10話
翌朝、ラシェルの街は低い雲に覆われていた。窓から差し込む光は弱く、石造りの屋敷の中はしんとして、どこか遠くで鳴く鳥の声だけが、時が動いていることを教えてくれる。
俺とルフィリアは、昨日交わした約束通り、再調査の助っ人と合流するために街の医院へと向かった。ルフィリアは歩きながら、手にした古びた手帳を捲り、昨日聞いたアゼルの病状や、失踪当時の状況を何度も読み返している。彼女の横顔は、朝の光の中でもどこか神秘的で、この世界を見守る「亜神」としての、静かな義務感がその背中に滲み出ていた。
目的の医院は、街の通りから一本入った、静かな場所にある。その入り口に、小さな影が一つ、じっと立っていた。
「おはようございます……」
行儀よく、ぺこりと頭を下げたのはリュミだった。
その姿を見た瞬間、俺は思わず目を見張った。彼女の背には、体の倍はあろうかという巨大なリュックがあり、太い革のベルトで小さな体にしっかりと固定されていたのだ。 お辞儀に合わせて、彼女の柔らかな髪の間から、二本の小さな角がひょこりと顔を覗かせる。
「おはようございます、リュミ。朝早くから足を運ばせてしまって、すみませんね」
ルフィリアが穏やかな声で挨拶を返す。リュミがさらに深く頭を下げると、リュックの中から道具たちが触れ合う「カチャ、カチャ」という音が、控えめに響いた。
その後ろから、医院の先生が現れる。彼はリュミの背中を見て、ため息まじりに言った。
「……そんなに持っていかなくてもいいのではないか、と言ったのだがね。聞かなくてな」
「だって、何があるかわからないし……」
リュックの紐をぎゅっと握り直し、むすっとした顔のリュミにルフィリアが静かに言葉を添える。 「リュミ。必要最低限で動けるようにするのも、準備のうちですよ」
「うぅ……でも、全部必要かもしれないし……」
ルフィリアの優しくも鋭い指摘に、リュミは小さな子供のようにうつむいた。その様子がなんだか微笑ましくて、俺は笑いそうになるのをこらえながら、リュミの肩にそっと声をかけた。
「じゃあ、重かったら言って。途中で交代しよ」
「……うん。ありがと」
リュミは少しだけ表情を緩め、もう一度リュックを背負い直し、ぐっと背筋を伸ばした。その姿は、どこか誇らしげで、ちょっとだけ背が高く見えた。
「――よし、それじゃあ行こうか」
俺がそう声をかけると、リュミは力強く一歩を踏み出した。重い荷物を背負っているとは思えないほど、その足取りには使命感が宿っている。
街の通りを歩きながら、俺はちらりとリュミの横顔をうかがうと表情はまだ少し硬い。
「ねえ、リュミって、普段から魔法を使ったりするのか?」
「うん……ちょっとだけなら」
「たとえば?」
「火をつけたり、水を出したりとか」
「……俺も、使えるかな」
ふとした俺の問いに、リュミは少しだけ考えてから、俺を見上げた。
「人間さんで使える人、見たことないけど……魔力があれば、できるかも」
その隣で、ルフィリアが静かに口を開いた。
「基本的に、人は魔力を持ちません。ですから、魔法を使うことはできないのです。行使できるのは、魔族やエルフなどの種族に限られます」
ルフィリアの視線は、穏やかに流れる雲に向けられていた。
「魔法ではありませんが、他の種族にも特別な力はあります。たとえば天使は、生まれ持った非常に高い身体能力を誇ります。彼らは自身の血を用いることで、その筋肉や五感を限界を超えて強化することさえできるのです」
「血で強化……。魔法とはまた違う、独特の力があるんだな」
俺が小さく頷くと、ルフィリアは静かに言葉を継いだ。
「ですが小林さん、人間だけが到達できる稀有な領域も存在します。魔法の才を持たぬ代わりに、稀にその魂の在り方によって神に近い存在……『亜神』へと至ることができるのは、人間という種族だけなのです」
その言葉は、まるで彼女自身が背負う運命を静かに噛みしめるかのような、重みを持って響いた。
「魔法は使えないけれど、神に近づける唯一の種族、か……」
俺がそう呟くと、リュミは何かを言いかけたが、言葉を飲み込んで、ただ前を見据えて歩き続けた。
やがて、目的地の収容院に辿り着いた。
誰もいなくなった部屋の埃を虚しく照らしているその部屋は、外部の賑わいとは切り離された、墓標のような静けさに満ちていた。
