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蓮の檻  作者: echo
1章

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20話

「お前たち行け!化け物を抑えろ!」


 憲兵のリーダー格の男が、喉が裂けんばかりの声を張り上げた。その叫びは、恐怖で凍りつきそうになる己の四肢を無理やり動かすための、悲壮なまでの自己暗示だった。

 変わり果てた両親の骸が、かつての幸福の残骸とともに家屋の奥に転がっている。その凄惨な光景を背後に、異形はすでに次の獲物へと狙いを定めていた。もはや一刻の猶予もなかった。二人の憲兵が、抜き身の剣を構え、死への恐怖を無理やり押し殺した野獣のような怒号とともに、その忌まわしき化け物へと躍りかかる。夕刻の低い陽光を反射した剣身が、死の舞踏を演じるように虚空を裂いた。


 残る一人の憲兵が、俺の肩を強く掴み、力任せに背中を突き飛ばした。鉄の小手越しでも伝わる、剥き出しの戦慄。


「おい! ここは俺たちが食い止める! お前は早く、ロロア様たちを連れて逃げろ! 避難させるんだ、早く行け!」


 憲兵の焦燥と、極限状態でこそ絞り出された、かつての守護者への必死な敬称。その切迫した声に、俺は弾かれたように頷いた。

 俺の腕の中では、アゼルの妹が、目の前で起きたあまりの衝撃に声を失い、ただガタガタと歯の根も合わぬほどに震えている。彼女の小さな体から伝わる絶望の鼓動が、俺の胸を痛烈に打つ。リュミが俺の服の裾を、指先が白くなるほどに強く握りしめ、ルフィリアが冷徹なまでの鋭い視線で周囲の警戒を続ける中、俺は地面に膝をついたままのロロアに駆け寄った。


「ロロア! 立つんだ、ここを離れるぞ!」


 俺は彼女の細い肩を掴み、強引に引き起こそうとした。

 だが、ロロアの身体は鉛のように重かった。かつては亜神として崇められたその四肢は、いまや泥の地面に縫い付けられたかのように微動だにせず、その瞳は完全に光を失っていた。大きく見開かれた瞳は、焦点の合わない目で、血と悪夢に染まった家の中を、ただ虚空を見つめるように凝視し続けている。


「ロロア! しっかりしろ! おい!」


 何度も何度も声をかけ、その肩を壊さんばかりに揺さぶる。だが、彼女は抜け殻のようだった。魂が身体を脱ぎ捨て、どこか遠い暗黒へ逃げ込んでしまったかのような拒絶。

 返ってきたのは、夕刻の冷えゆく風に消えそうなほどか細く、絶望という名の泥に濡れた独り言だけだった。


「また、だ。……また、」


 その言葉の真意を、俺は半分も理解できていなかった。だが、彼女の内に深く沈殿していた過去の傷が、今、目の前の惨劇と残酷なまでに重なり合い、彼女の精神を内側からボロボロに食い破っていることだけは、痛いほど伝わってきた。


「……また、アタシが……殺したんだ」


 搾り出された告白。喉を掻き切って絞り出したような、呪詛に似た懺悔。

 もし、彼女が「大丈夫かもしれない」などと言って憲兵を止めなければ。もし、彼女があの瞬間、あまりにも脆い希望に縋り付かなければ、アゼルの両親は、せめて逃げる機会があったかもしれない。その凄まじい自責の念が、彼女の心を粉々に砕いていた。


 俺は、その言葉に何も答えられなかった。

 気休めを言う余裕も、彼女を慰めるための正論も、今の俺には持ち合わせていない。ただ、背後では憲兵たちの悲鳴と、肉が裂け、骨が粉砕される不気味な音が、湿った響きを伴って聞こえ始めている。避難しなければならない。早く、一秒でも早くここを離れなければ、全員があの「アゼルの腕」に飲み込まれる。


「いいから、動け! 死ぬぞ、ロロア!」


 俺は再び避難を促したが、彼女は動かない。

 ただ自分自身を呪う言葉を繰り返し、死を待つ生贄のように項垂れている。その、自らの命さえ放棄したような逃避とも取れる姿に、俺の中で、熱い苛立ちと、どうしようもない焦りが沸点に達した。


 しびれを切らした俺は、ロロアの胸ぐらを両手で掴み、そのうつろな顔を無理やり、至近距離で覗き込んだ。泥の匂いと、死の香りが混ざり合った吐息が触れ合う。


「そうだ、お前が殺したんだ! お前のせいでアゼルの両親は死んだんだよ!」


 俺の罵声が、静まり返った絶望の空気を鋭く切り裂く。

 ルフィリアが「小林さん!?」と息を呑むのが聞こえたが、俺は止まらなかった。


「そして何だ、ここに居座って、次は自分も殺されるのを待ってるのか? そうやって自分も死んで、全部なかったことにして逃げようとしてんのか!?」


 冷酷な、氷の刃のような言葉が、俺の口から次々と溢れ出した。

 ロロアの瞳が、僅かに揺れた。鏡のように滑らかに凍りついていた彼女の絶望に、俺の剥き出しの言葉が、取り返しのつかない鋭い亀裂を刻んでいく。

 その背後で、絶望を上書きするような湿った破壊音が、再び大地を震わせた。


「ぐ、ああああぁっ!?」


 異形へと躍りかかった二人の憲兵のうちの一人が、逃れる術もなくその長い、粘着質な腕に捕らえられていた。もう一人の憲兵が加勢しようと必死に剣を振るうが、化け物の皮膚に触れた刹那、鉄の剣身は腐食したようにボロボロと砕け散る。


