37 僕の「気持ち」
机の上のカッターナイフを手に取り、刃を押し出した。ほとんど使われてないため、うっすらと自分の顔が映るほど、きれいだった。
机とセットで買った椅子に腰を下ろすと、その机の半分以上を占めるパソコンが視線に入る。
おそらく、普通の高校生が持つようなパソコンではないだろう。今まで貯めていたお金を全部つぎ込んで買ったパソコンだ。
2年前、どん底だった僕を助けてくれたのは、パソコンからつながった、インターネットの世界の人たちだった。励ましてもくれたし、もっとひどい体験も聞かされた。みんな、というわけではなかったけど、いい人がたくさんいた。
パソコンがあったからこそ、僕は立ち直れたし、新しい知識も身につけられた。
だけど、そんなパソコンでさえ、どうでもよくなっていた。
わけもなく、持っていたカッターナイフをパソコンに投げつけた。こつん、という音がして今まで曇りすらなかったディスプレイに、大きな傷が入った。
その時だった、玄関のチャイムが鳴った。
それは、少しだけ僕を正気に戻した。床に落ちたカッターナイフを見て、背筋に寒気が走った。
ピンポーン、もう一度チャイムが鳴り、家に誰もいないことを思い出した。僕はゆっくりと腰をあげ、ふらふらした足取りで階段を下りた。
ドアを開け、そこに立っていた女性を見て、僕はしばらく声を出すことができなかった。
細くて白い足。うちの学校にしては長めのスカート。存在感のある……む、胸。そして、すれ違う人のすべてが美人の認めるであろう、整った顔立ち。そう、葉子さんである。
だが、その表情は曇っていて、視線は下を向いていた。
2人の間に、気まずい雰囲気が漂う。学校での言葉を思い出して、また胸が苦しくなる。
「あ、あの……」
「か、鞄持ってきたの! 明日小テストだから……」
葉子さんは僕の声を遮るように言うと、持っていた鞄を僕の胸の前に突き出した。確かに僕の鞄だ。
「あ、あぁ…。ありがとう」
鞄を受け取ると、また気まずい空気が広がる。
何を話したらいいのか分からなかった。謝ったほうがいいとは思ったが、何について謝ればいいかまとまらず、ただ黙っているしかなかった。
「あ、あの!」
今まで逸らされていた目線が、僕の目に定まった。その瞳には、何かの決意がみなぎっていた。
それを見て、僕はまた怖くなった。また見せ物にされる、笑いものにされる。そう思うと、向こうの木の陰から、あの塀の向こうから、正面の家の2階から、誰かに見られてるような気がした。
「私ね、謝りたいの。だから……」
「た、立ち話も悪いから、中に入ってよ」
「えっ? あぁ、ちょっと」
戸惑う葉子さんの腕をつかみ、半ば無理やり家の中へ引きずりこんだ。
そのままドアを閉めると、必然的に狭い玄関に2人が立つことになった。息遣いを感じるほど近い位置に顔があり、甘い香りが僕の鼻をくすぐる。
僕は思わず見とれてしまった。時間にしては10秒もないだろうが、その何倍にも長い時間に感じた。
「あっ、ごめん。僕、飲み物持っていくから、先に部屋に行ってて。その階段を上がって、廊下を進んだ一番奥の部屋だから」
慌てて手を放し、逃げるように台所に向かった。
食器棚からガラスのコップを取出し、冷蔵庫にあったお茶のパックと一緒にお盆の上に載せると、僕は大きなため息をついた。
どうして、家に入れてしまったのだろうか。玄関で、笑ってごまかせばよかったのに。もう会うだけでもつらいというのに。
階段を重い足取りで上ると、葉子さんは僕の部屋の前で立ち尽くしていた。その視線の先にあったのは、さっき投げつけたカッターナイフだった。
「これって、もしかして……」
「ごめんね、パソコンがついてるから部屋が暑いんだ。今エアコン入れるよ。ベッドにでも適当に座って」
僕は無理やり話をかえて、カッターナイフの刃をしまい、ポケットに入れた。
エアコンのスイッチを入れると、生ぬるい風が僕の頬を撫でた。
僕はベッドの奥の方に座り、その横のシーツを整えた。葉子さんはそこに座ってくれた。
2人の間に三度気まずい雰囲気が漂う。小さなテーブルに置いたお茶のパックには、水滴が付き始めていた。
