けられながらも、俺は閉ざした窓をもう一度見つめ、唇を強く噛みしめた。
そんなことを思っていると、背後で微かに、ギィ……と蝶番が鳴る音がした。
「っ!?」
化け物が入ってきたのかと思い、俺は反射的に窓枠から身を離して後ろを振り返った。武器になるようなものはない。最悪、素手で食い止めるしかない。
だが、そこに立っていたのは、想像していた異形ではなかった。
「……ロロア」
扉の傍らに、ロロアが立ち尽くしていた。
自分の部屋に閉じこもっていたはずの彼女は、月の光を浴びて、幽霊のように青白く見えた。泥に汚れた服はそのままで、焦点の合わない瞳が俺をじっと見つめている。
「……驚かせちゃったかな。ちょっと、夜風に当たりたくなっちゃってさ」
ロロアはいつも通りのおどけたような口調を装って、俺の隣まで歩いてきた。だが、その声はひどく掠れていて、空元気であることは誰の目にも明らかだった。
彼女は俺と並んで窓の外、赤く染まった街を眺めながら、自嘲気味に口角を上げた。
「あんな風に言われたの、初めてだよ。小林は本当に……容赦ないね」
そう呟いた彼女の横顔から、不自然な笑みがゆっくりと消えていく。彼女の視線は街の景色を通り越し、もっと遠い、過去の暗闇を見つめているようだった。
「ねえ、聞いてくれる? あたしが亜神になる前の話」
夜風がカーテンを揺らす中、彼女はぽつり、ぽつりと、自分の中に封印していた記憶の蓋を開け始めた。




