15話
聞き込みを終えてルフィリアの屋敷に戻る頃には、空はすっかり濃い藍色に染まっていた。屋敷の大きな門が見えてきたところで、ずっと俺たちの前を無言で歩いていたロロアが、唐突に足を止めた。
「あー、ごめん。アタシ、思い出した。ちょっと別の用事があったわ」
振り返った彼女は、いつものように軽い調子を装っていた。だが、その瞳は笑っておらず、俺やリュミと視線を合わせようともしない。
「え、でも、これからルフィリアと情報を合わせるんじゃ」
「いいのいいの! るーちゃんにはアタシから後で適当に連絡しとくから。じゃ、そういうことで!」
引き止める間もなかった。ロロアはひらひらと手を振ると、逃げるような速さで自分の屋敷がある方向へと去っていった。その背中は、夜の闇に吸い込まれるようにして、あっという間に見えなくなった。
「なんだか、すごく急いでたみたい」
リュミがぽつりと呟く。聞き込みで見えてきたお香の話や、閉ざされた家。それが彼女にとって、どれほど触れたくない記憶を呼び起こすものだったのか、俺にはまだ推し量ることしかできなかった。
俺とリュミが屋敷の中に入ると、エントランスにはルフィリアが待ち構えていた。彼女の足元には、憲兵の詰め所から借り受けてきたと思われる、古い羊皮紙や綴り束が山のように積み上げられている。
「おかえりなさい。ロロアはどうしたのですか?」
「別の用事があるって、自分の屋敷に帰ったよ。かなり参ってるみたいだった」
俺の言葉に、ルフィリアは意外そうに目を瞬かせた。
「参っている? ロロアが、ですか? ……あの子にしては珍しいですね。体調でも崩したのでしょうか。いつもはもっと、お祭り騒ぎのように賑やかな人なのですが」
ルフィリアは首を傾げ、少し心配そうにロロアが去ったであろう扉の方を見つめた。
「ですが今は、私たちが止まるわけにはいきません。今は調査を優先しましょう」
ルフィリアは気持ちを切り替えるように顔を上げ、俺たちを食堂へと促した。温かいスープの香りが漂う食堂で、俺たちは聞き込みで得た情報をルフィリアに伝えた。 一週間前からアゼルの家族が外に出ていないこと。窓を閉め切り、洗濯物すら出していないこと。そして三日前に母親が、大量のお香だけを買い占めていったこと。
話を聞き終えたルフィリアの手が、スープのスプーンを握ったまま止まった。
「お香をそこまで焚かなければならない理由が、あの家の中にはあるということです。例えば、何かの臭いを隠さなければならないような……。それも、生活を犠牲にしてまで優先しなければならない、何かを」
ルフィリアは自身の推論に不安を覚えたのか、言葉を飲み込むと、テーブルの傍らに置かれた分厚い羊皮紙の束へ視線を移した。
「ごめんなさい。私も詰め所から持ってきたばかりで、まだ精査には至っていないのです。このルシェラに入国した魔族の方々の記録、あるいはアゼルさんのご家族が魔王国側へ向かった形跡がないか。数千人分のリストを一つずつ照合するには、どうしても一晩かかってしまいます」
「アゼル君たち、大丈夫かな」
リュミが小さな声で言った。
「リュミ、悪いけど明日はまたあの家に行ってもらうことになると思う。君の、魔法の跡を見る力で、もう一度だけ確認してほしいんだ」
「うん、わかった。あたし、頑張るよ」
リュミは力強く頷いたが、その小さな手は膝の上で少しだけ震えていた。このルシェラの穏やかな空気の下で、確実に何かが変わり始めている。
その夜、俺は客間に戻ってもなかなか寝付けなかった。耳を澄ませば、隣の執務室でルフィリアが羽ペンを走らせる音と、羊皮紙をめくる音がかすかに聞こえてくる。彼女は一睡もせずにあの膨大な記録と向き合い、アゼルの一家と魔王国の接点を探し続けるつもりなのだ。