「……調べてみます」 リュミはよいしょ、と声を上げて、重たいリュックを床に下ろした。それだけで「ドシン」と重厚な音が響き、リュミの小さな角が振動でわずかに揺れる。
リュミは真剣な表情でリュックを開け、中からいろんな道具を取り出した。 聴診器、小さな刷毛、奇妙な形のピンセット。彼女はそれらを丁寧に使い分け、一生懸命に部屋の中を見て回った。石畳の一枚一枚に刷毛を這わせ、ベッドのフレームの裏側をレンズで覗き込み、窓枠の僅かな隙間までピンセットの先で探る。その額にはじんわりと汗が浮かび、小さな角もその集中力に合わせて微かに震えているようだった。
ルフィリアはその間、部屋の隅に立ち、沈痛な面持ちで空になったベッドを見つめていた。彼女は亜神であり、戦う術は持たない。しかし、この世界で失われようとする命の灯火に対して、誰よりも慈悲深く、敏感な心を持っていた。彼女の立つ足元だけ、影が少し深く、けれど確かな存在感を放っている。
窓から差し込む光の筋がゆっくりと角度を変え、部屋の隅に長い影が落ち始めた頃。 リュミが道具を片付け、力なく立ち上がった。
「……ごめんなさい。何も、わからなかった」
戻ってきた彼女の肩は、がっくりと落とされていた。あれだけ重い思いをして持ってきた道具を、申し訳なさそうに見つめている。
「いや、そんなに謝らなくていいよ。リュミが一生懸命やってくれたんだから」
俺は溜息混じりに、あまりにも「綺麗」すぎる部屋を見渡して言った。
「これだけ調べて何も残ってないなんて……まるで魔法でも使って消えたみたいだな」
その言葉が、静まり返った部屋に、波紋のように広がった。 刹那、リュミが弾かれたように顔を上げた。
「……魔法?」
彼女は何かを確信したように、先ほどまでの道具をすべて脇に置いた。そして、何かに吸い寄せられるように、ベッドのすぐ脇……虚空に向かってゆっくりと歩み寄る。
一歩、足を踏み出した瞬間。 それまで栗色だったリュミの瞳が、内側から発光するように鮮やかな青色へと染まっていく。 透き通るような、けれど底知れない深みを持ったその青い双眸は、目の前の景色を見ているというより、もっと別の、俺たちには見えない何かを凝視しているような、怖いくらいに澄んだ色だった。
「……あった。」 リュミがベッドの上、ちょうどアゼルの胸元があったあたりを指差して、ぽつりと呟く。
「えっ? 何か見つかったのか?」
俺とルフィリアが慌てて身を乗り出し、彼女の指先を追う。しかし、そこには相変わらず、主が消えた時のままの、わずかに沈み込み、使い込まれたシーツがあるだけだった。俺には、いくら目を凝らしても何も見えない。
俺の戸惑いを察したのか、リュミは少しだけ困ったように眉を下げた。
「……そっか。二人には、見えないんだね」
「私の目だけじゃなくて……二人にも見えるようにするね」
リュミがそっと手を掲げると、指先から、キラキラと輝く微細な魔力の粒子が溢れ出した。それは夜空の星を砕いて散らしたような、幻想的な光の群れだった。 光の粒子は意志を持っているかのように部屋の空気を泳ぎ、ある一点――ベッドの中央へと吸い寄せられていく。
銀色の粒子が何もないはずの虚空に付着した瞬間、そこには青白く光る歪な紋様が、どろりと、そして鮮やかに浮かび上がった。
それは水面に落ちたインクが広がるようにベッドに染み付いており、リュミの放った銀の光に照らされることで、かつてそこで強大な力が振るわれたことを、静かに、残酷に証明していた。
「日にちが経ってるから、すごく、すごく薄い……。でも、ここで魔法が使われてる。まだ少しだけ残ってる」
彼女が指し示した場所には、俺たちの目には見えないはずの「不自然な揺らぎ」が、リュミの魔法によって今も青く脈打つように揺らめいている。
「この町にいる魔族は、たぶん私だけ。……魔族がもっとたくさんいるのは、ここじゃなくて、ずっと離れた魔王国の方だから……」
リュミの声は、しんとした部屋に小さく染み込んでいった。 魔法の跡。 誰にも気づかれず、音もなくアゼルを運び出した「力」の正体。
「……魔王国の、魔法。それがなぜ、この収容院で使われなければならなかったのでしょう」
ルフィリアはその場所を見つめ、静かに、そして重く呟いた。




