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蓮の檻  作者: echo
1章

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20/33

19話

怪物の空洞の奥から漏れていた、あの耳を劈くような呻きが止んだ。

 室内は一転して、耳が痛くなるほどの静寂に包まれる。だが、それは平穏などではない。荒れ狂う嵐の目の中に突如として放り込まれたような、肌を刺す真空の圧迫感だった。


 怪物の指先――どろりとした黒い粘液を滴らせ、刃物のように鋭く引き伸ばされた爪が、何も知らずに兄の遺体があった場所で泣きじゃくる少女の、柔らかな細い首筋へとゆっくりと伸びていく。少女はただ、恐怖と悲しみのあまりに呼吸の仕方を忘れたかのように、剥がされた床板のすぐそばで、小さく、あまりに小さく蹲っていた。


 その光景を、ロロアはすぐ隣で、ただ石像のように固まって見つめていた。

 普段の彼女であれば、どんな最悪の窮地でも軽妙な冗談を飛ばし、周囲を勇気づけていただろう。だが、今の彼女は違った。己の内に深く巣食う過去という名の怪物に、その魂を完全に食い荒らされていた。

 大きく見開かれた瞳に宿るのは、目の前の異形への単純な恐怖ではない。守りたかったはずの誰かの背中を見送ってしまった時の、あの取り返しのつかない無力感の凄惨な再演だった。


 彼女は自分の肩を抱く腕にさらに力を込め、爪が服を突き破り皮膚を裂くほどに自分を締め上げる。ガチガチと鳴る奥歯の音だけが、彼女がまだ生きていることを証明していた。口唇は小刻みに震えているが、そこからまともな言葉が零れることはない。亜神としての高貴な地位も、嘘のように自由になったはずの両足も、この眼前に広がる「絶望の再演」の前では、彼女自身を地面に繋ぎ止める重い鎖でしかないようだった。


「ロロア! 何をしてる、動け!!」


 俺の叫びも、今の彼女には遠い世界の羽音のようにしか聞こえていないのかもしれない。

 怪物の爪が、少女の古びた服の襟元に触れた。

 死の香りを濃密に孕んだ黒いシミが、触れた箇所から布地にじわりと広がり、少女の透き通るような細い肌を侵食し始めたその瞬間――。


 俺の身体は、思考よりも先に弾け飛んでいた。


「――っ!」


 特別な力も、神の加護も、魔法の武器もない。ただの凡人の肉体が、死臭と線香の匂いが混ざり合う畳を強く蹴った。剥がされた床板の暗がりに足を取られそうになりながら、遮二無二、異形の怪物の胴体へと横から身体ごと突っ込んだ。


 衝突の瞬間、全身を突き抜けたのは、氷のような冷たい泥の中に頭から叩きつけられたような、凄まじい不快感だった。

 内臓がひっくり返るような焼ける感覚と、骨の髄まで一瞬で凍りつくような悪寒。怪物の身体は確かな実体があるようでいて、どこかこの世の物ではない、ねっとりとした粘り気を持って俺の体を受け止めた。


 俺の肩が怪物の腹部――らしき場所に深くめり込む。全力の衝撃は、異形の巨体をわずかに、だが確実に後方へ揺らした。

 怪物のバランスが崩れ、無防備な少女に向かって伸びていた爪が、空を切り裂いて畳を深く抉った。


「今だ……!」


 衝撃で跳ね返された俺は、床の上を無様に転がり、全身の節々に走る激痛に呻きながらも、止まることなく泥臭く手を伸ばして少女の腰を掴んだ。

 絶望の淵に立たされ、涙でぐしゃぐしゃになった少女を、力任せに自分の方へと引き寄せる。


「お兄、ちゃん……?」


 少女のうつろな瞳が、俺を、そして俺の背後にそびえ立つかつての兄であったモノを捉えた。俺は少女を抱きかかえ、そのまま床を転がるようにして、異形の長い腕が届かない間合いまで必死に脱出する。


「ロロア! いいからこっちへ来い! 死ぬぞ!」


 その決死の叫びで、ロロアの瞳にようやく、わずかな光が戻った。

 彼女は見ていた。何一つ力を持たないはずのただの人間が、泥にまみれ、無様に這いずりながら、この世のものとは思えぬ絶望のただ中に飛び込んだことを。そのあまりに無防備で、あまりに無謀な一歩が、凍りついていた彼女の時間の幕を、無理やり外側から引き剥がしたようだった。


