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蓮の檻  作者: echo
1章

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22/33

21話

「小林さん。少し、座りましょう」


 彼女に促され、俺は泥と返り血に汚れたままの体で、力なく椅子に腰を下ろした。二階ではリュミが付き添い、アゼルの妹を別の部屋で休ませている。嵐のあとのような静寂が、かえって俺の鼓動をうるさく響かせた。


 向かいに座るルフィリアも、その端正な顔を絶望と疲労に染めている。


「小林さん。先ほど、あそこで起きたことについて……改めて確認させてください。」


 彼女は、机の上に置かれた自分の指先をじっと見つめながら、まるで自分に言い聞かせるように問いかけてきた。彼女も現場にはいたが、俺がロロアを必死に引き起こしていた間、彼女は周囲の警戒に全神経を注いでいた。目の前で起きた「変容」の詳細を、彼女自身の理性はまだ受け入れられずにいるようだった。


 俺は乾いた喉を鳴らし、絞り出すように答えた。


「見た通りだよ。アゼルは、化け物になって、捕まえた憲兵を、」


 言葉にした瞬間、あの憲兵の顔に次々と開いていった暗黒の「穴」が、脳裏に鮮明に蘇る。ただ殺すのではない。口元へ強引に押し当てられた手から、どす黒い悪夢を吸い込ませ、その肉体を内側から別の何かへと作り替えていく。死すら救いにならない、おぞましい連鎖。


「やはり、あの化け物が徘徊し続ければ、被害は次々と連鎖していくでしょう。今、この瞬間も、外では犠牲者が増え、同じ姿へと変貌させられているはずです」


 ルフィリアは蒼白な顔で唇を噛み締めた。俺は焦燥感に突き動かされ、窓の向こうの闇を睨みつけた。


「憲兵はまだいないのか? さっきよりも人数を集めるか、もっと強い人たちがいれば何とかならないか?」


 だが、ルフィリアは力なく首を振った。


「現在、この街には憲兵は最低限の人数しかいません、上位の実力者たち、騎士団の皆は、領土拡大のための遠征に出てしまっています」


「遠征? 」


「ええ。この世界は、基本的に都市や人が暮らす場所は安全ですが、それ以外は悪夢によって発生した化け物が多くいます。そこから少しでも安全に暮らせる領地を増やすために、騎士団たちは遠征に出てしまっているのです」


 その言葉に、俺は奥歯を噛みしめた。

 本来、この街を守るべき「盾」となるべき強者たちは、安全な場所を広げるために、遥か遠い戦場で化け物と戦っている。皮肉にも、領土を増やそうと外へ向かっている間に、平和なはずの内側から溢れ出した悪夢に対して、この街は完全な空白地帯となってしまっていた。


「騎士団が不在の今、憲兵ではあの化け物を止めることは困難です。」


  主力不在。作り替えられていく犠牲者たち。

 絶望的な状況を整理し終えたルフィリアは、ふっと憑き物が落ちたような顔をして立ち上がった。


「小林さん。私はこれから、住民を避難させるために声をかけて回ってきます」


「……は?」


 俺は耳を疑った。


「おい、正気か!? 外には化け物がいて……それに、もっと増えてるかもしれない。一人で行くなんて、死にに行くようなもんだろ」


 思わず椅子を蹴って立ち上がる俺に対し、ルフィリアは静かに微笑んだ。


「大丈夫です。私はこれでも、この街を護る亜神の一人ですから、それに私の安全を守ってくだる方に覚えがあるので」


「でも……!」


 半信半疑だった。確かに彼女は特別な存在だが、あの異形の不気味さを目の当たりにした後では、どんな力も無力に思える。だが、彼女の瞳には、義務感を超えた強い覚悟が宿っていた。

 今は、誰かがやらなきゃならない。立ち止まっている時間は、一秒だってないんだ。

 俺は突き上げた拳を震わせ、飲み下した。彼女を止めることは、街の最後の一線を捨てることと同義だった。


「わかった……。止めはしない。だけど、絶対に無茶はしないでくれ」


「ありがとうございます。……あと、お願いがあります、小林さん」


 ルフィリアは玄関の扉に手をかけ、振り返った。


「私が戻るまで、リュミやアゼルの妹……そして、ロロアを。あの子をしっかり見ていてあげてください。今のあの子を守れるのは、あなたしかいないのです」


「ああ、分かってる」


 ルフィリアは短く頷くと、夜の帳へと消えていった。

 再び、静まり返った屋敷。

 俺は二階の様子を伺い、それから、ロロアの篭もる部屋の扉をじっと見つめた。




 ルフィリアが夜の帳へと消え、重い扉が閉まる音が屋敷に響いた。

 外にはあのアゼルだった化け物がいて、さらに増えているかもしれない。そんな状況で「大丈夫だ」と言い切った彼女の背中を、俺はただ見送るしかなかった。


 静まり返った広間で一人、俺は深く息を吐き出した。

 俺の腕の中や、すぐそばで怯えていた者たちの感触がまだ肌に残っている。


 俺は重い足取りで二階へと向かった。

 アゼルの妹を寝かせた部屋の扉をそっと開けると、そこには、ようやく泣き疲れて深い眠りに落ちた少女の姿があった。


 その傍らで、椅子に腰を下ろして付き添っていたリュミが、俺の足音に気づいて顔を上げた。その表情は、今にも崩れそうなほどに強張っている。


「……お兄ちゃん」


 リュミの声は、かすれて震えていた。

 アゼルの妹が落ち着いたのを見て、ようやく自分自身の不安が溢れ出してきたのだろう。彼女の瞳には、アゼルが化け物に変容したあの光景への恐怖だけではなく、別の切実な不安が混じっていた。


