16話
アゼルの自宅へと続く道は、昼間だというのに人通りが少なく、不気味なほど静まり返っていた。
「行きます」
ロロアが、ルフィリアと俺を背に一歩前に出た。彼女の顔は蒼白だが、その瞳には逃げ場を失った覚悟のようなものが宿っている。ルフィリアがノックをしようと手を伸ばしたが、ロロアがそれを制した。
「るーちゃんの声じゃ、あいつらは開けない。……アタシがやる」
ロロアは震える拳を握り直し、扉を力強く叩いた。
「アゼルさんのご家族の方、ロロアです。開けてもらえますか」
その声は、いつもの快活な「亜神ロロア」のものではなかった。どこか、追い詰められた子供が叫ぶような、必死な響きが含まれていた。 家の中から、ガタガタと何かが倒れるような物音が聞こえた。やがて、重いかんぬきが外される音が響き、ゆっくりと扉が開く。
「……ロロア、様……」
扉の向こうから現れたアゼルの母親は、もはや拒絶する気力さえ残っていないほど疲れ切っていた。彼女は扉の前に立つロロアと、その背後にいる俺たちの姿を認めると、一瞬だけ目を見開いたが、すぐに力なく視線を落とした。
「……皆様、お揃いで。……さあ、中へ入ってください」
母親は諦めたような表情で扉を大きく開き、俺たち全員を家の中へと招き入れた。 室内は、外で感じたよりもさらに強烈なお香の匂いで充満し、白く煙っている。薄暗い部屋の奥では、父親が虚空を見つめたまま座り込んでいた。
俺たちは促されるまま、居間の椅子に腰を下ろした。沈黙を破ったのは、真っ直ぐに一家を見据えたルフィリアだった。
「……昨晩、詰め所の記録をすべて精査しました。お父様が魔王国へ向かい、アゼルさんが収容院から消える前日に、この町へ戻ってきている記録も確認しています。アゼルさんを連れ出すために、魔族の力を借りたのですね?」
ルフィリアの問いかけに、父親が弾かれたように顔を上げた。
「……それがどうした! 証拠なんてどこにある! 帰れ、今すぐ出ていけ!」
父親は机を叩き、剥き出しの敵意で俺たちを睨みつけた。俺は、俺の服の裾をぎゅっと掴んで震えているリュミの肩を、そっと抱き寄せた。
「リュミ、お願いだ。昨日見つけたあの跡が、見間違いじゃないってことを……みんなに見せてあげてほしい」
俺が静かに促すと、リュミは顔を上げ、不安げに俺の目を見つめた。だが、俺が頷くのを見ると、彼女は小さく息を吐き、意を決して一歩前に出た。
リュミがそっと手を掲げると、指先から、キラキラと輝く微細な魔力の粒子が溢れ出した。それは夜空の星を砕いて散らしたような、幻想的な光の群れだった。光の粒子は意志を持っているかのように部屋の空気を泳ぎ、ある一点――玄関のすぐ近くの床へと吸い寄せられていく。
銀色の粒子が何もないはずの虚空に付着した瞬間、そこには青白く光る歪な紋様が、どろりと、そして鮮やかに浮かび上がった。
「なっ……なんだ、それは……!」
父親が顔をひきつらせる。その動揺を逃さず、ルフィリアが静かに告げた。
「これが、魔族に協力を仰いだ証拠です。あなたが息子さんを連れ出すために使った、魔法の跡ですよ」
突きつけられた事実に、父親は狂ったように叫んだ。
「こんなもの、ただの光じゃないか! 言いがかりだ!」
「……もういいのよ、あなた。もう、やめましょう……」
「何を言ってるんだ! アゼルを守るんだろ、私たちが――」
「アゼルはもういないのよ!!」
母親の悲鳴のような叫びが、煙る室内に響き渡った。父親は言葉を失い、凍りついた。しかし、それでもなお、必死に虚勢を張り続けようとする。ルフィリアはそんな父親を充血した瞳で見据え、静かに、だが揺るぎない口調で命じた。
「……小林さん、この家の窓をすべて開けてください。ロロア、そのお香をすべて消して」
ルフィリアの冷徹な指示に、父親が叫ぶ。 「なっ、何をする! やめろ!!」
俺は制止を振り切り、窓を次々と開け放った。ロロアも無言のまま、魔法で香炉の火を次々と消し止めていった。
「触るなと言っているだろう!!」
父親の制止はむなしく、新鮮な空気が流れ込み、煙が外へと吸い出されていく。 数秒後。お香の香りが薄れると同時に、別の匂いが漂い始めた。鼻の奥にねっとりと張り付くような、逃れようのない腐敗臭だ。
「……っ」
ルフィリアが口元を押さえる。俺は、その匂いが最も強く漂い出す場所――居間の隅にある、わずかに浮き上がった床板に手をかけた。
ゆっくりとそれを剥がすと、そこには、土の上に厚く敷かれた白い布と、彼が愛用していた毛布に包まれて横たわるアゼルの姿があった。不法に連れ出した負い目と、せめて家で過ごさせたいという歪んだ親心が、遺体をここに安置させていたのだ。
「あ……」
初めて見る本物の死体と、鼻を刺す強烈な死臭。リュミは衝撃に顔を青ざめ、目を見開いて硬直した。彼女はたまらず片手で鼻を強く押さえ、もう片方の手で、助けを求めるように俺の手をぎゅっと握りしめてきた。その小さな手は、見たこともないほど激しく震えている。
変わり果てた息子の姿を前に、両親は重なり合うようにして泣き崩れた。 ロロアは、その凄惨な光景と立ち込める死臭の真ん中で、ただじっと、それを見つめていた。