「あ……」


 ロロアの唇が小さく動く。だが、事態は彼女の覚醒を悠長に待ってはくれない。

 異形となったアゼルの「穴」がさらに大きく広がり、声なき振動が空間そのものを物理的に震わせ、家鳴りが激しく響く。


 部屋を埋め尽くす黒い残滓が、さらに激しく逆立ち、俺たちすべてを飲み込もうと波打っている。

 窓から差し込む夕刻の赤い光は、今や異形の影をどこまでも長く、不吉に伸ばしていた。


「ルフィリア! 出口を確保してくれ! 全員でここを出るぞ!」


 俺は少女を抱きしめたまま、必死に指示を飛ばした。一刻の猶予もない。この家そのものが、アゼルの悪夢に飲み込まれようとしていたのだ。


 異形となったアゼルの穴が、限界まで見開かれた。

 直後、空気が破裂するような、凄まじい咆哮が轟いた。それは悲鳴であり、怒声であり、何よりこの世のあらゆる飢えを凝縮したような、聞く者の魂を直接削り取る音の奔流だった。


「耳を塞げ!!」


 俺の声すら掻き消される。家全体が巨大な地震に襲われたかのように激しく揺れ、壁の古い漆喰がボロボロと剥がれ落ち、天井の梁が悲鳴を上げる。黒い残滓は濁流となって床を舐め、俺たちの足元を侵食しようと迫りくる。


「小林さん、ロロアを! 早く外へ!!」


 ルフィリアの鋭い叫びに、俺は半ば突き飛ばされるようにして、少女を抱え直した。呆然と立ち尽くすロロアの腕を強引に引き寄せ、出口へと駆ける。

 背後で、バキバキと家が内側から崩壊していく不吉な音が止まらない。俺たちは転がるようにして玄関を飛び出し、夕闇が迫りつつある外の、ひんやりとした土を踏みしめた。


 肺に流れ込んできた外気の冷たさに一瞬だけ安堵したのも束の間だった。


 ――ドォォォォン!!


 凄まじい衝撃音とともに、アゼルの家の外壁が内側から弾け飛んだ。

 それは怪物が急に巨大化したからではない。狭い家の中に閉じ込められていた膨大な悪夢の質量が、建物の構造を限界まで押し広げ、一気に噴出したのだ。

 舞い散る土煙と木片。その向こう側、ぽっかりと開いた無惨な壁の穴に、あの異形が屹立していた。


 俺たちは家から数メートルの庭先で立ち止まり、その惨状を凝視した。

 破壊された壁の断面越しに、薄暗い部屋の奥に佇む怪物の姿が露わになる。黒くうねる細長い身体、節くれ立った不自然な四肢、そして顔に開いた、すべてを吸い込むような巨大な穴。

 その光景をさらに残酷にしていたのは、怪物のすぐ背後に、腰を抜かして逃げ遅れたアゼルの両親がいたことだった。

 

 壊れた壁越しに、怪物はじっと俺たち

いや、俺が抱きかかえている、震えて止まらない少女を見据えている。

 その不気味な視線には、かつて家族を慈しみ、自らを犠牲にした兄の温もりなど欠片もない。ただ、自分を置いて、この苦しみから逃げようとする生への、どす黒い執着だけが渦巻いていた。


 怪物が、瓦礫を無造作に蹴りながら、庭にいる俺たちに向けてゆっくりと、しかし確実に一歩を踏み出す。

 長い足が縁側の残骸をバキリと踏み砕き、その巨大な手が、再び少女へと届く距離まで縮まろうとした、その時だった。


「ア、ゼル……?」


 震える掠れ声が、絶望の満ちた室内から響いた。

 怪物の背後で、泥に塗れたままの父親が、喉を絞り出すようにしてその名を呼んだのだ。

 隣では母親が、祈るように両手を組み、ガチガチと歯を鳴らしながら、変わり果てた息子の背中を見つめている。


「アゼル……お前なんだろう?」


 父親の声は、あまりに弱く、どこまでも悲しかった。

 自分たちを助けるために、優しい嘘を吐いてまで、凄惨な飢えに耐え続けた、自慢の息子の名。


 その声に呼応するように、俺たちへ向けられていた怪物の動きが、ぴたりと止まった。


 怪物は、油の切れた古い機械のような、不気味でぎこちない動きで首を巡らせる。

 バキバキと、本来の関節構造ではありえない方向から首の骨が鳴る音を立て、ゆっくりと、ゆっくりと。

 自分を呼ぶ、切ない愛の方向へと、その空っぽの顔を振り返らせた。


 夕刻の血のような赤い光が、壊れた家の中を斜めに照らし出す。

 そこには、異形の怪物と、それを今なお息子として、縋り付くように見つめることしかできない、哀れな両親の姿があった。


 その時、静まり返った集落の通りに、幾多の慌ただしい足音が響き渡った。

 アゼルの家から上がったあの凄まじい破壊音と、ただならぬ死の気配を察知した近隣の憲兵たちが、急ぎ駆けつけたのだ。その数は三人。抜き身の剣を手に、彼らはこの世のものとは思えない異常な光景を前に、一瞬足を止めた。


