18話
少女が抱えていた小さな花が、指先から滑り落ちた乾いた音が、静まり返った室内で心臓の鼓動を跳ねさせるほど大きく響く。
「お兄ちゃん、……お家に帰ってきたの? ねぇ、起きてよ。お花持ってきたよ……?」
少女の震える声。それが合図だったかのように、堰を切った慟哭が部屋を満たした。状況を完全に理解するには幼すぎたが、かつて自分に優しく微笑んでくれた兄の成れの果てであるという事実は、本能が察知していた。 少女は遺体のそばに崩れ落ち、泥に汚れた兄の腕に縋りついて、枯れ果てるような声で泣き叫んだ。
その凄惨な光景を、ロロアはただ、石像のように固まって見つめていた。 普段の彼女ならば、真っ先に駆け寄り、子供を抱きしめて明るい言葉をかけていただろう。だが、今の彼女にその余裕はなかった。
ロロアの顔からは、生気が完全に失われていた。 大きく見開かれた瞳は、泣き叫ぶ少女を見ているようで、その実、何も映していない。ただ、自身の内側にある、触れてはならない記憶の深淵にその身を焼かれているようだった。 彼女は自分の肩を抱くように両腕を回し、指先が服を突き破りそうなほど強く自分を締め上げる。ガチガチと奥歯が鳴る音が、俺の耳にも届くほどだった。
「……っ」
彼女の脳裏に何が去来しているのか、俺にはわからない。だが、この現実崩壊症という病、そして遺された家族という構図が、彼女にとって耐えがたい毒であることだけは伝わってきた。 妹を想い、身を削り、その結果として取り返しのつかない断絶を生んでしまった兄。 そして、何も知らずに、あるいはすべてを知ってから泣きじゃくる妹。 ロロアの震えは、単なる恐怖というより、凄まじい自己嫌悪と後悔が混ざり合った、逃げ場のない叫びのように見えた。
俺は、変わり果てていく遺体のそばで泣き崩れる家族を視界の端に入れながら、隣に立つルフィリアに声をかけた。この極限状態にあってなお、俺の脳裏には拭い去れない疑問が渦巻いていた。
「……ルフィリア。一つだけ、聞かせてくれ」
「何でしょうか小林さん、今はそんな余裕は」
「あの一家の話だ。なぜ、これほどまでに追い詰められた? アゼルも父親も、しっかり働いていたのに。」
亜神としての立場からなのかルフィリアは一瞬、言葉に詰まらせる。
「本来なら、あり得ません。たとえ不況だとしても、最低限の生活を保障する制度はあるはずです。ですが、ですがこの惨状です。今回の件で問われているのは、この家族の禁忌への接触だけではないのかもしれません」
「どういう意味だ?」
「手当や、法による救済措置、それらが、この一家に正しく届いていなかった可能性がある、ということです。救えたはずの命を、制度の綻びが見逃したのだとしたら……問われるべきは、この街の在り方そのものかもしれない」
ルフィリアの震える声を聞きながら、俺はふと、以前ロロアとこの街を回っていた時のことを思い出した。
「なあ、ルフィリア。ロロアとこの前、街を見て回った時、収容院には結界があるって」
俺の言葉に、ルフィリアの顔色が劇的に変わった。その刹那、リュミの魔法によってできた魔法の痕跡をかたどっていた青白い粒子が、奇妙な動きを見せ始めた。 重力に逆らうように揺らめき、外へ流れていくはずの煙が、逆流するようにして一箇所へと集まっていく。アゼルの亡骸が横たわる、あの剥がされた床板の暗がりの方へ。
「……? 何?」
リュミが、俺の手を握りしめる力を強めた。 最初は、光の加減による見間違いだと思った。だが、アゼルの亡骸を包んでいた毛布が、内側からボコボコと不自然に波打ち始めたのだ。 それは、呼吸のような規則正しいものではない。 死体の中に無数の虫が入り込み、一斉に蠢き出したかのような、あるいは内側から何者かが鋭い爪で布を切り裂こうとしているかのような、生理的な嫌悪感を煽る動きだった。
「いけない!」
ルフィリアが、弾かれたように叫んだ。
「収容院の結界、あれは、患者を隔離するためだけにあるんじゃない!」
現実崩壊症によって命を落とした者の精神は、底なしの悪夢へと繋がっている。 魂が肉体を離れた後、行き場を失った悪夢は、肉体を苗床にしてこの世界に溢れ出すのだ。 通常、収容院の強力な結界はそれを封じ込め、浄化する。だが、ここはただの民家だ。結界など、どこにもない。 しかも、アゼルが息を引き取ってから、もう何日も経っている。澱んでいたのは、腐敗臭だけではなかったのだ。
「小林さん! 全員を下げて!! 早く!!」
ルフィリアの怒号と同時に、アゼルの遺体が、ガタガタと不自然に跳ね上がった。
ズルリと。 アゼルの口、鼻、そして死後硬直で固まっているはずの指先、さらには毛布の隙間から、まがまがしく黒い何かが溢れ出した。 それは液体なのか、あるいは蠢く無数の細かい影の集合体なのかもわからない。 どろりと床を侵食していくその黒い物質は、周囲の光をすべて吸い込むような、不自然なほど深い闇を湛えている。
「あ……ああ……アゼル……?」
父親が、腰を抜かしたまま後ずさる。 黒い塊は、アゼルの肉体を芯にするようにして取り込みながら、ゆっくりと、執拗に質量を増していった。 栄養のない夢で胃を膨らませ続け、飢えと嘘で塗り固められた彼の人生の最期が、今、物理的な形を持ってこの世界に産み落とされようとしていた。 黒い泥のような物体が、次第に垂直方向へとせり上がっていく。 重力に逆らい、粘り気を持ちながら、それはゆっくりと時間をかけて、バキバキッと骨が軋み、折れるような嫌な音を立てながら 一つの形を模していった。
関節があらぬ方向に曲がり、胴体が不自然に引き伸ばされ、四肢はまるで飢えた獣の脚のように長く、鋭くなっていく。 そして、顔であったはずの場所には、目も鼻も、慈愛に満ちていたはずの表情もなく、ただ一つの巨大な穴がぽっかりと開いた、まぎれもない異形だった。
アゼルが最期まで抱えていた、永遠に満たされることのない飢え。 家族を守らなければならないという、強迫観念に近い祈り。 それらが数日間の腐敗を経て、悪夢の怪物へと変容を遂げてしまったのだ。
「アアァァァァ!」
怪物の空洞の奥から、掠れた呻きが漏れる。 黒くうねる異形の手が、ゆっくりと、何も知らずに泣き崩れる妹の方へと伸びていく。 亜神であるロロアは、ただその光景を、絶望に濡れた瞳で見つめることしかできなかった。
窓から差し込む夕刻の斜光が、もはや人ではない異形となったアゼルの影を、血のような赤色に染め上げていた。 部屋を埋め尽くす黒い残滓が、すべてを飲み込むように広がっていく。 床に落ちた小さな花は、すでに黒い泥に飲み込まれ、その色を失っていた。