一方で、逃げるように帰っていったロロアのことも気にかかる。お香、閉め切られた窓、そしてアゼルの失踪。バラバラのピースが頭の中で形を成そうとしては、冷たい予感となって消えていく。俺は暗い天井を見つめながら、夜の静寂の中に、あの澱んだ空気の感触を探していた。
翌朝、ルフィリアの屋敷の食堂には、張り詰めたような静寂が流れていた。 テーブルの上には、徹夜の末に整理された数枚の書き付けが置かれている。それを見つめるルフィリアの横顔は、一晩で数年も歳を重ねたかのように険しく、そして沈んでいた。
「……終わりました。記録の精査、すべて完了しました」
ルフィリアが掠れた声で告げる。その手元の紙には、いくつもの印が付けられていた。彼女の目はわずかに充血し、羽ペンを握りしめていた指先は白く震えている。
「ルフィリアさん、まさか、一睡もしてないですか?」
俺が驚いて声をかけると、彼女は力なく微笑み、乱れた髪を耳にかけた。
「これしき、なんてことはありません。それよりも、一刻も早く真実を掴みたかったのです。」
「無理しすぎですよ。倒れてしまったら元も子もないのに。でもありがとうございます、ここまで調べてくれて。」
俺の言葉に、ルフィリアは一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、やがてふっと表情を和らげた。
「ありがとうございます、小林さん。」
彼女は再び、机の上の書類に視線を落とした。
「これが精査の結果、そして、それもとに私が立てた予測です。」
「それで結果は?」
「一刻も早く伝えたいのですが、その前に、小林さん。アゼルさんの家に向かう前に……一度、ロロアの様子を見に行きませんか。やはり気になってしまって」
「ああ、俺も同じです。かなり無理して感じがして」
俺と、少しだけ休息をとったルフィリア、そしてリュミの三人は、昨晩の記録を携えてロロアの屋敷へと向かった。
俺とルフィリア、そしてリュミの三人は、昨晩の記録を携えてロロアの屋敷へと急いだ。
ロロアの屋敷は、朝日を浴びて静まり返っていた。メイドに案内され、執務室の扉の前に立つ。ルフィリアが一度小さく呼吸を整え、ノックをした。
「ロロア、入りますよ」
扉を開けると、そこには窓際の椅子に深く腰掛け、ぼんやりと外を眺めているロロアの姿があった。一見すると、いつもの彼女と変わらない落ち着いた佇まいに見える。
「あ……るーちゃん。それに小林にリュミちゃんも。みんな揃ってどうしたのさ」
ロロアはゆっくりとこちらを向き、微かな笑みを浮かべた。だが、その声にはいつものような張りがなく、どこか遠くから響いているような虚ろさがあった。
「昨日、急に帰ってしまったから心配で見に来たのです。体調でも悪いのですか?」
ルフィリアが歩み寄り、ロロアの顔を覗き込む。ロロアは短く首を振った。
「別に、体調なんて悪くないよ。ただ……ちょっと、考え事してただけ」
冗談めかして言うものの、その瞳の奥には拭いきれない影がへばりついている。ルフィリアは意を決したように、持ってきた記録を机の上に広げた。
「ロロア。……出入国の記録の精査、終わりました。あの一家が何を隠しているのか、その裏付けが取れました」
その言葉を聞いた瞬間、ロロアの指先が微かに震えた。
「そう。それで、何が分かったのさ」
「この一ヶ月、外部からこの町に入った魔族は一人もいません。ですが、アゼルさんの父親……彼が、一週間ほど前に一人で魔王国へ向かい、アゼルさんが収容院からいなくなる一日前に、一人でこの町へ戻ってきている記録を見つけました」
「なるほど、魔族の協力を仰いだのか。アゼルを連れ出すために」
俺が呟くと、ロロアは両手で顔を覆い、深くため息をついた。その隙間から漏れた声は、ひどく冷めていた。
「バカだよ。そんなことしたって、どうにもならないのに」