「おい、何事だ! そこで何が起きている!」


 先頭に立つ憲兵が、俺たちに向けて鋭く、威圧的な声を張り上げた。当然の問いだった。無惨に崩れた外壁、そこから覗くおぞましい異形の姿、そして庭先にうずくまるボロボロの俺たち。


「助けてくれ! 」


 俺が必死に叫ぶと、憲兵たちは一瞬顔を見合わせたが、すぐに状況の深刻さを察して剣を構え直した。


「下がれ! 構えろ、これ以上進ませるな!」


 三人の憲兵が、慎重に距離を詰め、異形の怪物を包囲しようとした。彼らの目は鋭く、いつでも切りかかれるよう深く腰を落としている。


 だがその時、背後から家族に名を呼ばれ、振り返っていた怪物の身体が、激しく波打ち始めた。

 バキバキと全身の関節が鳴り、黒い粘液が身体から勢いよく噴き出す。それはもだえ苦しむように、自身の長い腕で己の頭を抱え込む仕草を見せた。

 

 その、あまりにも「人間」らしい、慟哭にも似た苦悶の動き。

 それを見たロロアが、弾かれたように憲兵たちの前に立ちふさがった。


「やめて……!」


 ロロアの叫びが、今まさに踏み込もうとした憲兵たちの足を止めさせた。彼女の瞳には、先ほどまでの絶望ではなく、ひどく危うく、けれど切実な希望の光が混じっていた。


「ロロア、危ない! 下がれ!」


「待って!」


 ロロアの声は、自分自身に必死に言い聞かせるような強迫観念に満ちていた。

 かつて亜神としてこの街を守る立場にあった彼女の言葉には、有無を言わせぬ重みがある。憲兵たちも、目の前のロロアの気迫と、その制止の言葉に、一瞬の戸惑いを見せた。


「 見て、家族の声に応えようとしてるんだよ。……もしかしたら、アゼルの心がまだ、少しだけでも残ってるのかも。大丈夫、大丈夫かもしれない……!」



 怪物は、震えながら自分を呼ぶ両親を、凍りついたように微動だにしない。

 父親が、涙を流しながら、怪物の足元へ吸い寄せられるように這い寄る。


「アゼル……そうか、わかるのか。お父さんだ。もういい、もう無理しなくていいんだぞ……帰ってこい、アゼル……」


 ロロアの頬を、安堵の涙が伝った。彼女は信じたかったのだ。この残酷で救いのない病の先に、わずかでも、奇跡のような救いが残されていることを。

 

 だが、その微かな希望は――あまりにも無惨な、そして瞬時のうちに、最悪の形で打ち砕かれた。


 怪物の静止が解かれたのは、本当に一瞬のことだった。


 シュッ


 あまりに速く、あまりに無慈悲に。

 怪物の長い腕が、まるでしなる鞭のように放たれ、目前の父親と、そのすぐ後ろにいた母親を同時に薙ぎ払った。


「え?」


 ロロアの、乾いた、魂の抜けたような声が響く。

 

 ドサリ、という鈍い音がして、両親の身体は紙細工のように無残に折れ、壊れた壁のさらに奥、暗い部屋の隅へと叩きつけられた。

 言葉も、悲鳴さえもなかった。

 アゼルが何よりも守りたかったはずの両親は、アゼルの形をした「虚無」そのものによって、一瞬にしてその命を永遠に奪われた。


 怪物は、自らが今しがた殺した肉塊を振り返ることさえしなかった。

 ただ、その穴の開いた顔を再び、庭にいる俺たち、そして、絶望に凍りつき、崩れ落ちようとするロロアの方へと、ゆっくりと、執拗に向け直した。


「あ、あ……」


 ロロアの足元から、完全に力が抜けていく。

 彼女が抱いた、あまりに純粋で、あまりに甘い「大丈夫かもしれない」という願いが、結果として両親をこの場から逃がす唯一の猶予を奪い、彼らを無慈悲な死へと追いやったのだ。


 壊れた家の中から、生温い、血の混じった風が吹き抜け、重苦しい死の臭いを辺り一面に撒き散らした。

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