序章
世界が生まれるよりも前、時間も空間もまだ名を持たなかった頃、すべての可能性はひとつの“意志”に包まれていた。 それは形を持たず、声もなく、ただ在るという概念だけが漂っていた。
やがて意志は望んだ。望みは虚無の中に浮かび、膨らみ、震え、裂け、その裂け目から最初の存在が生まれた。 それが神々である。
誰が最初に目覚めたのか、誰が泡を破ったのか、今となっては誰も知らない。 ただ、虚無の泡の中に光が差し込み、影が生まれ、音が芽吹いた瞬間から世界は動き始めた。
神々は形なき光で星を編み、音なき風で命を吹き込み、世界を創造した。 彼らは無限の時間を費やし、己の理想を試み、誰がもっとも美しく、尊く、平和な世界を築けるかを競い合った。 それは神々の遊戯であり、試練であり、誇りであった。
だが、どの世界でも必ず争いが始まった。 理想を語りながら裏切り、平和を誓いながら殺し合い、神の教えを唱えながら神をも冒涜した。 幾千の神、幾万の世界、そのすべてにおいて争いは繰り返され、神々は嘆き、失望し、世界を壊し、無関心へと戻っていった。 創造は虚無へと還り、光は影に呑まれ、歌は沈黙へと消えた。
しかし、ただひとり戦争の理由を見出した神がいた。 その名は――ロイ。
人間が争うのは恐怖からでも正義からでもない、快楽だ。 彼らは勝利の快楽を、優越の快楽を、欲望の充足を求めて争っている。 血を流すのも、涙を流すのも、すべては快楽のため。 その事実を見抜いたのはロイただ一人であった。
神ロイは人間の心の奥底にある本能に着目した。 快楽を求める原動力、苦痛を避け、欲望に従う最も純粋な動き。 ロイはそれを「イド」と名付けた。
ならば彼らに夢を与えよう。 夢はすべてを叶え、夢は欲望を満たす。 現実が満たされずとも夢で満たせば、彼らは争う理由を失うだろう。
こうしてロイは、自らの理想世界――夢と現実が一体化した世界を創り上げた。 その世界では誰しもが自らの夢と共に生き、夢はイドに従って形作られ、時に魂の輪郭を変え、時に運命の糸を撚り直し、時に世界の見え方すら塗り替えた。 夢は現実を侵し、現実は夢を抱き、両者は境界を失った。
神々はこのロイの世界を見て口々に言った。 「狂気の世界だ」 「いや、美しい試みだ」 「これもまた、我らの遊戯の一つだな」
だがロイはただ静かに、夢と現実の境界に生きる者たちが何を選ぶかを見守っていた。 彼は裁かず、導かず、ただ観察した。 夢と現実の狭間で揺れる人々の選択こそが、この世界の真実になると信じていた。
そして世界は回り続け、夢は人々の心に根を張り、現実と絡み合いながら静かに語りかける。 夢と現実の境界に生きる者たちが選ぶ世界、それは美しく咲き誇りながらも決して逃れることはできない――蓮の檻。