 化け物は、捕らえた憲兵の首を異様な力で固定すると、顔にぽっかりと開いた穴から溢れ出す黒い粘液を滴らせる手を、その口元へと強引に押し当てた。

 何か、おぞましき悪夢の種を、無理やり流し込んでいる。


「が、はっ……ごほっ、あ、ああぁ……!」


 憲兵の身体が、人間には不可能な角度で反り返った。全身の血管が黒く浮き上がり、皮膚の下で何かが蠢く。断末魔さえ上げられぬまま、彼の瞳からは光が消え、代わりに化け物と同じように穴が顔の至る所に開き始めた。

 死んだはずの肉体が、どす黒い悪夢を吸い込み、新たな異形へと作り替えられていく。


「そんな……嘘だろ……」


 目の前で起きた、感染とも呼べる変容。残された最後の一人の憲兵も恐怖に腰を抜かし、庭全体がもはや逃げ場のない屠殺場へと変わりつつあった。


 だが、ロロアはまだ動かない。

 俺に胸ぐらを掴まれたまま、変わり果てた憲兵の姿を見てもなお、自分が殺したという呪縛に魂を浸し続けている。

 諦めに満ちた、淀んだ瞳。自分への罰として死を受け入れようとする、その身勝手なまでの無気力。

 それを見た俺は、彼女の胸ぐらを掴む手にさらに力を込め、その顔を至近距離まで力任せに引き寄せた。


「ふざけるな。勝手に終わらせるな!」


 俺の怒号が、死の静寂を再び切り裂く。


「俺のいた世界に、『命あっての物種』っていう言葉がある。どんな宝も、どんな志も、命がなきゃ何の意味もない、命があってこそ何かが始まるって意味だ!」


 ロロアの瞳が、僅かに、本当に僅かに揺れた。


「自分がしたことが理解できてるなら……その重さに押し潰されそうなら、どんな形でもいいから償え! 泣きながらでも、泥を啜りながらでもいい。そのために、今、生きろ!」


 俺は彼女を突き飛ばすようにして放した。突き放されたロロアの体が、泥の上に力なく崩れる。

 

「ここで死んで逃げるなんて、一番の裏切りだ。アゼルが、その両親が、最後に何を守ろうとしていたか……お前には見えないのか!?」


 俺は震える手でアゼルの妹を強く抱き寄せ、地面に這いつくばったままのロロアを、射抜くような視線で睨みつけた。


 俺の背後では、変貌を遂げた元憲兵の怪物が、ガチガチと関節を不気味に鳴らしながら、ゆっくりと立ち上がっていた。

 絶望は連鎖し、侵食はさらに加速している。夕闇は赤から黒へと塗り替えられ、世界の境界線が曖昧になっていく。

 

「生きろ、ロロア。償う権利を、自分で捨てるな!」


 俺の言葉が、彼女の深く沈んだ心臓に届いたのかはわからない。

 だが、ロロアの手が、ゆっくりと泥に汚れた地面を掴み、指先が白くなるほどに強く握りしめられた。その爪の間に、黒い土が食い込んでいく。


 その壮絶な言い合いを、傍らで言葉を失い、驚愕の表情で見つめていたのはルフィリアだった。


 同じ亜神という立場にあり、長く時間を共にしてきたロロア。まさか彼女が、名もなき人間である俺に胸ぐらを掴まれ、その罪と逃避を真正面から糾弾されている。その光景は、ルフィリアにとっても信じがたい衝撃だった。畏怖されるべき存在である亜神が、泥にまみれ、一人の男の怒りに晒されている。


 しかし、背後で立ち上がった「元憲兵」の怪物が、その虚ろな穴をこちらへ向け、粘り気のある闇を撒き散らしながら一歩を踏み出した時、ルフィリアの理性が瞬時に警告を発した。


「小林さん! 今は、今は避難が先決です!一旦、私の屋敷へ!」


 ルフィリアが、弾かれたように俺たちの間に割って入った。彼女の瞳には、俺の行動への驚きを上書きするような、切迫した危機感が宿っている。彼女は鋭い視線を周囲に走らせ、もはや一刻の猶予もないことを悟った。侵食の波は、すぐそこまで迫っている。


