その1 婚約する気はないようです
「僕には心に決めた愛する女性がいるのです」
初めて顔を合わせた婚約者になる予定のフレッドにグレイスが言われた第一声がそれだった。
グレイスを拒絶する言葉には違いなかったが、彼は申し訳なさそうに伏し目がちだった。
「はあ??……」
キートン家からの申し込みで、婚約を調えるため招かれたのに、本人に拒絶されるとは思いもよらぬ展開。グレイスは返す言葉もなくただポカンとした。
フレッド・キートンは、二年前に父親の急死で爵位を継いだ二十一歳の若き伯爵。金髪碧眼で中性的な感じの美丈夫、内気で神経質そうな男だった。
「まだそんなことを言っているの、相手は娼婦でしょ、あなたは騙されているのよ!」
母親である前キートン伯爵夫人のカロリーヌが目を吊り上げて威圧的に言った。
「娼婦じゃありません、歌姫です。彼女の歌は素晴らしいのです、心が浄化され安らげる、僕の心は彼女に救われているのです、もう彼女無しでは生きていけません」
母親とは対照的にやわらかな物言いで、まるで夢見る少女のような瞳でフレッドは訴えた。
そして呆気に取られているグレイスに向き直り、
「あなたとの縁談は母が勝手に進めた話で、僕にそのつもりはありませんから、早々にお引き取りください」
フレッドは深々と一礼して、応接室から出て行った。
「フレッド! お待ちなさい!」
カロリーヌは慌てて彼を追いかけた。
取り残されたグレイスと彼女についてきたメイドのタバサは理解が追い付かずに茫然とした。
「いまさら帰れと言われても……」
少しでも期待した自分がバカだったとグレイスは自己嫌悪に陥った。傷物と言われた自分を婚約者として迎えてくれるのだから、先方もなにか訳アリだとは思っていたが、本人が知らぬ間に進められている縁談だったとは……。
グレイス・フォンダは十八歳の伯爵令嬢。ハニーブロンドにサファイアの瞳、人目を引くハッキリした顔立ちの美しい令嬢だ。この春、王立学園を卒業し、何事もなければ前の婚約者ゲイリー・キャプラン侯爵令息と結婚する予定だった。
しかし、〝何事〟が起きてしまった。
起きてしまった事件により、傷物令嬢の汚名を着せられた上、根も葉もない悪い噂が流れてしまい、婚約を破棄されてしまった。
それから三ヶ月、フォンダ家の事情で早く次の相手を見つけなければならないと焦ったグレイスだが、悪い噂のせいで良縁はなく、やっと申し込みがあったキートン伯爵家へ、藁をも掴む思いで赴いたというのにこの有様だ。
「しょうがないわね」
グレイスは力なく立ち上がった。
「とりあえず、ここから出ましょう」
「どうされるです?」
タバサは心配そうにグレイスを窺った。
「家には戻れないから、どうしようかしらね」
「お嬢様……」
目を潤ませるタバサ、その時、カロリーヌが慌ただしく戻ってきた。
「ごめんなさいね、あの子にはちゃんと言い聞かせますから」
「いえ、無理なさらなくてもけっこうです、このままお暇させて頂きます」
「待って! あなたが最後の望みなのよ!」
カロリーヌは部屋を出ようとするグレイスに縋り、再び座るように促した。
グレイスは仕方なく再びソファーに腰をおろした。
カロリーヌは横に座り、逃がすまいとグレイスの手を握ったまま、悲壮感を漂わせながら語り始めた。
「もう一年近く前になるかしら、あの子がおかしくなってしまったのは。どこの馬の骨ともわからない歌姫に入れあげて、挙式間近だった当時の婚約者とは勝手に破棄してしまったのよ。フレッドの心変わりが原因だから多額の違約金を支払う羽目になったわ。まあ我がキートン伯爵家は資産家ですから、たいした打撃も受けませんけどね」
やたら金持ちであること強調するが、それよりも突然婚約破棄された令嬢への謝罪の言葉がないことにグレイスは引っかかった。結婚間近で浮気されて破棄された令嬢のその後を考えると、いくら違約金を積まれても心の傷は一生消えないだろう。
「その後、新たな縁談もたくさんあったのよ、なにせ我が家は家柄も良く、資産家ですから。でも、次々に来る縁談をフレッドはあの調子ですべて断ってしまうのよ」
第一声があれなら、いくら資産家の若き伯爵相手でも、普通の令嬢は怒って帰ってしまうだろうとグレイスは頷いた。
前キートン伯爵が不慮の事故で亡くなりカロリーヌが未亡人となったのは二年前、当時フレッドは十九歳の若さで突然伯爵家を継ぐことになった。一人息子の彼はいずれ家を継ぐつもりでいたが、まだ先のことと心の準備が出来ていなかった。
キートン伯爵家は広い領地を所有している上、先代が凄腕で複数の事業も手掛けていた。フレッドも優秀ではあるが、真面目で几帳面な彼は人の上に立つには繊細過ぎた。重責に耐えられなくなったフレッドは息抜きに夜の街へ出るようになり、そこで歌姫と出逢った。
「歌姫なんかに入れあげて、最近では伯爵家の執務も滞っているのよ。今はなんとか私が回しているけど、この先どうしたらいいのか……。家のためにも早く妻を迎えて落ち着いてほしいのよ。でも、なかなか相手が決まらなくて困っていたところ、あなたを薦められたのよ。その方が、傷物だけどかつては宝石姫と言われた凄い美人で、どんな殿方も虜にする毒婦だから、ご子息もきっと目を向けてくれるはずだと言ったわ、それを信じて期待してお迎えしたのよ」
(誰に推薦されたのかは知らないけど、とても失礼なことを言われている気がすわ)
グレイスは嫌悪感を覚えながらも、カロリーヌの勢いに押されてひとまず聞いていた。
「この際、毒婦でも悪女でもかまわないわ、あなたは腐っても伯爵令嬢なのですもの、平民の歌姫よりマシだわ、あなたの手腕でフレッドを虜にして、歌姫から引き離してほしいの」
カロリーヌは目に涙を溜めながら懇願するが、内容は酷い言われようだ。悪意はないようだが無神経にも程がある、きっといつもこの調子なのだろう、相手の気持ちなど考えもしない人なのだとグレイスは彼女の性格を分析した。
「だからね、お願い! もう少しここにいてフレッドを誘惑してくれない?」
潤んだ瞳で縋りつくカロリーヌは子犬のようだ。息子の方も厄介だが、もっと面倒なのはこの母親だ、とんだ貧乏くじを引き当ててしまったとグレイスは後悔した。
数ある作品の中から見つけて読んでいただき感謝いたします。15話程度の予定なので、最後まで読んでいただけると幸いです。