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【008】『あの日』のこと

「……こんやくしゃ」


 今しがた耳にしたばかりの単語を、幼いロズリーヌは聞いたままに繰り返した。

 あまり馴染みのない言葉。

 だが、目の前にいる父は確かに言った。

 「婚約者に会いに行く」と。

 ロズリーヌは困惑した表情で父を見上げるも――父は机の上に視線を落としたまま、娘に一瞥すらくれない。書類を(めく)る音だけが大きく響いていた。


「『こんやくしゃ』って、なに?」


 「会いに行く」というからには、人なのだろうが。

 父からの返答がないので、仕方なしにそばに控えていた家令の男を見上げる。


「……将来的に、お嬢さまと結婚する男性のことです」


 さも億劫そうに答えるこの男のことが、ロズリーヌは苦手だった。

 いや、この男だけではない。

 基本的に、侯爵家の使用人のロズリーヌに対する態度は、このようなものばかり。自分のことを(いと)うているのだと、幼いながらも察するものがあった。


「……けっこん」


 再び、ロズリーヌが繰り返す。

 結婚は流石(さすが)に知っていたが、いまいち想像できなかった。


「さっさと準備をしなさい」


 成長したロズリーヌなら「今からですか?」と訊ねただろうが、幼いロズリーヌは、父の冷めた声と家令の男に追い出されるようにして、言われるがまま、準備をしに自室に戻るしかなかった。

 ――ロズリーヌ、六歳。

 この日、初めて顔を合わせる『こんやくしゃ』との『こんやく』が、どうやら自身が三歳の時に結ばれたものだったらしいことを知った。





 父に連れられ、王宮へ向かう。

 この時のロズリーヌの意識にあったのは、初めて聞いた『こんやくしゃ』のことなどではなく。まともに言葉を交わしたこともない父と二人きりだということだった。

 この中(馬車の中)でなら話しかけても許されるかもしれないと期待したのもあったが、気に(さわ)るようなことをすれば、どことも知れない場所で放り出されるのではないかという不安のほうが大きかった。

 結局、ロズリーヌは口を噤むことを選んだ。


「よく参った」


 王宮に到着すると、ロズリーヌたちはすぐに国王のもとへと通された。

 謁見の間である。

 (おごそ)かな雰囲気に飲み込まれながらも、ロズリーヌが足を止めることはない。幼子(おさなご)の歩幅もわからぬ父に、ほとんど引きずるようにして歩かされていたからだ。


(……こわい)


 (ひざまず)いた父と二人、顔を上げることを許されたロズリーヌが、国王を見てまず思ったことはそれだった。単なる恐怖か、それとも――。

 まあ、大枠で見れば、貴族令嬢も国王の()()()だ。偉大なる君主(国王陛下)を前にそう思うのは、ある種、自然なことと言える。

 むしろ、ロズリーヌの年齢でそう感じたのなら、やはりそれだけ敏感な少女だったということなのだろう。


「こちらです」


 その後、国王が父と『こんやく』についての詳細を詰めるのにしたがって、ロズリーヌは『こんやくしゃ(自分)』を待っているという『こんやくしゃ』のもとへと案内された。

 ロズリーヌの案内役を命じられた女性は、無機質な笑みを崩すことなく、小走り気味についてくる少女をちらりと一瞥する。それが実家の使用人を彷彿とさせ、ロズリーヌは知らず知らずのうちに肩を強張らせていた。

 しばらく――子どもの感覚では、永遠にも思える時間だった――歩くと、綺麗に整えられた草木に囲まれた、小さな庭園のような場所が現れる。

 ロズリーヌは息を呑んだ。


 ギュッと寄せられた眉。

 興奮から赤みの増した頬。

 強く握り締められた拳。


 そこには美しい少年が、けれども実に不服そうな表情で佇んでいた。


「お前が、僕の『こんやくしゃ』?」


 それなのに、なぜだろう。

 そんな少年を見て、ロズリーヌはようやく息をすることを許されたような気がしたのだ。


「はい、わたしが殿下の『こんやくしゃ』です!」


 思わず笑みを浮かべ、大きく首肯するロズリーヌ。その反応に、『こんやくしゃ』は驚いたようだった。


「アレグリアこうしゃくのむすめ、ロズリーヌと申します!」


 貴族のルールとして、本来、王族の許可を得る前に話し出してはならないというものがある。淑女教育が始まってすぐ、ロズリーヌもそのようなことをきつく言い聞かせられていた。

 だが、自身の『こんやくしゃ』と顔を合わせたことによる興奮と、謎の安堵から、学んできたすべてが頭の片隅に追いやられてしまったらしい。

 屈託のない表情で、ロズリーヌは一歩、『こんやくしゃ』に近付いた。『こんやくしゃ』はぎくりと肩を揺らしたが、逃げる様子はない。


「……エミール」


 いったい何をそこまで警戒しているのか――非常に小さな声だったが、『こんやくしゃ』の少年はエミールと名乗った。

 エミールでんか、とロズリーヌが口の中で耳にしたばかりの名前を転がす。

 父から詳しいことは聞かされていなくとも、王宮に連れて来られたうえに、国王への謁見まで果たしたのだ。目の前にいる相手が王族の一員――つまり、『殿下』と呼ばれる存在であろうことは、流石(さすが)のロズリーヌにも察することができた。


(『こんやくしゃ』は……いつか、けっこんする人、って……言ってた)


 ならば、エミールとロズリーヌは家族になるということだ。


(かぞくに……)


