プロローグ:女神の気まぐれ
とある日の昼下がり。
「あらぁ?こんなところにこんなぬいぐるみなんて、あったかしらぁ?」
神たちが住まう神界でも聖域にあたる神殿の中。
とある女神が偶然見つけたのは、古びて柱の陰に置かれていた20cmほどの薄汚れた〝ぬいぐるみ〟だった。
人間の形をしていて、とある世界の人間たちがよく〝推し活〟?とやらで日夜持ち歩いているものに近いかもしれない。
そこでは略して〝ぬい〟と呼ばれていた。略称なのだろうが、人間たちはなんでもかんでも略したがる。
最近だと悲しい時には〝ぴえん〟というらしい。〝ぴえん〟を超えると、どうやら〝ぱおん〟になるらしい。どのタイミングで使えばいいのだろう。感動するときには〝エモい〟というらしいし。
その辺りの若者言語というものが、いまだに理解出来ていない女神であった。人間の言語はいつの時代も目まぐるしく進化していき、ついていけなくなる。
長くなったが、神たちは各々が持っている〝神具〟によってさまざまな世界の人間たちの暮らしを観察している。要はその時に見た、ぬいぐるみっぽかったのだ。
さて、と。
そのぬいぐるみを持ち上げると、右腕は縫い目がほつれ、そのほつれた隙間からは綿が溢れ出してしまっていた。
目の部分にあしらわれたボタンは片方が取れて無くなっていて、かろうじて残っていたもう片方の木の目も取れかかっているではないか。糸も切れかかっていた。
いつからかは分からないが、長く放置されていたのだろう。色々な箇所にガタがきてしまっている。ゴミ捨て場に捨てられていてもおかしくない劣化振りである。
「こんな場所に放置されてこんな有り様なんてぇ……。さすがに可哀想ねぇ」
女神は慈愛に満ちた瞳でぬいぐるみを腕に抱え直すと、神殿からぬいぐるみを持ち出し自身の家へと持ち帰った。
女神の家は森の中央部に位置し、家の裏手には大きな泉があった。その泉の水面を重力に逆らうように平然と歩く女神。そして女神はあろうことか、ぬいぐるみを泉の中へとそっと落としたのだった。
もちろん、ぬいぐるみはゆっくりと沈んでいったが、頃合いを見計らって女神が手招きをすると女神の意思に従うようにぬいぐるみは浮上し、ゆっくりと女神の手元へと戻ってきた。
ぬいぐるみは泉の水を吸っていてずっしりと重くなっていたが、それも瞬きをしていた次の瞬間にはすっかりと乾いていて汚れも取れて綺麗になっていた。
「うんうん。とってもキレイになったわぁ〜」
女神は満足したように目を細めると家の中へと戻り、まずはほつれた右腕を見えない透明な糸で縫い始めた。その際に飛び出てしまっていた綿を入れ直すのも忘れない。
女神は順調に縫っていったが、途中で綿の量が少し足りないことに気が付いた。この神界には綿というものが存在しないゆえ、仕方なく女神は自身の髪の先をほんの少しだけ切った。その神はみるみるうちに綿の形へと変わり、女神はその綿を代わりに詰めた。
そして新たな糸で全体を縫い直す。せっかく直しても、また別の所が破れてしまっては意味がないからだ。
次に女神は、取れかかっていた目の部分のボタンをあっという間に縫い直した。
さてと次に困ったのは無くなってしまったもう片方の目の部分だ。綿と同様に髪を媒介に同じものを模してもいいが……。
女神はふと思い出すと、自室から青色の小さな宝石を持って来て、その宝石ごと糸でしっかりと縫い合わせた。
「なかなかの出来じゃなぁ〜い?」
女神は何度も何度も頷くとぬいぐるみをギュッと抱きしめ、テラス席へぬいぐるみをそっと置くとティータイムの時間だと、機嫌良くキッチンへと向かっていった。
◇◇◇◇◇
時にしてほんの5分後の出来事だったと思う。
女神がテラスへと戻ってくると、そこには真っ裸の人間が椅子にもたれかかるように座っているではないか。
その人間が座っている椅子は、先ほど私がぬいぐるみを置いた椅子であった。周囲を軽く見渡してもぬいぐるみが落ちていたりすることはない。
つまり……?
