その4 婚約破棄だって?
グレイスが街で襲われそうになったという手紙を読んだ時、ゲイリーはすぐにでも王都へ帰りたかった、傷ついた彼女を抱きしめたかった。
すぐに護衛騎士が駆けつけたので大事には至らなかったという彼女の言葉をもちろん疑わなかった。もし汚されていたのなら、手にしているのは手紙ではなくて遺書だっただろうから……誇り高き彼女ならそうしたはずだ。
その後、妙な噂がながれていることも書かれていた。グレイスが心を痛めているのは想像に難くないので心配でたまらなかった。しかしその頃、戦況は思わしくなく、私用で離れることなど許されない。戦い以外のことに気を取られていたら、命を取られるのが戦場だ。生き延びて、無事な姿で彼女の元へ帰ることだけを考えて、ゲイリーは剣を振るった。
そして三か月後、ゲイリーたちクロワジール王国軍は、侵略してきた隣国の軍隊を退けた。戦いに勝利して終戦を迎えることが出来た。
本来は戦後処理も仕事なのだが、最初の手紙以来、プッツリと手紙が途絶えてしまったことが気になってしょうがなかったゲイリーは、上官に頼み込んで一足先に帰還する許可を得た。
戦いで目覚ましい活躍を遂げていたゲイリーは、その褒美としてそれが許され、王都へ馬を走らせた。
そして、真っ直ぐグレイスの実家、フォンダ伯爵邸を訪ねた。
「いまさら何しに来たんですか、グレイスなら出て行きましたよ」
しかし、応対に出てきた双子の弟イザークに冷ややかな言葉を浴びせられた。
「出て行ったって?」
喜んで出迎えてくれるはずのグレイスがいない? どう言うことだ? 怪我もなく無事に戦場から戻った自分を見て、グレイスは人目もはばからずに抱きついてくるだろうと想像していたゲイリーは、感動的な再会を果たせなかったばかりか、出て行ったと言われて、訳がわからずに困惑した。
「新しい婚約が決まりそうなんです、先方の邸へ行儀見習いのために行きました」
「なにを言っているんだ! 俺と言う婚約者がありながらおかしいだろ!」
ゲイリーはますます混乱して叫んだ。
ガタイのいいゲイリーに迫られても、イザークは一歩も引くことなく睨み返した。
「なにを言っているって? こちらが聞きたいですよ、三か月前一方的に婚約を破棄したのはあなたの方でしょ」
「婚約破棄だって? 俺はそんなことしていない!」
ゲイリーの狼狽ぶりから、イザークは彼が本当になにも知らされていないことを察した。
「行き違いがあるようですね、とりあえず中へ」
応接室に通されたゲイリーだが、落ち着いて座っていられる心境ではない。
「婚約破棄なんて、いったいどうなっているんだ! 誰がそんなことを言ったんだ!」
前のめりになってテーブルに両手をついた。
「あなたのお母上ですよ、キャプラン侯爵夫人は醜聞持ちの傷物令嬢など侯爵家の嫁に相応しくない、あなたの同意も得ているから、婚約破棄の書類に署名しろとグレイスに迫ったんです」
「バカな、俺はそんな書類知らないし署名もしていない」
イザークは大きな溜息をついた。
「遠い戦場にいるわりには手続きが速すぎると違和感を覚えたのですが、じゃあ、あの署名は?」
「まさか! 母上が勝手にしたのか」
ゲイリーは頭を抱えた。
「グレイスから事件を知らせる手紙は受け取った、もちろん、なにもなかったと言う彼女の言葉を信じたさ、その後に流れた妙な噂ももちろん信じていないし、とにかく俺が帰るまで待っていろと返事を出したんだ、なのになぜ待てなかったんだ」
「返事? グレイスは返事がないと落胆していましたよ」
「送ったぞ」
「そんな……、グレイスはあなたに信じてもらえなかったと酷く傷ついていたんですよ」
「信じないわけないだろ!」
「戦場だったから、手違いで届かなかったんですかね」
「それはない、定期連絡の伝令兵に直接こちらへ届けるように指示したんだからこの邸の誰かが受け取っているはずだ」
「グレイスは受け取ってませんよ、じゃあ、手紙はどこへ消えたんです?」
「それはこちらが聞きたい」
「グレイスはあなたに捨てられたと思って、自棄になっていたんですよ。俺の結婚も決まっていますし、醜聞持ちの小姑が居座っていたら婚約者の実家に申し訳ないと、無理して新たな縁談を探したんです」
「根も葉もない噂が流布したと手紙にも書いてあったが、なぜそんな奇妙なことになっているんだ」
「俺は、グレイスは嵌められたと思っているんです」
「なぜグレイスが? 恨みを買うような子ではないだろ」
「おそらくあなたのせいですよ」
「俺の?」
「名門侯爵家の嫡男、若くして王国騎士団の副団長に任命されたエリート、その上、眉目秀麗な美丈夫、女性なら誰もが手に入れたくなるでしょう」
そう言うイザークも、宝石姫と言われるグレイスの双子の弟だけあって、男のゲイリーから見ても美しい容姿をしている。彼も誘惑してくる女には苦労した口なのだろうと思った。
「ずっとそう言う目で見られてきた自覚があるのではないですか? あなたのお家柄なら、十代前半で婚約が決まるもの、しかし、ずっと断り続けてきたのは地位や財産目当てで近付いてくる令嬢に嫌気がさしていたからでしょ」
「そうだな、君の言う通りかも知れない、俺の身分に惹かれて擦り寄ってくる女たちにうんざりしていたんだ。でも、グレイスは違った」
グレイスは最初ゲイリーが侯爵令息だとは知らず、ただの騎士だと思っていた。だからこそ自分自身を見てくれた彼女に興味を持ったのだ。今となってはグレイスが自分を想ってくれている以上に彼女を愛している自信があった。
「我家はあまり裕福ではない伯爵家、身分的にはキャプラン侯爵家とは釣り合いません。グレイスは美しい容姿だけであなたに選ばれたと思われている、だから妬まれていたんですよ。隙あらば取って代わろうと機会を窺っている令嬢は多かったと思います」
「それで事件を機にグレイスを陥れたという訳か、それならなおの事、早く誤解を解いてグレイスを連れ戻さなければならない。婚約破棄の書類には本人の署名が必要だし、俺はしていない、母が勝手にしたことなら無効だ」
「そうしてやってください」
「グレイスの行き先を教えてくれ」
その前に、勝手なことをした母親に真意を聞かなければならない。そして、グレイスがこんな状況に陥った理由、イザークが言うように嵌めた者がいるなら炙り出して必ず報いを受けさせてやるとゲイリーは決意した。




