36 私の「気持ち」
「どうぞ、入って」
校舎を望と2人で歩いていると、ちょうど帰ろうとしていた佐々木君に出会って、どこか落ち着ける場所に案内してもらったんだけど、なぜかパソコン室に案内された。
パソコン室はむーんとした熱気と、パソコン特有の臭いに満たされていた。佐々木君は1番最後に入ると、扉を閉めてエアコンのスイッチを入れた。
「適当なところに座って。ここはパソコン部の部室として使ってるけど、部員は俺と卓也の2人だし、顧問の先生も来ないから心配いらないよ。ちゃんと鍵もかけたし」
取っ手の部分を指しながらそう言う佐々木君はとても穏やかな顔だった。
「茂君、ありがとね。あかねのやつ、葉子を泣かせるなんて絶対に許さないわ!」
「違うの、あかねのせいじゃないから。私が全部悪いんだから」
キスを迫ったこと、西尾君は最初から全部知っていたこと、そして西尾君は本当に私のことが好きだったということ。私は、2人にすべて話した。
「そうだったの、全部知ってたんだ」
「卓也のやつ、話したのか」
2人の反応はそんな感じだった。それから、佐々木君はうーんとうなって何かを考えていた。
「葉子ちゃん、卓也のことは悪く思わないでほしい。昔、ちょっといろいろあって、そういうことには敏感になってるんだ。2人にはこのまま終わってほしくない。だから、全部話そうと思うんだけど、聞いてくれるかい?」
佐々木君は、真剣な顔でそういった。
「はい、聞かせてください」
「それじゃ、話すよ。今から2年前、中学3年生のころだ。俺と卓也は同じクラスだったんだ。とは言っても、特に仲が良かったわけじゃないんだけどね」
佐々木君は一旦座りなおすと、ゆっくりと話し始めた。
******
梅雨入りしたばかりで、じめっとした教室。6割ほど集まっていた集まっていた生徒の気分も、どこか沈んでいた。
「みんなおっはよー」
そんな雰囲気を吹き飛ばしてしまうような、威勢の良い声で教室に入ってきた生徒に、クラス中の視線が集まる。
「おはよう。どうしてそんなに濡れてるんだ?」
「これくらいの雨なら、傘ささなくても走ればいける! って思ったんだけど、途中でずっこけちゃって」
「お前は馬鹿かっ!」
どこからか取り出したハリセンの乾いた音に、教室がどっと沸いた。さっきまでの陰湿な雰囲気はどこかへ行ってしまった。
桜田東中学校3年1組は、全身びしょ濡れで入ってきた生徒――西尾卓也を中心にいつも笑いが起こっている賑やかなクラスだった。
そんな彼とは対照的に、いつも教室の隅で数人の生徒と固まっている女子がいた。名前は、神宮司奈美。中学生離れしたスタイルの持ち主で、クラスのアイドルである。その彼女が、時折睨むような視線を送っていることに卓也は気づいていなかった。
あるとき、こんな噂がクラスに広まった。
『卓也は、神宮司奈美のことが、好きだ』
周りの友達は皆、卓也を説得した。
「あいつだけはやめといたほうがいい。どんなことをされるかわからない」
「綺麗な外見に惑わされると、痛い目にあうぞ」
だが、卓也は聞かなかった。止められれば、止められるほど、思いは高ぶっていた。
そして、ついに卓也は告白した。
「神宮司さん! 好きです、付き合ってください!」
朝、教室に入ると同時にクラス中に聞こえる声で叫んだんだ。
誰もが、奈美がどんなひどい言葉を浴びせるのかと、固唾をのんで見守った。だが、発せられた言葉は、違った。
「私も、卓也君のこと、……好きだよ」
いつもはほとんど表情を変えることのない奈美が、頬を赤らめ、そういったのだ。
だが、何かが違うことに卓也以外の皆は気づいていた。それに皆恐怖していた。
それから2週間の間は、本当に仲のよさそうなカップルに見えた。登下校のときには手をつないで歩き、学校にいる間も、今までほとんど会話に加わることのなかった奈美が、卓也の一緒に教室の輪に入っていた。
誰もが、あの時の恐怖は勘違いだったと思い始めていた。
梅雨明けの発表があり、久しぶりの太陽が顔をのぞかせていた日の放課後。その日も2人は一緒に帰ろうとしていた。昇降口で、ふと奈美が足を止めた。
「ねぇ、卓也は本当に私のことが好き?」
突然の質問に、卓也は少し戸惑った。
「え? もちろん! 好きだから告白したんだよ」
「だって、もう2週間もたつのに、キスさえしてくれないじゃない。本当に好きだっていうなら、ここでキスしてみてよ」
奈美はそういうと、目を閉じて口を上に向けた。