そういう事だろうか。
その人間は黒と青色の瞳。髪色も黒と青が混ざったような瑠璃色。その肢体は痩せ細っていて、触れれば折れてしまいそうな危うい儚さを持っていた。
その容姿は……男性とも女性ともいえない、性別が無いと女神は判断した。
目が合うと、人間は立ち上がろうと力を入れたようだったが、うまく力が入らず失敗に終わってしまう。
女神はテーブルに、ティータイム用に持ってきたトレイをひとまず置いた。
「あなたはぁ……さっきのぬいぐるみさん?」
女神は近付きそう尋ねたが、人間は口をパクパクとさせてはいるがうまく声が出ないようだ。声を出そうとすると擦れて、言葉にならないらしい。
喉が潰れているわけではなさそうだけど。
「あらぁ?声が出ないのねぇ……じゃぁ、ちょっと失礼するわよぉ」
女神は人間の額に触れて手を離すと、心の中で人間へと話しかけた。
『あなたは、さっきのぬいぐるみさんなのかしらぁ?』
人間はビクッと肩を小さく上下させると、不安そうに目だけを動かし女神を見上げ、口をキツく結んだ。警戒心を持たれてしまったのかもしれない。
女神はボソボソっと小声で何かを唱えると、次の瞬間、家の周りと泉の周りにたくさんの花を咲かせた。花弁がひらひらと舞い、とてもキレイな光景だった。
そのうちの一枚の花弁が人間の鼻先に乗った。
『……安心してぇ。あなたに危害は加えないわぁ〜。何て言ったって私、女神ですものぉ』
女神は花弁をそっと取り、人間の片手を自身の両手で包み込むと、大丈夫、大丈夫と伝えた。
すると人間は落ち着いたのか、ゆっくりと話し出してくれた。
『……………あ、なたは、めが、みさま?……ですか?』
『えぇ。そうよぉ。ここは神界。神達が住む領域なのよぉ?私はね、さっきあなたが今座っている椅子にあるぬいぐるみを置いたのぉ。でも、ティータイムの準備でちょ〜っと目を離した隙にぬいぐるみは消えていて、あなたがここにいたってわけなのぉ〜』
『わた、おれっっ、ぼっ………?わたし、は、めをさましたら、ここにいました。それ……までのきおく?が、ありません。ぬい、ぐるみ?……なに、のこと?か、わかりません』
『んん〜、そうなのぉ?でもあなた、その目といい体内を巡る神力といい………うーん?まぁ、そういう不思議なことも、長く生きてればあるわよねぇ〜〜?たぶん??』
女神は深く考えることをやめた。
『あなたはねぇ、多分だけど〜神殿で放置されていたぬいぐるみさんよぉ〜?私はそれを持ち帰ってキレイにして〜……まぁ、多少省くけど〜あなたはおそらく人間。この神界ではとっっても異質な存在よぉ〜?そしてこの体型といい、あなたはおそらく男でも女でもない性別が無い状態ねぇ〜。その辺はどう?認知できてるぅ?』
本人に性別の意識があるかどうか、その確認だった。
『………わか、りません』
それも女神にとって想定内の答え。
『そうよねぇ………じゃあ、あなたはコレからひとまず、一人称を〝私〟としましょうか。あと、当然名前も無いのよねぇ?無いと不便だから、私が決めてもいいかしらぁ?』
女神がそう言うと、人間は精一杯の力を込めて立ち上がろうとして、前方へ倒れた。
女神は慌てて抱きとめると、やはりぬいぐるみを抱きしめた時に感じた感覚に似ていた。
『あ、あのっっ………なま、え?わ、たしの?……つけて、くださる、んですか?』
『えぇ。………そうねぇ〜。………あなたの瞳と、髪色からラピスラズリ………いえ、長いから〝ラピス〟でどうかしらぁ?』
『あ、ありがとう、……ございます。私、は、ラピス、です』
『えぇ、よろしくねぇ〜』
これから私、ラピスと女神様との生活が始まりました。
◇◇◇◇◇
そしてどのくらいの時間を一緒に過ごしたか分からなくなってきた頃。
ラピスはすっかりと肉つきもよくなり、あの頃の姿とはうって変わり、まるで別人のように変わっていた。
身長もだいぶ伸び、女神と同じくらいかそれより少し高いくらいなので165cmほど。ブーツのようなかかとの高い靴を履いていることが多いので靴ありなら見た目は166cmくらいだろうか。
黒と青が混ざったような瑠璃色の髪もだいぶ伸び、結ばないと腰の辺りまでくるだろうがラピスは髪をひとまとめにし、まとめている。三つ編みにされていたり、何かとヘアアレンジされたりしているのは女神の趣味である。
服装も女神が人間界の服を真似て、ラピスは毎日のように着せ替えられていた。いちいち着るのが手間な服ばかり着せられ、着せ替えNG宣言をラピスがした際には、ならば……と指パッチン一つで一度着た服に瞬間的に着せてくれる女神のアイテム(銀色の指輪)を着けられてしまった。
そんな便利なアイテムがあるのであれば、もっと早く出してほしかった。
ついでだからと引き出しをごそごそと漁り、両手首にバングル、両手の指には指の数だけリングをつけられてしまった。決して邪魔にならないサイズほどのゴテゴテしていないものだったので、そのままつけて生活をしている。
女神に贈られたものなので、大切にはしているが………
ただのバングルとリングではないのだろう。価値もどれぼどのものなのか、想像することすら躊躇われる。………いまだに怖くて、女神に聞けていない。
それと、ラピスは女神に助けてもらった恩を返すため、必死で様々な世界線の文字や言語を習得した。
時間は無限にあったようなものなので時間はかかったが、だいぶ覚えた思う。
ラピスは最近では、女神の代わりに様々な世界線の人間界をみて、気付いた事を書き起こし報告していた。神具を使っている女神の様子を観察し、やり方を覚えたのだ。
その他にも他の神々との書類のやり取り、女神に言い寄る男神を神界の彼方まで追い払い、家での掃除洗濯まで家事も幅広くこなしていた。
ラピスは相変わらず自分が何者だったのか、今までどんな世界にいたのか分からないままだった。思い出せないというより、すっぽり空白の時間があるような。そんなモヤっとした感覚。
そもそも自分は本当に人間なのかと思う日もある。
そんなふうに自分のことを考える余裕はできた。
そして女神様のこと。
まるで女神の秘書のような。そんなポジションにラピスは満足感でいっぱいだった。少しは役に立てていると、そう思うことで誇らしかった。
恩人であると同時に、母のようにラピスは女神を慕っていた。
だからこそ、いつもと変わりない1日が始まった矢先、女神から衝撃的な発言をされるだなんて、夢にも思っていなかった。
いっそ夢だったら良かったのに。
「ラピス、あなた人間界へ転生なさいな」
「………いま何と………?」
あまりの衝撃に、ラピスはうっかり持っていた書類を火の神力で燃やしてしまった。