第8話「酒場にて、歌えぬバード。」
「……歌えって言われても、無理だ」
カウンターの端で、ぼそりとつぶやいたのは、薄汚れた旅装の男だった。肩まで伸びた金髪が脂で固まり、背中のリュートには蜘蛛の巣が張っていた。
「酒場でバードが黙ってたら、ただの旅人にしか見えねえな」
店主が笑いながら言うが、男は眉ひとつ動かさなかった。
「バードなのに、語らないんですか?」
ロルクが興味半分で声をかける。フランデルは、というとすでに勝手にカウンターの中に入って酒を物色していた。
「おい店主、この酒ちょっと古くない? 醸造技術に信用がないなー。あ、でも香りは嫌いじゃない」
「勝手に飲むな!!」
喧騒の中、バードの男は空のコップを見つめたまま、ぽつりとつぶやいた。
「歌っても、誰も聴かない」
静寂。
その一言だけで、酒場の空気がじんわりと変わる。
「……それ、どこで?」
誰かが静かに問いかける。
男は視線を上げないまま、低く答えた。 「西の開拓村。三日前。村が、焼かれた」
誰も言葉を継がなかった。
フランデルだけが、酒を片手に一歩前に出る。
「じゃあ、今ここで歌ってよ。私がちゃんと聴いてあげるってば」
男は一瞬だけフランデルを見た。 目は濁っていたが、その奥に、何かがかすかに動いた。
「……チューニング、合ってないけど」
リュートを手に取り、弦をはじく。音はくぐもっていたが、旋律は確かだった。
彼が口にしたのは、語りだった。旋律に言葉を乗せる──それがこの世界の“歌”。語るだけの詩。
最初の詩は、子守唄のような優しい調べだった。 そして二つ目の語りは、酒場のあちこちにいた男たちの瞳を赤くするほど、誰かを思い出させる何かを運んできた。
いつもの“語り”と何かが違った。
誰も言葉を挟まなかった。誰も口を開けなかった。 けど、誰かが息を呑んだ音がした。
それは“語り”じゃなかった。旋律が感情を引き出し、言葉の意味以上に胸を突いた。
空気が、揺れていた。
ロルクは思った。「これは、魔法じゃない。ただの音。でも──胸が、揺れる」
その横で、フランデルがぼそっと言った。 「この世界には“歌う”って文化、まだ“なかった”んだってさ。今ので、できたな。」
静かに、演奏が終わる。
酒場の隅で、ひとりの男がぽつりとつぶやく。 「……これ、音じゃねぇ。魔法かよ……」
「ちがうよ」
フランデルが振り返らずに答えた。 「これは“心が動いた”音なんだよ」
フランデルが小さく拍手をする。 「……ね? 歌えたじゃん」
男は無言でコップを差し出した。 店主が無言で酒を注いだ。
誰も笑わなかったけれど、誰も黙ってはいなかった。
その夜、酒場には確かに“歌”があった。 それは誰かの喉から出たものじゃなくて、誰かの胸の中で生まれて、響いた。
誰も“歌”なんて知らなかった。でも今、誰かが泣きそうになってた。 たぶん、それが──はじまりだった。
次回予告:「発明ドワーフと爆発の日々。」
穴の奥から響く爆発音。火花、煙、そして飛び交う工具。誰も求めていないのに、彼は未来を作ろうとしていた。