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蓮の檻  作者: echo
1章

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18/19

17話

 剥き出しの遺体から立ち昇る死臭は、開け放たれた窓から流れ込む冷たい風に掻き消されるどころか、いっそう生々しく、鼻腔の奥にこびりついた。それは、隠蔽されていた死という現実が、ついにこの家を支配した瞬間だった。

 床板の下から姿を現したアゼルは、ただ、眠っているようだった。だが、その頬は土色に痩せこけ、愛用していたという毛布は、腐敗の液を吸って重く沈んでいる。彼が最期まで守ろうとしたはずの日常は、今や見る影もなく、ただ湿った土の匂いと混ざり合っていた。

 剥き出しの慟哭が、四方の壁に跳ね返る。父親は土の上に膝をつき、変わり果てた息子の肩を掴んで、震える声でその名を呼び続けていた。俺たちは、動くことができなかった。リュミは俺の腕に顔を埋め、声も出さずに震えている。彼女の小さな指先が俺のコートを掴む強さが、この惨状への怯えと、行き場のない悲しみをそのまま伝えてきた。

 その重苦しい静寂を破ったのは、ルフィリアだった。彼女は、いつもの凛とした背筋をわずかに丸め、泣き崩れる両親のそばへと歩み寄った。彼女の革靴が床板を鳴らす音さえ、今はひどく不謹慎な響きに感じられる。だが、ルフィリアがその場に膝をつき、父親の目線に合わせて腰を下ろしたとき、彼女から発せられたのは法による糾弾ではなかった。


「事の責を取らせるために、ここへ来たのではありません」


 ルフィリアの声は、掠れていた。徹夜の調査で充血したその瞳を、彼女は背けることなく父親に向けた。


「ただ、教えてください。なぜ、アゼルさんは……そしてご家族の皆さんは、魔族の力まで借りて、このような道を選ばなければならなかったのですか?」


 その問いかけは、あまりにも静かで、あまりにも優しかった。父親は、しばらくの間、ただ遺体に縋って咽び泣いていたが、やがて、絞り出すようにぽつりぽつりと話し始めた。その告白は、この平穏に見える町の片隅で、静かに、だが確実に進行していた「崩壊」の記録だった。


 数期前から、この家の暮らしは徐々に、だが決定的に傾き始めていたという。アゼルと父親。男二人の稼ぎがあれば、贅沢はできずとも、家族四人が笑って食卓を囲むことはできていた。だが、町を覆う不況は、弱い者から順にその足場を奪っていく。仕事が減り、報酬が削られ、昨日まで買えていたパンが、今日は半分しか買えなくなる。そんな日々が、雨漏りのようにじわじわと彼らの精神を侵食していった。


「あの子は……アゼルは、まだ幼い妹にだけは、ひもじい思いをさせたくないと……そればかりを気に病んでいました」


 父親の声に、母親が嗚咽を漏らしながら頷く。アゼルは、家族の中で誰よりも繊細で、誰よりも家族を愛していた。特にかわいがっていた妹が、空腹で眠れない夜に漏らす小さな溜息。それを聞くたびに、アゼルの心には鋭いナイフが突き立てられるような痛みがあったのだろう。


「いつからだったでしょうか。あの子が、食事の時間に姿を見せなくなったのは」


 最初は、仕事が忙しいからという、ありふれた理由だった。「外で食べてきたから、僕の分はみんなで分けてよ」そう言って、アゼルは屈託のない笑みを浮かべていたという。仕事の合間にパンを囓ったとか、親方から差し入れをもらったとか、そんな嘘を丁寧に積み上げて、自分の皿に乗るはずだった食事を、成長期の妹や、疲れ切った両親へと譲り続けた。


 だが、そんな自己犠牲を家族が見過ごすはずもなかった。明らかに痩せ細り、頬がこけていくアゼルの姿に、家族は激しい不安を覚え、彼を厳しく問い詰めた。


「『ちゃんと食べなさい』って、何度も何度も叱ったんです。そんな嘘はつかなくていい、みんなで少しずつ分ければいいんだからって……!」


 母親が、涙で汚れきったエプロンの端を握りしめる。家族に叱られ、アゼルは一度は食卓に戻った。家族の前でパンを口にし、安堵させる。家族は、ようやく彼が自分を大切にしてくれるようになったのだと、そう信じようとした。だが、それがさらなる悲劇の始まりだった。


