その3 愛されていると思っていたのに
「酷いです、お嬢様をあんな風に言うなんて!」
客室に戻ったグレイスを迎えたタバサが愚痴った。
カロリーヌの毒舌にはグレイスもうんざりしていたが、
「悪気がないから質が悪いのよね、自分が相手を不快にさせていることに気付けない人なのよ、あれは直らないわ、きっとフレッド様に対してもそうなのよ、逃げ出したくなる気持ちはわかるわ」
「それにしても、あんな噂を真に受けるなんて! 誰が流したのかは知りませんけど、お嬢様を知っている方なら嘘だとわかるはずです、お嬢様はゲイリー様一筋で、いくら言い寄られても他の殿方には目もくれなかったのですから」
「カロリーヌ様は私が男を誑かす毒婦だという噂を信じて白羽の矢を立てたのよ、そうじゃないとわかれば解放してくださるわよ」
タバサはお茶を用意しながら、
「じゃあ、さっさとお邸に戻りましょうよ」
「フォンダ家には帰れないわ、イザークに迷惑がかかるでしょ、婚約者のお家は古風で、未婚の姉が家に居座っていてはいい顔しないのよ」
「姉と言っても双子だし、同い年じゃありませんか」
「殿方の十八と令嬢の十八では意味が違うわ、たいていの令嬢は学園を卒業したらすぐ結婚するものだから、婚約者さえいない私は立派な売れ残りよ」
「お嬢様ぁ」
タバサは大袈裟に嘆いた。
「大丈夫よ、そうね、ルルーシュ王国に嫁いだレイチェル叔母様を頼ってみようかしら、きっとこの先のことも相談に乗ってくださると思うわ」
ハンカチを握りしめながらタバサは鼻を啜った。
「理不尽です、お嬢様にはなんの非もないのに、話も聞かないで一方的に破棄するなんて、ゲイリー様がそんな人だったなんて見損ないました」
グレイスの婚約者だったゲイリー・キャプラン侯爵令息は、現在騎士団の副団長として国境の紛争地域に派遣されていた。そのためグレイスは本人と話をする機会のないまま、一方的に書類の手続きだけで婚約破棄されたのだった。家格が上の侯爵家の決定に異議申し立ては出来ずに吞むしかなった。
ゲイリーはまだ前線に行ったまま帰還していない。
二人の出会いは三年前、グレイスが十五歳を迎えたデビュタントで、初めて王家主催の舞踏会に出席した時だった。
煌めくハニーブロンド、整った顔だちに透き通るような白い肌、誰もを魅了するサファイアの瞳の美少女は、デビュー前から宝石姫と噂されて注目されていた。
ダンスを申し込む殿方の列が途切れすに大忙し。しかし、グレイスの目は踊っている相手ではなく、会場の警備を担当していた一人の騎士に釘付けになっていた。
それが騎士団に所属するゲイリーだった。
艶やかな黒髪に菫色の瞳、精悍な顔つきで、軍服の上からでも鍛え抜かれた身体が窺える逞しい青年だった。
世間の噂話に疎かったグレイスは、彼が何者かも知らず大胆にもラストダンスを女性の方から申し込んだ。
勤務中のゲイリーはもちろん丁重にお断りしたが、それを見ていた王太子が面白がって受けるように命じた。
王太子と親しげに話をするゲイリーを見て、グレイスは自分がやらかしてしまったことに気付いたが、それでも希望通りゲイリーと踊れて舞い上がった。
「……私、もしかして、とんでもない事をしてしまったんでしょうか?」
「まあ、勤務中の騎士をダンスに誘うご令嬢はいないよな」
「だって私、あなたを一目見た時から、絶対あなたと踊りたいと思ってしまったのですもの、騎士様と踊るのはマナー違反でしたか?」
無邪気に見上げるグレイスを見て、ゲイリーはプッと噴き出した。
「騎士様か」
「えっ?」
小鳥のように小首を傾げるグレイスは、当時二十歳のゲイリーからしたらまだあどけない少女にしか見えなかったが、興味を掻き立てるには十分な魅力を持っていた。
「俺が何者か知らなかったんですね」
「何者って?」
グレイスは美しいサファイアの瞳で見上げた。
グレイスが騎士の正体を知ったのは、後日、彼がフォンダ伯爵家を訪ねてきた時だった。
