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蓮の檻  作者: echo
1章

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13/18

12話

降り続いていた雨は夜になっても止む気配を見せず、石造りの屋敷を低く重い音で包み込んでいた。だが、そんな外の寒々しさとは対照的に、屋敷での夕食は、凍えた心を解きほぐすような和やかなものだった。


 食堂の大きなテーブルには、たっぷりの根菜と肉を形がなくなるまで煮込んだシチューが並び、そこから立ち上る白い湯気がランプの光に透けて揺れている。傍らには、厨房でたった今焼き上げられたばかりのパンが、香ばしい匂いを振りまきながら山盛りにされていた。


 大きな椅子にちょこんと座ったリュミは、銀のスプーンを握りしめ、熱々のシチューを一生懸命にふうふうと冷ましながら頬張っている。一口ごとに頬を緩ませ、満足げに目を輝かせる彼女の幼い姿は、今日一日の過酷な調査を一時忘れさせてくれるものだった。そんな彼女を、ルフィリアも慈しむように、聖母のような穏やかさで優しく目を細めて見守っていた。


 食後、温かな余韻を残したまま、リュミは使用人に案内されて客間へと退いた。俺は自分の部屋へと戻り、机に向かってルパと共に日課である文字の練習を始めていた。机の上に置かれたオレンジ色のランプが、室内を柔らかく、けれど濃い陰影で縁取っている。古いインクの匂いと、時折窓を叩く雨の音。その静寂の傍らには、すでに半分夢の中へ片足を突っ込んでいるルパがいた。


「そこはもっとこう、ぐいっと書くんです。」


 ルパは長い欠伸を噛み殺しながら、やる気なさげに長い尾の先を動かし、俺が羊皮紙に走らせるペン先を指し示した。俺は苦笑いしながら、彼女の鋭い指摘に従ってペンを動かす。そうして手を動かしつつ、今日収容院で調査の話を、自分自身の考えを整理するようにルパへと続けた。


「……アゼルの家族、あの日以来一度も収容院に来てないらしい。それまでは毎日、それこそ甲斐甲斐しいほど熱心に来てたのにだ。事務員が不審に思って家を訪ねて、何度呼びかけても一切応対がないんだと」


「……ふーん。魔法の痕跡に、引きこもりの家族ですか」


 ルパは重い瞼をこすりながら、面倒そうに鼻を鳴らした。湿った夜の空気が、窓の隙間から微かに忍び寄り、ランプの炎を小さく揺らす。


「偶然にしては怪しいですね」


「ああ、俺もそう思う。明日、ルフィリアたちと実際に家に行ってみるつもりだ。何か、嫌な予感がするんだ」


 俺がそう漏らし、ペンを置いた時だった。静まり返った部屋の扉が、遠慮がちに、トントン、と叩かれた。降り続く雨音に紛れてしまいそうなほど、どこか心細く、けれど何かに縋るような確かな意志を持った音だ。


「誰か来ましたよ。私は寝ますから、適当に対応してください……」


 ルパが再び机に突っ伏し、深い眠りへと潜り込むのを横目に、俺は椅子から立ち上がって扉を開けた。  そこには、寝巻きの上に厚手のガウンを羽織り、自分の顔ほどもある小さな枕を大事そうに抱えたリュミが立っていた。廊下の薄暗がりの中で、彼女の瞳だけが不安げに揺れている。


「……リュミ? どうした、眠れないのか?」


「……約束。ふしぎな場所の話、してくれるって言ってたから」


 そういえば、夕食の席では料理を味わうのに夢中で、ゆっくりと異世界のことを話す暇がなかった。俺は扉を大きく開いて、冷え込み始めた廊下から彼女を中に招き入れる。


「そうだったな。よし、入りなよ。ちょうど文字の勉強も飽きてきたところだ」


 リュミはぱっと顔を明るくすると、小さな裸足の足音を立てて部屋に入ってきた。だが、机の上でだらしなく尾を揺らし、無防備に寝転んでいるルパの姿に気づき、驚いたように足を止めた。


「あ、猫……さん?」


「猫じゃありません、ルパです。この屋敷のメイドをやってます」  


 ルパは突っ伏したまま、片目だけを薄らと開けてリュミを見やった。


「よろしくです、魔族のお嬢様。私は今から意識を飛ばすので、勝手に盛り上がっていてください」


 意識を飛ばす、ねぇ。  俺は思わず、やれやれと首を振った。


 要するに「今から全力で寝るから構うな」ということだろう。一応の挨拶だけは済ませて、即座に職務放棄の姿勢に入る。そんなルパの徹底した自堕落ぶりに、俺はもう驚くことすら忘れて、心の中で「おやすみ」とだけ呟いた。


「……あ、はい。よろしくおねがいします、ルパさん」


 初対面の、それもかなりだらしない先輩メイドにリュミは少し困惑していたが、ぺこりと丁寧にお辞儀をした。


 俺は部屋の隅から予備の丸椅子を引っ張ってくると、俺と、机に突っ伏しているルパのちょうど中間あたりにそれを置いた。リュミはそこへちょこんと腰掛け、俺とルパの間に挟まれるような形で、安心したように机に小さな手を置き期待に満ちた目で俺を見上げている。