 アゼルは、自分のせいで家族が口にする食事の量が減ることに、どうしても耐えられなかった。自分が食べれば、妹のパンが薄くなる。父親のスープが薄まる。その罪悪感に押しつぶされた彼は、ついに「禁忌」に手を伸ばしたのだ。夢の力を使って、実体のない「食事」を創り出し、空腹を紛らわせる方法。アゼルはそれを、家族の目すら欺くために使った。


 食卓で家族と共に座り、手に持ったパンを口に運ぶ。家族の目には、彼がしっかりと食事を摂っているように見えていた。だが、それは巧妙に隠された「夢の残滓」だった。彼は家族を安心させるためだけに、実体のない虚像を飲み込み、笑ってみせた。家族がその事実に気づいたのは、かなり後のことだった。ふとした瞬間に、アゼルが口に運んでいるはずの食べ物が、どこか不自然に揺らいで見えたのだ。


「気づいたときには、私たちは血の気が引く思いでした。あの子を怒鳴りつけ、泣きながら縋って、そんなことは今すぐやめてくれと……必死に止めたんです……!」


 父親の声が震える。家族は決してそれを許容しなかった。泣いて止め、無理やりにでも本物の食事を摂らせようとした。だが、アゼルの心はすでに壊れかけていた。自分を犠牲にすれば家族が守れるという、呪いのような献身。栄養のない夢で体を満たし続けた代償は、あまりに無慈悲に訪れた。


 現実を夢の力で上書きし続ける。その無理な行使は、彼の精神そのものを削り取っていった。現実と夢の境界線が曖昧になり、彼が現実崩壊症を発症した頃には、すべてが遅すぎたのだ。アゼルの意識はすでに、空腹のない「夢の底」へと沈み込んでしまっていた。


 父親が魔族にまで縋った理由。それは、最期くらいは嘘のない場所で看取ってやりたいという、あまりに哀しい贖罪だった。

「私たちは……あの子の命を食べて生き延びてしまった……!」

父親は、床を叩き、血が滲むほどに己を責めた。


 ルフィリアは溢れる涙を拭おうともせず、ただ黙って両親の言葉を受け止めていた。そしてロロア。彼女はこの凄惨な独白の最初から最後まで、一言も発することなく立ち尽くしていた。死臭の漂う部屋の真ん中で、彼女の紫色の瞳は、横たわるアゼルを、恐ろしいほどの静寂を持って見つめていた。


 

その時だった。


 静まり返った家の前に、軽やかな足音が近づいてきた。


「ただいまー! お母さん、お父さん!」


 幼く、弾むような少女の声。それはアゼルの妹だった。  凍りついた室内。両親が弾かれたように顔を上げる。父親が慌てて床板を戻そうとしたが、指が震えてうまく力が入らない。


「今日ね、お花見つけたの! お兄ちゃんにお土産にするんだー!」


 扉が開く。外からの光が差し込み、お香の煙と死臭が混ざり合う居間を照らし出した。  そこに立っていたのは、小さな花を大事そうに抱えた少女だった。彼女は、部屋に集まった見知らぬ大人たちと、何より、床の上に横たわる「それ」を見て、動きを止めた。


「あれ……? お兄ちゃん……?」


 少女は首を傾げた。


「お兄ちゃんは、お医者さんのところに行って、今治療してもらってるって言ってたよね……?」


 彼女の視線の先には、土に汚れ、どろりと変色した毛布に包まれた、動かない兄の姿がある。

「お兄ちゃん、お家に帰ってきたの? ねぇ、起きてよ。お花持ってきたよ……?」


 一歩、また一歩と、少女が遺体へと近づいていく。  母親が、悲鳴にも似た声を漏らして娘を抱きとめようと飛び出した。


 窓から吹き込む風が、少女の抱えていた花びらを散らしていく。 アゼルが命を懸けて守ろうとした嘘が、最悪の形で瓦解していく音を、俺は聴いた気がした。

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