キャプラン侯爵家の嫡男ゲイリーが、王太子と傍系のハトコに当たる身分の高い侯爵令息だったと知ったグレイスは、顔を真っ赤にして不躾を謝罪した。しかし、その時はもう、二人の恋物語ははじまっていた。
お互い惹かれ合うのに時間はかからなかった。
王立学園に入学したばかりの学生であるグレイスと、騎士団の任務があるゲイリーが会える時間は決して多くはなかったが、二人はデートを重ねて、一年後、正式に婚約した。
政略結婚が多い貴族社会において、お互いに想い合って婚約できたグレイスは幸せ者だと羨まれた。彼女自身も幸せだった。卒業したらすぐ彼と結婚するのだと、彼との未来を夢見ていた。予期せぬ戦争でそれが少々延期になったところで、幸せな未来が待ってることに変わりはないと信じていた。
ゲイリーが戦地へ赴くことに決まったのは、グレイスが卒業を控えた半年前、隣国からの侵略を受けているエンズワース辺境伯領防衛のために派遣されることになったのだ。剣の実力は入団当時から抜きに出ており、二十三歳の若さで異例の出世、副団長に任命されての出陣だった。
「戦いはいつ終わるかわからない、君の卒業に間に合わないかもしれないけど、でも必ず戻ってくるから、信じて待ってろ」
俺様気質のゲイリーは偉そうにそう言った。
「もちろんよ、無事に帰ってきてね」
二人は約束の口づけをかわした。
そんな彼との未来が、こうも呆気なく崩れ去るとは、あの時は思いもしていなかった。
「傷物になった私とは結婚できないと言われたら、仕方ないわ」
「なにもなかったじゃないですか、お嬢様は傷物なんかじゃないでしょ」
「ガラの悪い男に路地へ連れ込まれた時点で、貴族令嬢としては傷物と言われてもやむを得ないのよ」
「でも、その後流された噂が酷いじゃないですか、もともとそんな連中と関係を持っていたとか、いつも遊び歩いていたとか、悪意を持って流布されたとしか思えません」
「貴族社会ってそんなところなのよ、隙があれば貶められ、蹴落とされるのよ」
「でも、ゲイリー様がそんなデマを信じるなんてあんまりです! ちゃんと話をするべきです、誤解は解くべきです」
「手紙の返事も来なかったよ、それが答えだと思うわ」
「お嬢様……」
愛していたのは私だけだったのだろうか?
「愛されていると思っていたのに、信じてくれると思っていたのに、私の独りよがりだったのかしらね」
グレイスの心にそんな憂いが広がった。
「背を向けた人に追いすがってもしょうがないわ、そうそう、この間シャーロット様がゲイリー様と婚約するって嬉しそうに言いに来たのよ」
「ほんとですか!」
「キャプラン侯爵夫人にもいたく気に入られて、話が進んでいるとか」
「人の不幸を喜ぶような報告に来るなんて、神経を疑います」
「ある意味律儀じゃない、わざわざ断りを入れに来たんだから」
「嫌がらせですよ」
アヒルのように口を尖らせるタバサを見て、グレイスはプッと噴き出した。
「でもね、いくら侯爵夫人に気に入られても、ゲイリー様は彼女を選ばないと思うわよ、タイプじゃないもの」
グレイスは意地悪な笑みを浮かべた。
「ですよねー、ゲイリー様はああいう殿方に媚びるような女臭いタイプは苦手そうですからね、お嬢様みたいみキリッとした方がお似合いで……本当にお似合いのお二人だったのに」
タバサはまたウルウルと涙を浮かべた。
「私は新たなスタートを切ると決めたのよ、キートン伯爵家では縁がなかったけど、別の道もあるわ、なにも結婚だけが人生じゃないしね。タバサはフォンダ家へ戻りなさい、レイチェル叔母様の元へは私一人で行くから」
ゲイリーとの道は分かたれてしまった。
その現実を向き合えるようになるまで三ヶ月かかり、やっと自分なりに別の道を進む決心がついたのに、キートン家に来たことで出鼻を挫かれてしまった。でも、立ち止まってはいられない。
「そんな悲しいこと言わないでください! どこまでもお嬢様について行きます」
「ありがとう」