 窓を叩く雨音に包まれた、静かな夜の個室。  オレンジ色のランプの火が揺れるたび、壁に投影された三人の影が長く伸びたり縮んだりして、幻想的な空間を作り出していた。俺は身を乗り出して待つ彼女に向けて、再び「日本」という名の、魔法のない世界の断片を語り始めた。


「俺のいた場所には、魔法なんて一つもなかったんだ。その代わり、空を飛ぶ鉄の大きな塊があったり、夜でも太陽みたいに明るい街並みがあったりした」


 リュミは枕を抱きしめたまま、その言葉を一言も聞き漏らすまいと、吸い込まれるように聞き入っている。


「魔法がないのに、明るいの……? どうやって?」


「電気っていう力を使うんだ。……そうだな、例えばこのランプの火も、俺の国ならスイッチ一つで、太陽みたいに部屋中を照らすことができたんだよ」


 俺が身振り手振りで、夜を知らない大都市の煌めきや、絶え間なく流れる光の海を説明すると、リュミは不思議そうに、けれど楽しそうに、見たこともない景色を思い描くように目を輝かせた。


「すごい……。いつか、小林のいた場所、見てみたいな」


 その混じりけのない純粋な言葉に、俺は少しだけ胸が痛んだ。この世界へ来てから、かつて当たり前だった景色がどれほど遠いものになったかを再認識させられる。


「……ああ。いつか、見せられたらいいな」


 ひとしきり話した後、ふとした瞬間に沈黙が訪れた。雨音が先ほどよりも少しだけ強く聞こえる中、俺はずっと気になっていたことを、慎重に尋ねた。


「リュミは……エレン先生のところに来る前は、どこにいたんだ?」


 リュミは抱えていた枕の端を少し強く握りしめ、揺れるランプの炎にじっと視線を落とした。その横顔に、影が落ちる。


「わかんない。気づいた時には、孤児院にいたの。それより前のことは、全然……覚えてないんだ」


「覚えてない?」


「うん。お父さんも、お母さんも、自分がどこで生まれたのかも。……魔法が使えるってわかって、エレン先生が引き取ってくれるまで、ずっと一人だった気がする」


 微かな光に照らされた彼女の細い肩が、一瞬、少しだけ震えたように見えた。  家族を探しているアゼルの調査に彼女がこれほど懸命に協力的なのは、記憶のない自分自身の根源をどこか重ね合わせているからかもしれない。彼女の抱える欠落が、どれほど深いものなのか、俺には想像することしかできなかった。


「そっか。ごめん、変なこと聞いたな」


 少ししんみりした空気が部屋を満たしたが、俺は慌てて明るい話題へと舵を切った。日本の彩り豊かな食べ物の話や、魔法の代わりに使う妙に便利な生活道具の話――。  リュミもまたすぐに興味を惹かれたようで、小さな瞳を再び好奇心で輝かせながら、気づけばまたいろんな話に花が咲いていた。雨の音さえも、心地よいリズムのように感じられた。


 どれくらい時間が経っただろうか。  ふと、活発に動いていたリュミの相槌が途絶えたことに気づく。


「リュミ?」


 視線を向けると、彼女は枕を抱えたまま、机に突っ伏して深い眠りに落ちていた。


 そのすぐ隣では、最初から「意識を飛ばしていた」ルパが、変わらず規則正しい、安らかな寝息を立てている。  自堕落なメイドと、今日一日を精一杯頑張り抜いた小さな魔族の少女。机を囲んで並んで眠る二人の姿は、窓の外で降り続く雨の冷たさを完全に忘れさせるほど穏やかで、消えゆくランプの残光の中で一つの完成された静物画のように見えた。


「二人とも、お疲れ様」


 俺は苦笑しながら椅子を立ち、まずはリュミの小さな体をそっと腕に抱き上げた。驚くほど軽くて柔らかな温もりを、俺は自分のベッドまで慎重に運び、厚手の布団をそっとかける。


 続けて、完全に脱力しているルパも抱え上げ、リュミの隣へと寝かせた。ルパは布団の柔らかい感触に満足したのか、無意識に長い尻尾をリュミの足元に丸め、心地よさそうに喉を鳴らした。


 二人を寝かしつけた後、俺は再び机に戻り、部屋のランプをギリギリまで絞って光を極限まで小さくした。ベッドは二人に占領されてしまったが、不思議と悪い気はしない。むしろ、胸の中には言葉にしがたい充実感が宿っていた。


 俺は部屋の隅にある、少し座面の沈んだ使い古されたソファに身を沈め、薄手の毛布を頭から被った。  明日は、アゼルの自宅。閉ざされた門の向こう側に、一体何が待っているのか。


 窓を打つ雨音を遠くに聞きながら、少しずつ遠のいていく意識の中で、俺は明日こそ、彼女たちが安心できる答えを見つけたいと願いながら、心地よい疲れと共に深い眠りについた。

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