13話
翌朝、窓から差し込む鋭い日差しが、俺のまぶたを無理やり押し上げた。 重いカーテンの隙間から漏れる一筋の光には、昨夜の激しい雨の名残はなく、代わりにあらゆる不純物を洗い流したような透明な空気が部屋を満たしている。
「……う、痛てて……」
ソファで変な体勢のまま固まっていたせいで、背中から腰にかけて嫌な鈍痛が走る。俺は小さく呻きながら体を起こし、まだ夢の中にあるベッドの方へ視線をやった。そこには、昨夜の静かな余韻をそのまま形にしたような光景があった。
リュミは枕をぎゅっと抱きしめたまま、小さな寝息を立てて丸まっている。その足元では、ルパが布団を器用に、そして厚かましく独占し、長い尾をリュミの足首に絡めるようにして、まるで巨大な毛玉のように眠りこけていた。
俺はできるだけ音を立てないようにソファを抜け出し、準備のために一度への外に出ようと入口に歩いていくと、扉の向こうから、きびきびとした足音が近づいてくるのが聞こえた。
「小林さん、入りますよ。出発の準備を――」
ノックとほぼ同時に、いつも通り凛とした姿のルフィリアが入ってきた。だが、彼女の言葉は、ベッドの上の光景を目にした瞬間に止まった。
「ルパ、またですか」
ルフィリアは呆れたように腰に手を当て、深い溜息をついた。ルパが主人のベッドを占領するのは、これが初めてではない。
「リュミはともかく、まったく、また小林さんの厚意に甘えて」
亜神としての威厳を湛えつつも、どこか諦めたような、それでいて親愛の情を隠せない微笑を浮かべる。
「小林さん、彼女たちが起きたらすぐに身支度を整えさせてください」
「わかりました」
俺は苦笑いしながら、幸せそうに眠るリュミの肩を優しく叩いて起こした。目をこすりながら起き出したリュミと、最後まで寝惚けていたルパを急かし、朝食もそこそこに俺たちは出発の準備を整えた。
「よし、行こう」
俺の声に応えるように、リュミが小さく頷いた。
屋敷を出て、朝の光が残る街並みを徒歩で進む。昨夜の雨が嘘のように晴れ渡り、石畳の道は濡れて黒光りしていた。活気を取り戻し始めた市場の喧騒を通り抜け、俺たちは少し落ち着いた平民の居住区へと足を向けた。
目的地であるアゼルの自宅は、通り沿いに並ぶ、ごくありふれた二階建ての住居だった。だが、隣近所の家が窓を開けて洗濯物を干したり、朝の掃除をしたりしている中で、その家だけが固く唇を結んだように沈黙している。
「ここが、アゼルの家……」
リュミは軒先を見上て異様な雰囲気を感じ取ったのか、静かに息をのむ。
「ごめんください! 収容院の方から来ました。アゼル君のことで、お話があります!」
俺はドアをノックしながら、家の中にいる人間に聞こえるくらいの声量で呼びかけるが返事はない。
だが、扉のすぐ向こう側で、誰かがじっとこちらの様子を伺っているような、肌を刺すような視線を感じた。俺は何度か声を張り上げ、扉を叩き続けた。それでも沈黙を貫く住人に、隣にいたルフィリアが、一歩前へ出る。
「失礼いたします。ルフィリア・ロイ・リヴァリタスです。至急、確認したいことがございます。……開けていただけませんか」
その亜神の清廉な声が響き渡った直後だった。家の中から、カチリ、と小さな鍵の外れる音がした。ゆっくりと、まるで中にある何かを隠しながら外を見るように、玄関の扉が数センチだけ隙間を作った。
「……あ、あの……ルフィリア様、でしょうか」
隙間から漏れ出してきたのは、日の光を拒むような暗がりと――そして、どこか鼻をかすめる、独特な香りの気配だった。
その感触が鼻を突いた瞬間、俺の胸の奥で、正体の知れない既視感がざわめいた。
俺とルフィリアは、示し合わせたわけでもなく視線を交わした。彼女の瞳にも、言葉にできない微かな警戒の色が混じっている。扉の奥では、憔悴しきった様子の女性が、怯えるような瞳で俺たちを見上げていた。
「どうぞ、中へ……」
促されるままに足を踏み入れた先は、外界の明るさから切り離された別世界のようだった。リビングは昼間だというのに厚手のカーテンがすべて閉め切られ、廊下の隅で静かに燻る小さな火影が、辛うじて視界を確保している。
