【009】二人の温度差
※ようやく、ここから少しずつ婚約者の登場です。
説明多め注意。
あの頃(といっても少し前)、弱ったロズリーヌがダニエラに対して感じていたこと。
「あ」
ロズリーヌは、自身の手に柔らかく重なったもうひとつの手を見て、思わず声を上げた。
視線を持ち上げると、目の前に座っていたセレスタンは目を細める。
「――それで?」
綺麗に盛りつけられた焼き菓子を、婚約者のために取り分けてやりながら、話の続きを促した。婚約者としての時間を楽しみながら、二人はロズリーヌの日々の出来事について話していた。
婚約破棄などという王室の醜聞に巻き込まれた――というより、当事者のひとりだ――ロズリーヌが、ようやく貴族学院に復帰したのである。
ありがとう、と婚約者に礼を述べ、ロズリーヌは再び口を開いた。
「いったいどんな扱いが待ち受けているのかしらと楽しみにしていたのだけど、思ったより変わらなくて安心したというか、拍子抜けしたというか」
正直な感想に、セレスタンは軽やかに笑う。
「君に非が無いことは誰の目にも明らかだったし、王室から除名されると通達された王子より、侯爵令嬢である君の立場を優先すべきだと判断したんだろう。まあ、賢明だよね」
わかってはいても、ロズリーヌはそれを苦々しく思っていた。エミールとロズリーヌ、どちらにつくかで天秤にかけられたのだと。
「侯爵令嬢といっても、家族はあれだけど」
「うん、君が家族とうまくいっていないのは、知る人ぞ知ることではあると思う。とはいえ、彼らにとって重要なのは、君がれっきとした侯爵家のご令嬢であるということだ」
「……複雑」
婚約関係になる前よりは幾分か砕けた口調で言いながら、ロズリーヌは肩を竦めた。
「でも、あんな家族だったおかげで、君は私のもとに来てくれた」
それはそれはうれしそうに、セレスタンが微笑む。
「君は私のもとに来てくれた」――というのは、言葉通りの意味で、現在、ロズリーヌはアンドレアン伯爵家のタウンハウスに居を移している。
曰く、あんな家族のもとに、大事な婚約者を置いておけないのだそうだ。
「……ふふ」
ふと思い出して、ロズリーヌは目尻を垂らした。
「私、何か面白いことを言ってしまった?」
「ああ、いいえ、ただ……あの時の父のことを思い出して」
所謂、思い出し笑いというやつである。
なるほどと、セレスタンが同調するように頷いた。
「あれは見物だったな」
無能でもないが有能でもない、平凡なロズリーヌの父。優秀な貴族家当主に囲まれると埋もれてしまう彼は、しかし自分より下だと認識した人間の前では酷く傲慢で。
それはロズリーヌに対しても同様だったのだが、アンドレアン伯爵自ら、ロズリーヌとの同居含め、その他待遇に関する話し合いに出向いたところ、悔しさの滲み出る表情でぎこちなく全面的に同意した。
(どうにかして阻止したい……そんな顔をしていたわね)
なにしろ彼は、娘を不幸に陥れたいのだ。
それには、セレスタンが提案したような、いかにも幸せになりそうな婚約条件では困る。
だが、セレスタンは次期公爵。
ロズリーヌとの同居は、セレスタンの強い希望でもあるので、ここで変に揉めたくはなかったのだろう。本心が抑え切れていない妙な表情を浮かべながら、「まだ愛娘と離れたくない」だの「娘がうまくやっていけるか心配だ」だのと呟いていたが、取り繕うにしたって遅すぎた。
先ほどセレスタンが言ったように、アレグリア侯爵家でのロズリーヌの扱いは、一部では有名な話である。
「小心者なの」
額に汗を滲ませながら、なんとか娘を引き留めようとしていた父の情けない姿を思い浮かべ、ロズリーヌは苦笑する。
次いで、話題を変えるように、明るい表情でロズリーヌが言った。
「まあ、なににしても、今回の件で、今後お付き合いできそうな方たちもだいぶわかったわ」
「……それは流石だけど、単純に『良かったね』とは言いづらいかな」