卓也はこれが初恋である。もちろんキスなんかしたことがあるわけがない。だけど卓也は戸惑いながらもゆっくりと口を近づけた。学校内だとか、みんなが見ているとか一瞬頭によぎったが、奈美の言葉にそむくことはできなかった。それほど卓也は、彼女に心を奪われていた。
あと少しで唇がつく、というときに、卓也の頬に強烈な刺激がはしった。耐え切れず、尻餅をつき、泥水が飛び散った。
驚いて目を開けると、奈美は両手で鞄を持ち、思いっきり振りぬいた後のような恰好をしていた。奈美が鞄でぶったことは明らかだった。
「ど、どうして……」
卓也のその問いに、奈美はふっと笑うとこう答えた。
「私がほんとにあなたのことが好きだと思ってたの? 馬鹿みたい、あんたみたな気持ち悪いのと2週間も付き合ってたと考えるだけで寒気がするわ。
私は最初からあなたのことが嫌いだったの。いつも騒がしいし、それなのにみんなからは人気だし。そんなときにあなたから告白されたから、思い知らせるちょうどいい機会だと思ったわけ。
そういうことだから、さっさとどこかに行ってくれない? 目障りなの」
「そ、そんな。いまさら奈美のことをあきらめるなんて僕にはできないよ。明日から、どうやって生きていけばいいの?」
「そんなの知らないわよ。どこかへ行こうが、勝手に死のうが、私の知ったこっちゃないわ」
卓也は、しばらく呆然とした後、這うように学校を後にした。
本当に奈美が恐ろしかったのは、ここからだった。熱を出して卓也が1週間寝込んでいる間、誰もが何も言えなくなるオーラで、クラスを自分のものにしたのだ。はじめは、彼女と言い合う人もいたが、正面から向き合うとそのオーラには勝てず、ついに彼女に逆らえる人はいなくなった。
1週間後、卓也が学校に戻ってきたときは、さらにひどかった。
クラスを完全に牛耳っていた奈美は、卓也のことを無視させ、いじめさせ、精神的に弱らせた。そして、ついに卓也は学校に来なくなった。
3年1組から、笑い声が消えていた。
******
「学校に来なかった間のことは俺は知らない。ちょうど、俺が高校入学と同時に引っ越すことになって、隣町の桜学園に入学したんだが、卓也も桜学園に入学したんだ。その時の卓也はまるで別人のように人が変わっていて、無口で暗かった。卓也をそんな風に変えた奈美が許せなかったよ。
俺は一緒になって奈美に従ってしまったことを謝った。最初はなかなか許してもらえなかったけど、少しずつ俺たちは仲良くなったんだ。そんなとこかな。
だから、卓也にはトラウマがあるんだ。また裏切られるんじゃないか、笑いモノにされるんじゃないか、そんな不安のせいであんなことを言ってしまったんだと思う」
私は、西尾君のことを何にも考えてなかったんだ。全部自分のことばっかり。だから傷つけてしまった。もっと早く、本当のことを言えばよかったのに。
「ごめんなさい、ごめんなさい……、わたしのせいで」
いったん引いていた涙が、また胸の奥からあふれてくる。
「葉子ちゃんのせいじゃない、とは言い切れない。だけど、卓也を救えるのは葉子ちゃんしかいないと俺は思うよ」
「えっ?」
「葉子ちゃんは今の話を聞いても、卓也のことが本当に好きなんだよね?」
私はもう一度考えた。この気持ちは、本当に西尾君のことを好きだという気持ちなのかを。
考えれば考えるほど、胸の奥が熱くなる。今すぐにでも、西尾君に会いたいと思う。これからずっと、西尾君と一緒にいれたらと思う。
これが、私の気持ち。生まれて初めての気持ち。
「うん、西尾君のことが誰よりも好きだよ」
「だったら、卓也に葉子ちゃんの口から本当の気持ちを伝えてほしい。ちゃんと伝えれば卓也もわかってくれるよ、いい奴だから。また、2年前のようなことにならないようにするためには、葉子ちゃんの力が必要なんだ」
「私、あんなひどいことをしちゃったのに、また西尾君に会っていいの? まだ西尾君を好きでいていいの?」
「俺は、卓也の隣にいるのは葉子ちゃんがぴったりだと思うよ。頼む、卓也を助けてやってくれ」
私は迷った。西尾君に会うことで、また傷つけてしまうことが怖かった。
「あれ、これ西尾君の鞄じゃない? 忘れて帰っちゃったのかな? 明日数学の小テストだから、勉強道具がいるんじゃないのかな……。ねぇ、葉子?」
そういうと、望は鞄を私に差し出し、小さくうなずいた。
やるしかない、行くしかない。私の、最後のチャンスだもの。
「2人ともありがとう。 私、行ってくるよ!」
私は、鞄を受け取ると、パソコン室を飛び出した。
待ってて、西尾君!