「ねえ……エレン先生、大丈夫かな?」


 リュミは自分の膝を抱え込むようにして、小さく呟いた。

 この混乱の中、まだ行方の分からないエレン先生のこと。街に化け物が現れ、騎士団も遠征で不在という絶望的な状況。先生が一人でどうなっているのか、その想像が彼女を追い詰めている。


「先生……大丈夫だよね? どこかに隠れてるよね? あんな、化け物になったり、してないよね?」


 リュミの言葉には、答えのない問いと、やり場のない不安が入り混じっていた。エレン先生を慕っている彼女にとって、今の状況はあまりにも残酷だ。


 俺はリュミの隣に座り、その震える肩をそっと引き寄せた。


「先生なら、きっと大丈夫だ。あんなにしっかりした人なんだから、無茶はしてないはずだよ」


 根拠なんてどこにもなかった。だけど、今はそう言ってやるしかなかった。

 リュミは俺の腕に顔を埋め、声を押し殺して震えていた。アゼルの妹のこと、エレン先生のこと、そして、いつ自分たちの身に同じことが起きるか分からない恐怖。


 俺はリュミの頭を撫でながら、彼女の不安が少しでも和らぐように寄り添い続けた。


 リュミは俺の服をぎゅっと握りしめた、外から聞こえてくる不気味な物音に耳を塞ぐように、俺たちはしばらくの間、寄り添い合ってその不安に耐えていた。




どれくらいの時間が過ぎただろうか。

 俺の服を握りしめていたリュミの指先から、少しずつ力が抜けていった。張り詰めていた緊張が限界を超えたのか、彼女もアゼルの妹の後を追うように、浅い眠りへと落ちていった。

 幼い二人の寝息だけが響く静かな部屋。俺は彼女たちが目を覚まさないよう、細心の注意を払ってゆっくりと立ち上がった。


 そっと部屋を抜け出し、廊下に出る。

 一階へ戻る前に、俺は一度、自分の部屋として使わせてもらっている一角へ向かった。今の街がどうなっているのか、この目で確かめておきたかった。


 部屋に入り、重い窓枠を静かに押し開ける。

 流れ込んできたのは、夜の冷気と、どこか生臭い、焦げたような風の匂いだった。


「ひでぇな」


 窓から見下ろす街の景色は、昼間の活気が嘘のように死に絶えていた。

 遠くで何かが燃えているのか、時折、赤黒い光が空を不気味に照らし出す。騎士団が遠征に出てしまい、守り手を欠いた街。その暗闇のあちこちに、異形へと化け物が潜んでいるかもしれない。そう思うだけで、背筋に冷たいものが走る。


 俺は窓枠に手をかけ、暗い街並みをじっと見つめながら自問した。

 今の俺に、一体何ができる?


 さっき、庭でロロアの胸ぐらを掴んで、偉そうにあんなことを言った。

『償うために生きろ』『泥を啜ってでも生きろ』。

 まるで正義の味方にでもなったかのような、威勢のいい言葉。だが、今の俺はどうだ。


 ルフィリアは一人で街へ出て、住民を救おうとしている。

 ロロアは、自分のしたことの重さに押し潰されて動けないでいる。

 そして俺は……ただ、屋敷の窓から怯えながら外を眺めているだけだ。


「無力だな、本当に」


 特別な力があるわけでもない。

 化け物が屋敷に押し寄せてきたら、俺はリュミやアゼルの妹を、そしてロロアを守り切れるのか。

 ただの人間である俺が、あのおぞましい悪夢を前にして、口先だけの言葉に責任を持てるのか。


 夜風が俺の頬を冷たく叩く。

 無力感に胸を締め付けられながらも、俺は閉ざした窓をもう一度見つめ、唇を強く噛みしめた。


そんなことを思っていると、背後で微かに、ギィ……と蝶番が鳴る音がした。


「っ!?」


 化け物が入ってきたのかと思い、俺は反射的に窓枠から身を離して後ろを振り返った。武器になるようなものはない。最悪、素手で食い止めるしかない。


 だが、そこに立っていたのは、想像していた異形ではなかった。


「……ロロア」


 扉の傍らに、ロロアが立ち尽くしていた。

 自分の部屋に閉じこもっていたはずの彼女は、月の光を浴びて、幽霊のように青白く見えた。泥に汚れた服はそのままで、焦点の合わない瞳が俺をじっと見つめている。


「……驚かせちゃったかな。ちょっと、夜風に当たりたくなっちゃってさ」


 ロロアはいつも通りのおどけたような口調を装って、俺の隣まで歩いてきた。だが、その声はひどく掠れていて、空元気であることは誰の目にも明らかだった。


 彼女は俺と並んで窓の外、赤く染まった街を眺めながら、自嘲気味に口角を上げた。


「あんな風に言われたの、初めてだよ。小林は本当に……容赦ないね」


 そう呟いた彼女の横顔から、不自然な笑みがゆっくりと消えていく。彼女の視線は街の景色を通り越し、もっと遠い、過去の暗闇を見つめているようだった。


「ねえ、聞いてくれる? あたしが亜神になる前の話」


 夜風がカーテンを揺らす中、彼女はぽつり、ぽつりと、自分の中に封印していた記憶の蓋を開け始めた。

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