セレスタンが悩ましげに息を吐き出す。
美しい人は、どのような表情を浮かべても美しいのだなと、ロズリーヌはぼんやりと思った。こうして見ていると、精巧に作られた人形のようだ。
こんな人が自分を好いてくれているだなんて、にわかには信じられない。でも、現実なのだ。
(自意識過剰に思われるかもしれないけれど、今度、何がきっかけでわたくしのことを好いてくださったのか聞いてみましょう)
視線が合うと、こちらがびっくりするような熱量で、うっとりと見つめてくる新たな婚約者。正直、いろんなことが唐突すぎて、心がついていかないのだが、それはセレスタンも承知するところであるらしく、過度な――例えばキスのような――触れ合いは控えてくれているようだ。
時折、それでも我慢ならないとばかりに、手が宙を彷徨っていることはあるが。
「彼女の味方をして、君に損害を与えた者は例外なく敵だから、あとで教えてね」
『彼女』とは、ダニエラのことである。
よほど腹に据えかねていたのか、セレスタンはダニエラのことを、決して名前で呼ばない。
大事なひとが傷付けられたということ以外にも、彼女の無計画な行動により、第一王子が王室から除名され、多くの貴族がそれぞれに動き出しているので、彼の仕事にも影響が出ているということがあるからだろう。
優秀なセレスタンは、このたび立太子することが決定したアーロンの側近候補でもある。
「ああ、そういえば」
うっとりとロズリーヌを眺めながら、セレスタンが思い出したように切り出した。
「彼女との話は、どうだった?」
流れるような話題の転換だが、今日の本題はこれだったかと、ロズリーヌは察する。顔を合わせた瞬間から、なにか物言いたげではあったのだ。
「うまくいったかどうかということなら、まあ、わたくしが一方的に話しただけだから、うまくいったと言えるんじゃないかしら」
ロズリーヌがダニエラとの面会を決めた際、セレスタンは強く反対した。
ただでさえ疲弊している婚約者を、これ以上、傷付けたくないと心配してのことだった。
「一方的に? 君が?」
セレスタンが、意外そうに訊き返す。
あの煩い女が、黙って人の話に耳を傾けている姿など、想像できなかった。
「予想していた通り、彼女はただ王妃になりたかっただけみたい」
「本人がそうと?」
「ええ、『王妃になれるはずだった』とはっきり」
「……それは、なんというか」
――なんというか、まあ。
気持ちはわかる。
「でも、自分なりに納得はできた……と、思う」
檻の中のダニエラに会いに行ったのは、自分のためだった。
立場上、ダニエラには強く出たし、それが許されるとも思っているが、ロズリーヌの心中はもう少し複雑だった。
見方によっては、ダニエラも被害者なのではないかと、心に暗い影を落としていたからだ。
――と、いうのも。
通常、王族が貴族学院に通う際には、王室が選んだご学友がつくものである。彼らは、将来を見越した側近候補として、よく働くよう厳しい教育を受けている。
また、一般的な貴族子女ではあり得ないことだが、王族にのみ、学院の中でも護衛が用意されることになっている。
例に漏れず、エミールの場合も同様だった。
つまり、一介の貴族令嬢がなんの障害もなく、王族に近付けたという事実そのものが不自然すぎるのだ。
本来、ダニエラはまずここで疑問に思わなければならなかった。
婚約者であるロズリーヌ以外、誰も諫めに来ないことを――いや、誰も、というのは、些か語弊があるかもしれない。
エミールのご学友や護衛たちは、確かに口頭で注意をしていた。第一王子は婚約者がいる身なので、みだりに近付きすぎないようにと。
ただ、許可なく王族の体に触れるなど、実際には、その場で斬り捨てられても文句が言えない所業である。口頭で注意をするというのは、ロズリーヌから見たら、何もしていないことと同義だった。
そして、気がついた。