 ロズリーヌの家族といえば、呼び出しがないと会うことすらできない父のみ。あるいは、少し前に父のもとに嫁いできた義母と、まだ幼い異母弟(おとうと)もいるが、ロズリーヌは彼女たちのことも苦手に思っている。異母弟(おとうと)の立場を考えれば、なるほど確かに、ロズリーヌは邪魔な存在と言えるだろう。

 でも、とロズリーヌは考え直す。

 自分は『家族』というものを知らない。

 貴族の家では、自分の家族のような関係が当たり前なのかもしれない。

 でも。

 将来的に、新しく『自分だけの家族』を作ることは可能なのではないか、と。

 ロズリーヌは目の前の少年に、希望を見た。


「エミールでんか! わたしっ――」


 ――そうか、そうなんだ!

 幸せな将来を想像し、興奮気味にぐっと『こんやくしゃ』に近付いた時だった。


「来るな!」


 穏やかな青空を切り裂くように、悲鳴が上がる。ゆっくりと雲が流れていく様子を、ロズリーヌはぱちくりと目を瞬かせて見上げていた。

 じん、と肩に鈍い痛みが走り、そこでようやく、自分が転ばされたのだということに気がつく。


「あ……」


 慣れないドレスを着ていたため、四苦八苦してしまったが、ロズリーヌがなんとか上体を起こすと、エミールは自分より年下の少女の肩を押した自分の手を見つめていた。

 それは咄嗟の行動で、意図したものではなかったようだ。


「ぼ、僕……」


 何かを言おうとして、口を噤む。

 何度かそれを繰り返しているうち、自分でもどうしたらいいかわからなくなったのか。途方に暮れたような表情で、エミールはギュッと目を瞑った。

 それがどことなく泣きそうな表情にも見えて、ロズリーヌは慌てた。


「あっ、でんか、でんか! ごめんなさい! わたし、よろしくって言いたかっただけなの!」


 間違っても、王子相手にしていい口調ではなかったが、それを声に出して咎める者はいない。


「あの……ちかづき、ます」


 確かに、無害に見える動物でも、急に距離を詰められたら怖いものね――と、ろくに動物と触れ合ったこともないロズリーヌは、精一杯、大人びて見えるように微笑む。

 拒絶の言葉がないのをいいことに、ほんの少しだけエミールに歩み寄り、「さわります」と言いながら、重力に従ってだらりと落とされていた手を取った。

 エミールの手は、酷く冷たかった。


「『こんやくしゃ』は、いつかけっこんする人のことだって、聞きました。それって、かぞくになるってことでしょ? わたしのお父さまとお母さまはあまりなかよくなかったけど、今からなかよくしておけば、けっこんしたあともなかよくできるかもしれないから、だから……」


 (つたな)いながらも、一生懸命、許す限りの語彙で自分の考えを伝えるロズリーヌ。

 しかし、そこでハッとひとつの可能性に思い至った。


「……でんかは、わたしとけっこんするの、いやだった?」


 自分にとってうれしいことだからといって、相手にとってもそうであるとは限らない。

 頭の中に浮かんだ疑問を素直に口にすると、エミールは力なく、けれどもしっかりと首を横に振った。ロズリーヌはそれに安堵して、「じゃあ、わたしたち、かぞくね!」と頬を染める。


「あ、僕……」


 身を固くしていたエミールが口を開いた。

 ロズリーヌは、わずかに震えているように見えるその唇をじっと睨みつけた。聞き逃してはならない、と自分自身に言い聞かせながら。

 ところが、薄く開いたそこからは「あ」「う」と単なる音の羅列が漏れるだけだった。

 ロズリーヌはそれでも根気強く待つつもりだったが、数秒経ち、数十秒経ち、それ以上経っても――エミールが意味を持つ言葉を発することはなく。


(ど、どうしよう)


 それに対峙するロズリーヌも、困惑してしまう。

 目の前にいるのは、自分より年上の少年。

 けれども、緊張からか、顔が真っ赤になっている。額にはじわりと汗が滲み、頬が強張っているのも見て取れた。

 その様子を眺めていると、なんだか可哀想になってきて、思わず何事かを口走ろうとした――実際には、何を考えていたわけでもない――ロズリーヌは、『こんやくしゃ』の口から漏れた「ごめ……」という囁くような声に、彼が言いたかった言葉を察した。


「ん!」


 握っていた手を離し、俯きがちに佇んでいた彼の視界に入るように、ずい、と自分の小指を差し出す。


「ん!」


 反応が薄いので、もう一度言った。


「な、なに……?」


 そろそろと視線を持ち上げたエミールに、ロズリーヌは「こゆび、()()()()()!」と喜色を滲ませて笑う。

 戸惑ったようにしながらも、エミールは言われるがままに、自身の小指を持ち上げて、ロズリーヌのそれに絡めた。


「たまにうちに来るしょうにんの人が、言ってたの! 東の国? では、こうやって、こゆびでやくそくするんだって!」

「やく、そく……」

「うん! わたしたち、けっこんするやくそくをするんでしょ? だからね、それといっしょなら、ごめんなさいするの、かんたんだとおもう!」


 ね、とロズリーヌは絡まり合った小指を掲げる。

 それは、太陽の光に当てられて、キラキラと輝いて見えた。

 結婚する、二人だけの約束。


「――ごめんね」

「いいよ!」


 くしゃりと顔を歪めて、エミールは泣くように笑った。

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