最終話 歌姫は喝采に包まれる
グレイスとゲイリーはエンズワース領へ旅立った。
「エンズワース領までは馬車だと二週間はかかる、国境の町だからな、俺は戦争が終わってすぐ、夜通し馬を飛ばして一週間で君の元へ戻ったんだけどな」
「あら、酷使されて気の毒なお馬さん」
「そっちか! 心配するな、馬は宿場ごとに替えたよ」
ゲイリーならそうしていただろうと知っていたグレイスは悪戯っぽく笑った。
グレイスは幸せだった。一度はこの国を離れて叔母を頼ろうと考えていたのに、今、愛する人と共に新天地へ向かっている。目的地には面倒な姑もいないし……きっと明るい未来が待っているのだと、期待に胸が膨らんでいた。
「今日はこの宿場町に泊まる予定だ、王都の宿泊施設のようにはいかないけど我慢してくれ」
「ゲイリー様と一緒ならどこでもいいわ」
可愛く微笑むグレイスを見て、ゲイリーは思わず馬車の中で押し倒しそうになるのを必死で堪えた。
二人は小さな宿場町のメインストリートにある宿屋の前で馬車から下りた。
夜の帳が下りた宿屋の前には赤いランプが灯っていた。なんとなくルージュリアを想起させた。
こじんまりした宿屋のエントランスには大きな絵画が飾ってあった。
「これって、ルージュリアのステージに似てない?」
『喝采』という表題の絵に描かれているのは、赤いランプに照らされたステージで歌う歌姫の姿と、陶酔した表情で聞き入る観客たち。
二人がその絵の前で立ち止まっていると、
「おや、気に入っていただけましたかな?」
腰が曲がった白髪の老人に話しかけられた。
「これはルージュリアというお店じゃありませんか?」
グレイスは老人に尋ねた。
「そうですが、お若いのによくご存知で」
「一度行ったことがあります」
「それはないでしょう」
老人はハハッと笑った。
「この絵のルージュリアは五十年も前に火事で焼失してしまったんですから、真似た別のルージュリアが出来たんですかな?」
「そうなのかしら……でも、ステージの歌姫も彼女そっくりだし」
「若い頃は通いつめたものです、と言っても、貧乏画家だった儂は裏口からこっそり入れてもらって、店の宣伝用に絵を描かせてもらっていたんですがね。美しい歌姫でした」
老人は夢見るような瞳で絵の中の歌姫を見つめた。
「なんとも言えぬ不思議な歌声でした。彼女の歌はすべての人々を虜にしました。彼女の歌声はなにもかもを忘れさせてくれました。心の曇りを晴らしてくれる、嫌なことや悲しいことを消し去って辛い現実から逃れさせてくれる空間、ルージュリアは心に憂いを持った人間が癒される場所だったんです」
その話、グレイスはどこかで聞いたような気がした。
(そうだわ、フレッド様とテオドール様も同じようなことを言っていたわ)
「しかしある日、火災が発生したんです。歌姫も観客も逃げ遅れて大勢死にました。儂は偶然その日は風邪で寝込んでいて店へは行けなかったので命拾いしたのですが、描きかけの絵は題材を失ってしまいました。だから未完のままなのです」
老人は目を潤ませた。
「親父、なにしてんだよ」
絵の前で話し込んでいるグレイスたちを見かけて、宿の主人が駆け寄った。
「またお客様に絡んで……、さあさ、もう遅いから親父は寝る時間だろ」
老人をさっさと奥へと追いやった。
「すみませんね、最近ちょっとボケてきているもので、失礼はご容赦ください」
「いえ、別に失礼なことはありませんよ」
「またこの絵の話をしていたんですか、伝説の歌姫イーディスのステージ」
その名前を聞いて、グレイスは驚き、ゲイリーと目を合わせた。
「イーディスって……」
さっき、この店は五十年前に消失したと聞いたばかりだ。しかし店の名前も歌姫の名前も同じ、こんな偶然があるのかと胸がザワザワした。
「昔は王都に住んでいたんですよ、親父は売れない画家だったんです、この絵を最後に画家の夢はあきらめて、その後苦労してこの宿屋を持ったんですけどね」
父親を追い払ったわりには自分も十分余計なお喋りをしていることに宿の主人は気付かない。
「おや、またいつの間にかまた描き足している。この絵は永遠に未完なんですよ、いつの間に描いているのか、毎年観客が増えているんです、今年は観客じゃなくてピアニストが追加されたようです、ほら、ここ」
宿の主人が指さした先を見てグレイスは息を呑んだ。
絵に描かれているステージ脇でピアノを弾いているのはフレッドだった。そして、ステージ下で拍手している観客の中にテオドールの姿もあった。
彼らは歌うイーディスを、恍惚とした幸せそうな顔で見上げていた。
おしまい
最後まで読んでいただきありがとうございました。楽しんでいただけましたでしょうか? また、次の作品もお目に留めて頂けたら幸いです。