 ルフィリアの声に、俺は弾かれたように動き出した。


 俺は片腕でアゼルの妹をしっかりと抱き寄せると、もう片方の手で、地面にへたり込んだままのロロアの細い手を、強引に、そして痛いほど固く握りしめた。


「ロロア、行くぞ! 立て!」


 俺が力任せに引き上げると、ロロアは抵抗する力もなく、糸の切れた人形のように立ち上がった。俺の手から伝わる、生きようとする熱い体温に、彼女の指先がわずかに震える。


 リュミも俺の服を掴んだまま、恐怖で顔を真っ青にしている。ルフィリアは俺たちの先陣を切るように走り出し、空いた手で俺の背中を、有無を言わせぬ力で強く押し出した。


「走ってください! 私の屋敷まで、急ぎましょう!」


 背後からは、家屋が完全に自壊し、地響きを立てて崩れ落ちる轟音が聞こえてきた。アゼルの悪夢が家々の隙間を、おぞましい気配が埋め尽くしていく。


「……あ、アタシ……」


 ロロアが、掠れた声で何かを呟こうとした。だが俺はその手を決して離さず、彼女を半分引きずるようにして足を踏み出し、俺たちは闇に支配し始めた街道を、一度も振り返ることなく駆け抜けた。冷たい夜風が、頬を刃のように切り裂いていく。









 肺が焼けるような痛みを抱えながら、俺たちは何とかルフィリアの屋敷へと滑り込んだ。

 重厚な玄関の扉を閉じ、鉄製の閂を力任せに落とした瞬間、外の世界の狂気から物理的な境界線が引かれる。だが、石造りの壁越しでも、遠くで響く異形の咆哮と、飲み込まれていく微かな破壊音が鼓膜を震わせていた。


「はぁ、はぁ……っ……」


 俺は腕の中で震えるアゼルの妹をそっと床に下ろし、ようやく自由になった手で膝をついた。極限の緊張が解け、全身の筋肉が激しく悲鳴を上げ始める。隣ではリュミがルフィリアの服の裾を握りしめたまま、泣き声さえ出せずに震えていた。彼女の瞳には、見たこともない地獄の残像が焼き付いている。


 誰もが、泥と絶望にまみれていた。

 ルフィリアは荒い呼吸を整えながら、まずは屋敷の戸締まりを確認し、室内の明かりを最小限に抑えた。暗闇の中に沈む屋敷。今の俺たちにできるのは、ただこの静寂の中に身を潜めることだけだ。


「さて。これから、どうするか……」


 俺は重い口を開いた。アゼルの変貌、連鎖する異形、そして無惨に失われた両親。この地獄をどう終わらせるべきか、あるいはどこへ逃げるべきか、話し合うべきことは山積していた。

 だが、その問いに答える者はいなかった。空気は重く、死の予感に満ちている。


 ふと視線を向けると、ロロアが立ち尽くしていた。

 庭で俺に手を引かれて以来、彼女は一度も口を開いていない。泥に汚れた白い衣、濁った硝子の破片のような瞳。彼女の魂は、いまだにあの血塗られた場所、またはどこか遠くに取り残されているようだった。俺の手の感触さえ、もう彼女には届いていないのかもしれない。


「ロロア……」


 声をかけたが、彼女は反応しなかった。

 ただ、幽霊のような足取りで、ふらふらと歩き出す。俺たちの横を通り過ぎ、ギィ、と乾いた音を立てて広間の扉を開けた。その動作には、生きている人間としての意志が感じられなかった。


「おい、まだ話が」


 俺は反射的に立ち上がり、彼女の背中を追おうとして手を伸ばした。彼女を独りにしてはいけない、そう本能が告げている。

 だが、その指先が彼女に届く前に、静かな、しかし確かな力を持った声が俺を止めた。


「小林さん。……今は、止めておきましょう」


 ルフィリアだった。彼女は俺の腕をそっと抑え、悲しげに、静かに首を振った。その瞳には、親友を思いやる痛みと、どうしようもない諦念が混ざり合っている。


「今は、一人にしてあげましょう。」


 ルフィリアの瞳にも、同じ亜神として、そして友としての深い苦悩が滲んでいた。亜神としての誇りと、一人の少女としての脆さの間で揺れるロロアを、彼女もまた見守ることしかできないのだ。

 ロロアが部屋を出ていく。その背中はあまりに小さく、今にも夜の闇に溶けて消えてしまいそうなほど脆かった。

 パタン、と扉が閉まる乾いた音が、俺たちの間に決定的な断絶を刻む。


 俺は伸ばしかけた手を、虚空で力なく握りしめた。

 彼女をあそこまで追い詰めたのは、他ならぬ俺の言葉だ。償えと言い放ち、彼女の唯一の逃げ道だった死すらも奪い取った。俺は彼女を救おうとしたのか、それともただ己の憤りをぶつけただけなのか。


 暗い廊下の奥へと消えていったロロアの足音は、やがて聞こえなくなった。

 屋敷の中に残されたのは、アゼルの妹のすすり泣きと、窓を不気味に叩く夜風の音。そして、正解のない問いを抱えた俺たちの、吐き気がするほどに重苦しい沈黙だけだった。窓の外では、月さえも絶望の色に染まろうとしていた。

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