「ごめんね、さっきは取り乱しちゃって。最初から知ってたのに黙ってたから、あんなことになったんだよね。もっと早くに言えばよかった」
僕は、泣いてしまいそうなのを必死にこらえた。
「違うの、悪いのは全部私なの。西尾君のことを何も知らなかったのに、騙すようなことをした私が悪いの」
そこまで言うと、葉子さんは一息ついて、座りなおした。
「佐々木君から聞いたの。西尾君の中学時代のこと」
ああ、茂のやつ話したのか。だから余計な心配をかけさせちゃったのか。
「私って自分のことばっかり考えてた。ほんとにごめんなさい」
そういいながら、頭をさげる葉子さんを、これ以上責める気にはなれなかった。
いや、もともと責める気なんてない。自分が調子に乗ったのが悪いのだから。
「そんなに謝らないで。知ってたのに何も言わなかった僕が悪いんだから。それに、地域一番の美人って言われてる葉子さんと、1か月だけでも付き合えて嬉しかったし、楽しかったよ。たとえ気持ちがなかったとしてもね」
そこまで言い切ると、また目頭のあたりが熱くなった。胸が苦しい。
突然、葉子さんが僕の肩をつかみ、無理やり顔の向きを変えられた。葉子さんと目が合う。
その瞳は今までで1番、決意にあふれていた。
「西尾君、これだけは信じてほしいの。私はね、1か月前に告白したのときのずっと前から西尾君のことが好きだったの。でも、なかなか言い出せなかった。西尾君の迷惑になるんじゃないかって思ったから。だから、これをチャンスだと思うことにしたの。勇気を出せずにいた私に来た、告白のチャンスだと。
私も、1か月間本当に楽しかった。夢かと思うこともあった。だけど、今は後悔してる。なんでもっと早く本当のことを言わなかったんだろう。最初からちゃんと話しておけばこんなことにはならなかったのに。もっと、ずっと、西尾君と一緒にいたいのに」
そこまで言うと、つかんでいた手を放した。その瞳は赤くなっていた。
僕は、体の向きを変え、葉子さんに背を向けた。これ以上向き合ってなんかいられなかった。
「嘘だよ、そんなの信じられないよ。茂から話を聞いたんだよね? 僕は、怖いんだ。好きになって、また突き放されるのが。葉子さんのことは、ずっと前から好きだったし、この1か月でどんどん惹かれていってるのもわかった。だから、これ以上は一緒になんていられないよ。もう、立ち直れなくなるから。そりゃあ、今までのこととか、突き放されたときの怖さとかを忘れて、今の葉子さんの言葉を信じられたら、とっても楽だろう。遠慮なく、葉子さんのことをぎゅっと抱きしめたいさ」
そこまで言い切ると沈黙ががり、部屋に流れる音はエアコンとパソコンの動作音だけになった。
どのくらい時間がたっただろうか、突然、背中に衝撃を受けた。細くて白い腕が僕の胸にしっかりと回され、肩では、しっかりと息遣いを感じた。
「ねえ、どうしたら信じてくれる? どうやったら西尾君の心を開けるの? 私、何でもするよ。それとも、私には西尾君の心を開けないの?」
耳元で囁かれたその言葉は、僕の心に突き刺さった。
「今更西尾君のことをあきらめろなんて、私には無理だよ。そうなったら、私はもう生きていけない……」
あの時の僕も、奈美にそんなことを言った気がする。
心に、何か温かいものが広がった。それは、数年ぶりに感じた温かさだった。
僕は、葉子さんの手にそっと手を添えた。
「どうやったら信じれるようになるのか、僕にもわからない。だけど、今はとってもあったかい気持ちなんだ。もう1度だけ信じてみたい、そんな気分だよ」
「西尾君……」
僕を抱きしめている手の力が、少し強まった。
「ほんとなんだよね? 今日の言葉を、信じてもいいんだよね? 約束、してくれるんだよね?」
「もちろんだよ。私が嘘をつくのが下手だってこと、1か月も一緒にいればなんとなくわかるでしょ? 私も、信じていいんだよね? 西尾君の言葉」
「うん、誓うよ。僕は葉子さんのことが好きだってことを」
「私も誓う。私も、西尾君……、いや、卓也君のことが好きです」
今日、何度目かわからない沈黙が部屋を包んだ。
だけど、その沈黙は決して居心地の悪いものではなく、何だかふわふわした雰囲気に包まれていた。