その淀んだ空気の中に身を置いたとき、俺の中で、うまく形にならない違和感がじわりと広がった。なぜだか分からないが、以前に同じような「空気」をどこかで知っている気がして、嫌な汗が背中を伝った。
ソファには、アゼルの父親が疲れ切った様子で座っていた。その傍らでは、アゼルの妹と思われる幼い少女が、不安げに母親の裾をぎゅっと握りしめている。
「……こんな朝早くに、一体何事ですか。ルフィリア様までお越しになるとは」
父親は困惑したような表情で俺たちを見た。俺は一度ルフィリアと視線を交わし、意を決して切り出した。
「アゼル君のことについて、大切なお知らせがあります。……実は、彼は四日前に収容院から姿を消しました。現在、総出で捜索を行っていますが、まだ足取りが掴めていません」
俺の言葉が終わるか終わると、父親が机を激しく叩いて立ち上がった。
「四日前だと!? ……ふざけないでくれ! なぜそれを今さら言いに来るんだ! 管理もまともにできないのか! 四日も経ってから報告に来るとは、収容院はどうなっているんだ!」
「そんな、アゼルが……ひどすぎます!」
母親も隣で顔を覆い、震える声で叫ぶ。 突きつけられる怒りはもっともだ。俺は一度、深く頭を下げた。
「報告が遅れたことについては、弁解の余地もありません。本当に申し訳ありませんでした」
俺は頭を上げ、怒りに震える父親の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「ですが、一点、どうしてもお聞きしたいことがあります。あの日――四日前まで、あなた方は毎日欠かさずお見舞いに来ていたはずです。あの子をあんなに心配していた家族が、なぜ、あの日を境にパタリとお見舞いをやめたのですか?」
「ですが、一点、どうしてもお聞きしたいことがあります。あの日――四日前まで、あなた方は毎日欠かさずお見舞いに来ていたはずです。あの子をあんなに心配していた家族が、なぜ、あの日を境にパタリとお見舞いをやめたのですか?」
父親の表情が、一瞬だけ硬直した。
「それは……家内も私も、急に体調を崩してしまってな。それどころじゃなかったんだ」
「二人同時に、ですか?」
俺が静かに問い重ねると、父親は逃げるように目を逸らし、さらに激しい口調で叫んだ。
「ああ、そうだ! それよりもあの子の捜索が先だろう! 早く帰って探してくれ! もうあんたたちの顔なんて見たくない!」
父親は半ば強引に俺たちの背中を押し、追い出すように玄関へと追いやった。バタン、と重い音を立てて扉が閉められ、即座に鍵がかかる音が響いた。朝の冷たい空気に放り出された俺たちは、しばし無言でその閉ざされた扉を見つめていた。
「……小林さん」
不意に、リュミが俺の袖を引いた。家に入る前、俺は彼女に「収容院の時みたいに、魔法の痕跡がないか見てほしい」と頼んでいた。
「リュミ。どうだった?」
リュミは、今しがた閉ざされたばかりの玄関の床板を指差し、声を潜めて言った。
「……うん。玄関に入ってすぐのところに、かすかに残ってた。昨日、収容院で見たのと同じ……魔法の跡だよ。すごく弱かったけど、間違いない」
その言葉に、俺とルフィリアは息を呑んだ。四日前から見舞いに来なくなった家族。そして、収容院とこの家を結ぶ魔法の糸。
俺は、沈黙を守り続けるその家をもう一度見上げた。俺は隣に立つリュミに向き直り、問いかける。
「リュミ、その跡からもっと詳しいことは分からないか? どんな魔法だったのかとか」
リュミは床板をじっと見つめ、やがて小さく首を振った。
「そこまでは分からない。ごめん」
消えかかった跡を見つけるのが精一杯なのだろう。申し訳なさそうに俯く彼女の頭を、俺は軽く撫でた。
「いや、いいんだ。それだけで十分だよ。ありがとな」
「詳細までは分からなくても、アゼルの家族は、魔法によって運ばれてきたアゼルを、この部屋のどこかに匿っている。そして、それを隠すために私たちに嘘をついた。……そう判断して間違いありませんね、小林さん」
ルフィリアが、氷のように冷たく、けれど鋭い声で言った。その視線は、固く閉ざされた玄関の扉を射抜いている。
「ああ。確信に変わったよ」
すべては、この薄暗い扉の向こう側に繋がっている。