その言葉に、ルフィリアが静かに反論する。
「ですがロロア、家族にとってはそれが唯一の希望だったのかもしれません。最期を自宅で過ごさせてあげたいと願うのは……」
「そんなの、ただの自分勝手でしょ。結局、後始末もできずに周りに迷惑かけてるだけじゃん」
ロロアの突き放すような物言いに、ルフィリアは少しだけ眉をひそめた。
「言い過ぎです、ロロア。彼らだって、好きでこんな状況を選んだわけではないはずです」
「はいはい、るーちゃんは優しいね。」
ロロアは投げやりにそう言うと、椅子から立ち上がった。二人の間に、どこか噛み合わない気まずい沈黙が流れる。
「……ごめん。今の、アタシが悪かったわ。」
ロロアは短く謝ると、視線を逸らしたまま出口の方へ歩き出した。
「ちょっと、一人になりたいから。悪いけど、今日はもう帰って」
彼女は俺たちの方を見ることなく、そのまま部屋を出ていってしまった。
残された俺とルフィリア、そしてリュミは、しばらくその場に立ち尽くしていた。お香を焚かなければならない理由。窓を閉ざし、周囲との接触を絶つ理由。すべてが、一つの残酷な結末へと繋がっていく。
「行きましょう、小林さん。私たちが確かめなければならないことは、まだ残っています」
その時、隣にいたリュミが俺の服の裾を控えめに引いた。
「……あの、お兄ちゃん。あたし、ちょっとお手洗い……」
「ああ、分かった。ルフィリア、少し待っててくれるか」
俺はリュミを連れて廊下に出た。メイドに場所を聞き、リュミを待っている間、俺は一人で手持ち無沙汰に廊下の窓から外を眺めていた。すると、少し離れた柱の影に、背中を預けて座り込んでいるロロアの姿を見つけた。
「……ロロア」
声をかけると、彼女はびくりと肩を揺らし、気まずそうに顔を上げた。
「小林。るーちゃんたちは?」
「部屋にいるよ。……これから、アゼルの家に行くつもりだ」
俺の言葉に、ロロアは再び床へ目を向けた。その瞳は、何か恐ろしいものを見ているかのように微かに震えている。
「アタシも、一緒に行くわ」
「え……いいのか? 一人になりたいって……」
「いいの。それに……」
ロロアは自嘲気味に鼻で笑うと、震える膝を叩いて立ち上がった。
「……アタシ自身が、納得いかないのさ。この病気も、全部。それだけ」
やがて戻ってきたリュミの隣に、俺と並んで歩くロロアの姿を見て、ルフィリアは手に持っていた資料を落としそうになるほど驚き、目を丸くした。
「ロロア? ……どうしたのですか。一人になりたいと言って、部屋を出たはずでは……」
ルフィリアの視線は、ロロアの顔を不安そうに彷徨う。急に意見を翻した親友の真意が掴めず、混乱しているのが見て取れた。ロロアは一瞬だけ気まずそうに視線を逸らしたが、すぐにいつものような、どこか投げやりな笑みを作ってみせた。
「あはは、るーちゃん顔怖いって。……ちょっと外の空気吸ったら、頭が冷えただけだよ。アタシがいないと、るーちゃん達じゃ心細いでしょ?」
「ですが、顔色が良くありません。無理をしているのではありませんか?」
「してないしてない! さあ、行くんでしょ? ほら、時間がもったいないじゃん!」
ロロアはルフィリアの心配を振り払うように、先に立って歩き出した。ルフィリアはその背中をしばらく見つめていたが、やがて俺の方を振り返り、困ったように眉を下げて小声で耳打ちしてきた。
「……小林さん。ロロアと何を話したのですか?」
「……何かな。ただ、ロロアさんなりに思うところがあるみたいだ」
「そうですか。」
ルフィリアはそれ以上追及することを諦めた。だが、その瞳には親友への隠しきれない懸念が残ったままだ。
こうして、どこかちぐはぐな空気感を抱えたまま、俺たち四人は再びアゼルの自宅へと向かった。