国王にはもう、第一王子を守る気がない――それどころか、ついに見限ったのだと。
ここ数年、ただでさえ素行の悪さで注目を集めていたエミールだ。ロズリーヌがどれだけ努力しようが、すべては無に帰した。
そこに現れたのが、ダニエラという娘。
いかにも問題を起こしそうな挙動をする彼女のことをきっかけに、第一王子を王室から切り離してしまおうと考えるのは、為政者としては正しい判断だろう。
ロズリーヌも、その思惑に乗ることにした。
長年の婚約者との関係に、心が疲弊していた――。
そう言うと聞こえは良いが、要は、それ以上の思考を放棄したのだ。思うところはあったものの、無理に抗うぐらいなら、流されたほうが楽だった。
だから、ダニエラが王妃になりたがっていると薄々勘付いていて、放置した。「人の婚約者を強引に奪ったのだから、どうなっても自業自得だわ」と思いながら。
それは紛うことなき本心であったが、面白いぐらいに二人の立場が悪くなってくると、ロズリーヌの頭をふと掠めることがあった。
彼女は無知だ。にもかかわらず、知るべき情報を与えないままに、王室の事情に巻き込むだなんて、ダニエラも被害者なのではないか? と。
つまり、ダニエラはロズリーヌを陥れようと躍起になっているけれど、見ようによっては、ダニエラのほうが陥れられていると考えられなくもない。
もし、途中で王妃になれないのだと理解したならば、その時点で手を引いていたかもしれないのだ。
自分の中の『正しいこと』がわからない。
そんな複雑な心境を抱えながらも、ダニエラから向けられた悪意に耐え続けるロズリーヌに、「落ち着いて考えよう」とセレスタンは言った。
一部、故意的に手が抜かれた部分があったとしても、婚約者のいる相手――それも王族――に近付こうと思ったのはダニエラ自身で、それに伴い、ロズリーヌを無意味に陥れることを決めたのも彼女自身だと。
自分同様、無知な下級貴族の子女たちを集め、ロズリーヌを一方的に悪者に仕立て上げようとしたその報いを受けるだけだとも。
実際、ダニエラは、とても口には出せないようなことも企んでいた。無論、密かにロズリーヌの周辺にも目を光らせていたエミールの護衛によって、事前に阻止することはできたが(うっかり計画段階で潰してしまったため、首謀者の名前を実行犯の口から聞き出しただけで、十分な証拠は得られなかった)。
そうして、セレスタンに諭されはしたものの、その頃のロズリーヌはといえば、とても普通といえる精神状態ではなかったので、それでもなお、消化できないものが心の中に渦巻いていた。
最後にダニエラと顔を合わせる決断をしたのは、そんな自分の中の複雑な感情にいったん区切りをつけ、次に進むためだ。
結果として、ロズリーヌは自分自身を納得させることができた。
もっと他にやりようはあったかもしれないが、ダニエラはやはり、明確にロズリーヌに敵意を持っていた。いや、わかってはいたが、改めて思い知らされたと言ったほうが正しいかもしれない。
彼女に情けをかける必要などないのだと。
「納得できたなら良かった。犯罪者なのに、君の心の中にずっと居座り続けるなんて、なんて図々しいんだろうと思っていたから。犯罪者じゃなくても許せないけど」
「……セレスタンさま」
清々しいまでの笑みを浮かべるセレスタンに、「発言はまったく爽やかじゃないわね」などと思いながら、ロズリーヌは頬を引き攣らせる。
――豹変が過ぎるのだが。
少し前から、好意を寄せられているかもしれないと感じる言動は見受けられたものの、一般的な貴族の男女の距離感を決して測り間違えなかったセレスタン。
が、婚約関係の契約を正式に交わしてからというもの、ずっとこの調子である。
曰く、浮かれているのだとか。
(美しすぎて、目に毒なのよね……)
シリアスばかりでなく、少しはまともな(?)恋愛要素も入れ込んでいくつもりなので、どうぞよろしくお願いします。